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午後21時30分
階段を降りて、建物の正面入口から外へ出る。
ふと思いつき、振り返って三階の辺りを見ると、あの子が通路に出てきていた。
僕が顔を上げたことを認めると、片手を挙げて振ってくれる。
僕は目が悪いから、その表情までは確認できなかったけれど、おそらく笑ってくれているに違いない。
こちらも片手を挙げて振り返す。
街灯の真下。順当な夜の支配。
忘却のそれから、小さな予感。
何だったろうか、と頭をかすめる片鱗。
考えている自分、思い出そうとしている、この頭。
僕からあの子へと伸びる影を知り、気づきの予感。
けれど、そこから先へとは進まない。閃きの消散。
……まあ、いいか、と肩をすくめて切り替える。
ゆっくりと歩を進める。帰路へと。
名残り惜しさと、小さな罪悪感を抱きつつ、僕は道の角を曲がった。
午後21時45分
車通りの少ない道、その歩道をひた進み、幾度か角を曲がり、住んでいる賃貸マンションへと辿り着く。
正確には、鉄筋コンクリート造のビルその三階からが居住用として開放されており、僕はそこに入居している。通常のマンションやアパートと異なる部屋割り当てのため、たまに郵便局の人が混乱して請求書が行方不明になったり、出前を頼んだら配達の人が僕の部屋を見つけられずに電話がかかってくる等が難点だけど、防音が素晴らしく、通っている大学からもかなり近いため、僕はこの部屋が気に入っている。
外階段を上がって三階へ到達。
ポケットから鍵を取り出して。
玄関扉を開けた。
「おかえりなさい」
かけられた声に、僕の意識は軒並み強奪され。
目の前に立つ女性のシルエットに飛び上がるほど驚いた。
呼吸が止まり、身体の中心線に冷気が走った。
僕の心臓が生まれつき弱かったなら、この瞬間に死んでしまっていただろう。
玄関で固まったまま、僕は瞬きを繰り返す。
ここまで遅れて、ようやく現実を認識。
目の前にいる彼女が誰かを認知。
「……ただいま」
どうにか、声を絞り出す。
「電気、点けてもいいかしら?」
彼女が聞く。
「ああ、うん」
僕は頷く。
パチン、という音と共に明かりが灯る。
蛍光灯の強い白。
遠ざけられる黒。
その下で真っ白な服を着て、僕を出迎えた彼女。
「聞いてもいいかな?」
「はい、何でしょう?」
僕の問いに、彼女は微笑んで応える。
「どうして今日、僕の部屋にいるの?」
「貴方が昨日、合鍵をくれたから、私、とっても嬉しくて、舞い上がってしまって、貴方が帰ってくる前に、晩御飯を用意して待っていようとしたの」
「それで、ご飯を作って、待っていてくれたんだね」
「ええ、そうです。冷蔵庫の中に、ビーフシチューが入っているわ」
「嬉しいな。僕の好きなものを覚えてくれていたんだね」
僕も微笑んでみせる。自分の顔が引きつっていないことを願いつつ。
「勿論よ。好きな人の好物は聞いたら忘れないわ」
「そっか。うん、それも、嬉しいな。ああ、それと、もう一つ、聞いてもいいかな?」
「どうして、電気も点けずに玄関で立って待っていたのか?」
彼女が僕の疑問を先回りして口にした。
嫌な予感はしていた。
その予感は、この瞬間、確信へと変わった。
これがどうして異常事態でないと言えるだろう?
