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#7
「あなた、あなた」
その声に、乙彦が目を開ける。
登山の格好に身を包んだ女性が自分を見下ろしていた。
「あなた・・・起きて」
妻だとわかった。綾乃が手を差し出す。
「こんなところで寝ていたらご来光は拝めないわよ。あともう少しだから、がんばろ」
乙彦は妻の手を握る。その手は氷のように冷たかった。
「手が・・・冷たい」
「グローブを片方、どこかに落としてしまったのよ。あなたの手で温めて」
乙彦は凍えるような妻の手を握り、立ち上がる。そして、もう片方の手で、綾乃の手を包み込んだ。
「あなたの手はいつも温かいわね。グローブしているよりよっほどいいわ」
「じゃあ、手を握って登ろう」
辺りは真っ暗だったが、空には満天の星が輝いていた。
「思い出すね」
綾乃の言葉に乙彦は、前を向いたまま、何を?と訊ねる。
「富士山。最初に声を交わした夜のこと、覚えてる?」
「もちろん。忘れられない夜だよ」
「あの時、円盤が見えただなんて嘘言って」
ふたりは手を繋いだまま、険しい岩山の登る。
「それね、嘘じゃないんだよ」
夫の言葉に、綾乃が立ち止まる。乙彦も立ち止まる。
「ほんとに見たんだよ」
「嘘でしょ」
「いや、ほんとに見た。でもね、君が怖がるといけないと思って、うやむやしたんだ。ほんとは、その円盤に捕まって連れ去られるはずだったんだよ。でも君が山小屋から出てきて、円盤は姿を消した。綾乃が僕を救ってくれたんだよ」
ふたりの視線が交錯する。
「綾乃、いつも本当にありがとう。俺はいつも君に救われて来た気がする」
妻は優しく微笑むと、言った。
「お互い様よ。あなたがいなければ、私もここまで来れなかったわ」
ふたりはかたく手を繋いだまま、自分たちの行く先を、じっと見つめた。
【了】
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