身の危険を、事態のひっ迫性を、感じるなという方が無理というもの。
「私も、貴方にいくつかお聞きしたいことがありますの。よろしくて?」
彼女は僕の問いを口にするだけして保留にし、そう聞いてきた。
「え? うん、いいけど、なに?」
僕は平静を装って問い返す。
「帰りがずいぶん遅かったけれど、どこかへ寄っていたの?」
「カフェで課題をしていたんだ。今日、大学で力学の宿題が出ただろう? あれを片づけていたんだ」
そう返すと、彼女はすたすたと、こちらへ歩み寄ってきて、僕に抱きついた。
その体勢のまま、彼女が手を伸ばして、ずっと開きっ放しだった玄関を閉めた。
この時、僕はどうしてだか、ゾッとした。
退路を断たれた、と感じたからか。
それとも、捕まった、と認識したからか。
浮かんだ理由はどれも、付き合っている彼女に対して抱くようなものではなかった。
「……確かに、コーヒーの匂いがするわ」
「どうしたのさ。君らしくない」
「確かに、私らしくはないわね」
身体を離して、彼女が笑う。
この笑みは、いつもの彼女の笑みだった。
「ねえ、貴方は、私のことが好き?」
「勿論だよ。どうしてそんなことを聞くの?」
「貴方は、私の家柄や、私の立場に魅力を感じたから、交際を始めてくださったの?」
彼女は僕の返しを無視して質問を続ける。
「それは違う。断言しておくけど、僕はそういうものに興味がない。告白した時にも、そう告げたよね? そんなつもりで君と付き合ってなんていない。そんな悲しいことは言わないで欲しい」
「ええ、そうですね。ごめんなさい。貴方がそう言ってくださったことはしっかりと覚えています」
彼女は微笑んで頷く。
「嬉しかった。とっても嬉しかったんです、私。大学に入ってすぐに、こんな素敵な男性と出会えて、私の家柄や、令嬢という立場や、外見の美貌をほめそやすのではなく、私の内面を、私の人格を、評価してくださった。私の趣味を聞いて、私と可笑しなお話をして、笑い合って、おふざけをして、そんな時間が楽しいと言ってくださった。それが私も、本当に楽しくて、本当に嬉しくて、そうしていくうちに、私は、貴方のことが好きになりました」
「うん、そう言ってくれたよね」僕は頷く。
「覚えてるよ。ちゃんと覚えてる。僕にとっても大事な記憶だ。だからこそね、どうしたの? って聞きたいんだ。何かあったなら、話してみて欲しい。僕は……」
「貴方は、午後六時には大学の敷地を出ました」
彼女が、僕の言葉を遮って言った。
「移動方向は貴方の自宅、つまり、このマンションへ向かっているようでした。だから、私、初めは普通に貴方と合流して、手料理を食べていただくつもりでした。その予定を変更したのは、貴方が別のマンションへ入っていく姿を目にしたからです」
彼女が放ったその言葉に対して。
僕は息を飲んでしまった。
多分、目も見開いてしまったと思う。
しまった、と後悔しても、遅かった。
彼女の視線は、僕の反応を追っていた。
つぶさに観察して、見逃さなかったろう。
「貴方は、疑わしい行為をしました。でも、ここまでならまだ、疑惑の段階でした」
彼女が続ける。
「私は問いました。どうして遅くなったのかと」
笑みは、もうない。
「貴方は嘘をつきました。カフェに寄って課題をしていたと」
彼女は僕を見つめている。
「貴方の身体からは、確かにコーヒーの匂いがしました。それと同じくらい、女の匂いも」
鋭い眼光で、僕の目を貫き、その奥の脳を串刺しにしようとするかの如く。
「そしてなによりの証拠は、貴方の影が、私から離れたこと」
その指摘に、僕は思わず自分の足元へ視線を走らせた。
嗚呼。
しまった。
なんてことだ。
もし仮に、ここまでの失態が全てなかったとして、上手く誤魔化し、一つとして証拠が挙がらなかったとしても、これが違ってしまっていては言い訳のしようがない。
僕には、不思議な力があった。
超能力というには、あまりにも些末で、別段、役に立つものでもない。
では、何ができるのかといえば、接触した異性、もしくは、好意を抱いた相手と、自分の影をくっつけることができる。付けた影は際限なく伸びる。互いが近づけば縮む。これだけである。
影を付けたからといって、相手を操作できるわけでもないし、言葉を用いずに意思を介することができる、遠距離でも念力のように会話ができる、などの便利機能なども拡張されることはない。
ただ一つだけ、利便性というか、使い方によっては危険で不謹慎なことができてしまうのが、遠距離であれば、相手が現在どの方向にいるのか、近距離であれば、住んでいる部屋はどこか、などを影伝いに辿ることができる、というもの。
勿論、僕はこの不可思議でしようもない能力を悪用したことは一度たりともない。そんなことをする理由がないし、ストーカなどの犯罪行為に手を染めたくもなかった。
だから、目の前の彼女との交際が始まってからも、この能力のことは黙っていた。打ち明けるつもりもなかった。それなのに、これの詳細を彼女がこうして知っているのは、彼女が聡明で、とてつもない観察眼を有していたからであり、超常的な力の存在を、パニックを起こすことなく受け入れ、理解し、不思議なこともあるのですね、と笑ってみせた、それだけの胆力と器を持った存在であるからに他ならない。
彼女に気づかれ、つい話してしまったこと、それ以上の追求などされず、また僕達の交際や、大学で過ごす日々には何の支障もなかったことから、僕は話したこと自体を忘れかけていた。影の特性も、常に頭にあるわけではない。ふと思い出すことはあっても、それについて真面目に考えることはなく、検証してみようだとか、他人に披露してみせようなどとも発想しない。
故に、この時、この瞬間まで、僕の意識には、影の特性や、影が現在、僕と誰を結んでいるかなど、眼中になかったのである。
「言い訳のしようが御有りかしら?」
彼女の問いかけに、僕はゆっくりと視線を上げる。
彼女の顔を見るのが恐ろしかった。
どうして僕は、浮気などしてしまったのだろう。
こうも考え無しに、欲に任せて行動してしまったが運の尽き。
どう考えても僕が悪い。それに輪をかけて、自分の浅はかさ、愚かさに打ちのめされる。
「ねえ、聞いてもいいかしら?」
彼女は再び微笑んでいた。
けれど、それは笑みには見えない。
怒りと狂気で吊り上げられた口角を、笑っている、などと表せるはずがない。
「相手はどこの女なの? 私達と同じ大学の女かしら? それとも私より歳下の子? もう今更だけど、貴方、一体何をしているの? どういうつもり? 私が何をしたというの? どうして、こんな酷い真似ができるの? 私がどれだけ傷つくか、想像できなかった? 互いに好き合って、合意の上で交際しているのだから、差し出すのは当然、全力の愛よね? 受け取るのも、全力の愛。だからこそ、お付き合いは成り立つ。そうよね? 当たり前のことよね? そうでしょう? 愛していないなら、一緒の時間を過ごしたりなんてしないでしょう? 合鍵を渡して、同じ空間に居ようなんて思わないわよね? 実った恋を毎晩喜んだり、照れくさい愛の言葉を囁いたり、愛を交わしたりなんてしないわよね?」
「ごめん、僕は……」
「謝って済むことだとお思い?」
「いや、そんな……」
「お散歩に行きましょう」
唐突の提案に、僕は固まってしまう。
おさんぽ?
ああ、お散歩、か。
でも、どうして?
「今から? どうして? だって、僕が言うのもなんだけど、僕達、今、それどころじゃあ……」
「目的地があって、そこに用事があるからよ」
彼女はそう答えて。
一度だけ振り返る。
玄関のすぐ近くにキッチン。そういう間取りだからだ。
流しから何かを掴んで、こちらへ向き直る彼女。
短い金属音。
シンクに当たって音を出したそれは包丁。
視線を上げる。
彼女を見る。
彼女の表情を、僕は見た。
「ほら、早く行きましょう。貴方が先に行かないと、影を辿れないじゃない」
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