1人が本棚に入れています
本棚に追加
「おかえりなさい。いつもより遅かったわね。ご飯はどうするの?」
「…………」
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いてるよ。宿題終わってから食べる。いつも言ってるのに聞かないで」
「いつもって、たまに先に食べる日もあるでしょう?」
不貞腐れた様子で、高校二年生になった娘――加奈は二階に上がって強く扉を閉めた。
私は都内に住んでいるごくごく一般的な母親だと思う。
会社員の夫を持ち、今現在、反抗期の娘に悩んでいる。
加奈はいつからか「ただいま」を言わなくなった。朝の「いってきます」はごくたまに聞くけれど。
理由はわからない。学校が、嫌な場所なのかもしれない。
◇
高校二年生に上がって部活が忙しくなった。
一度も門限を超えたことがないのに、母は「何時に帰ってくるの?」と心配そうにラインをしてくる。
それを友人に見られて、私は凄く恥ずかしくなった。
帰るなり、すぐに私を子供のように扱う。ご飯はどうするの? 宿題は? 手は、洗った?
なんでそんなに信用がないのだろうか。
自分を大人だと言い張るつもりはない。確かに失敗するし、間違っているときもある。
でも、そんな捲し立てるような言い方はやめてほしい。
学校は楽しいけど疲れるんだよ。家に帰ったら、もっと普通に出迎えてほしい。
なんで、なんでわかってくれないんだろう。
◇
「ただいま」を言わなくなった原因を夫に相談してみた。
結論として「何か悩んでいるんじゃないか」となった。
思えば経験がある。高校時代、なんだか疲れてしまって人と話すのが嫌になった。
特に家族の会話が疲れるようになった。
加奈は感受性の豊かな優しい子だ。
幼い頃、近所の動物園へよく一緒に行っていた。
大好きだったゾウさんが寿命でなくなって、延々と泣いていたことを思い出す。
もしかして加奈は、何かに疲れているのかもしれない。
◇
「何か悩んでいるならいつでも言ってくれていいのよ」なんて母が言ってきた。
嬉しいよ。その気持ちは嬉しい。私の事を思ってくれているだろうし、母が優しいのはわかっている。
幼い頃、動物園によく連れて行ってくれたことを思い出す。
私はゾウさんが好きで、毎日毎日、本当に毎日、檻の外からゾウさんを眺めていた。
今だからわかる。だいの大人が、ゾウさんを毎日見続けるのは退屈だろう。
母はスマホを触るタイプでもないし、かといって無責任でもないから、ずっと私の傍にいてくれた。
それって凄く大変なことだ。
だから言いたくない。母が今の私の悩みだなんて、そんなこと。
言えないよ。
◇
「何もないから。ほっといてほしい」後日、加奈から返ってきた答えは冷たかった。
やっぱり何かあるに違いない。でも、もしかしたら私を疎ましく思っているのかも。
加奈はもう子供じゃない。門限だって一度も超えたことがないし、帰るときは連絡もしてくれる。
ただ物騒なニュースが連日流れてくると、心配になってしまう。
加奈にもし何かあったらと思うと、怖い。でも、それ以上に嫌われたくない。
もう、何も言わないほうがいいのかも。
でもそれって、本当に母親なのかな。
◇
母が私を露骨に避けるようになった。もちろん、私の言葉が原因なのはわかっている。
嫌いなわけじゃないよ。そんなに距離を置かなくていいよ。ただ、普通にしてほしいだけなの。
これが私のわがままなのはわかっている。
母は心配症だ。それこそ、テレビで物騒なニュースがあると、私に対して「今日は外に出るのやめといたほうがいいんじゃないの?」と言ってくれる。
嬉しいよ。嬉しいけど、それを理由に友達との約束を断るなんてできないよ。
ありがとうねお母さん。でも、聞けないときもあるよ。
◇
「おかえりなさい」を加奈に言わなくなって数週間がたった。娘は変わらず普通で、何かを気にしている様子もない。
ママ友と話していると、時代は変わったなんて言葉がよく出る。
もしかしたら今はそんなことを言う必要がないのかもしれない。ただ加奈を明るく出迎えて、娘が話したいときに聞いて、それにたいして答える。
でも本当にそれでいいのだろうか。ただ前と違って言い合いはしなくなった。
それなのに、心の距離は離れている気がする。
◇
「おかえりなさい」を母から言わなくなって数週間がたった。きっと私が「ただいま」といわなかったからだ。
家に帰るとき、考え事をしているときがある。今日の出来事を振り返ったり、玄関で靴を脱いでいたら、友達からラインがくるときもある。
そんな時、口から出る言葉は「ちょっと待って」になる。母からすれば食事の用意をしていたり、洗濯だったり、何よりもコミュニケーションを重視してほしい気持ちもわかる。
でも私も頭がいっぱいだったりするんだよ。
わかっていてもできないことがある。
お母さんと、もっと話したい。
◇
動物園のチラシがポストに入っていた。いつのまにかリニューアルしていたらしく、来週オープンだそうだ。
驚いたのはゾウをメインとした大きな檻ができるとのこと。
加奈に見せたら喜ぶかなと思ったけれど、高校生の娘が今さらゾウなんてとなるのかもしれない。
大人になっていくのは当たり前だし、昔好きだったものが今では何も思わなくなることはある。
私だって何度も経験してきた。大好きだったバンドがテレビに映っていても、チャンネルを変えることができる。
加奈は今でも、ゾウさんが好きだろうか。
◇
お母さんが動物園のチラシを見ていた。横からチラリとのぞいてみたら、なんとゾウさんをメインとした大きな檻ができるそうだ。
見てみたい。おっきくて鼻の長い、可愛いゾウさんに会いたい。
でも、母に行きたいだなんていったらどう思うだろうか。
それこそ毎日見ていたのだ。また? なんて思われるかもしれない。
母は優しいから断らないだろう。でも、心の中でそう思われたらいやだな。
お母さんに、どう話したらいいかな。
◇
テレビで動物園のニュースが特集されていた。私は何気なくを装って「へえ、見てみたいわね」といった。
加奈は「じゃあ行く?」と返してくれた。嬉しかった。私は凄く小さな声でいった。それを聞いてくれていたということは、まだゾウのことが好きなのかもしれない。
夜、加奈の幼い頃の写真を見返していた。
ゾウさんの鼻に触れながら満面の笑みを浮かべている。
もしこの笑顔がまた見られるのなら、嬉しい。
◇
お母さんが何気なく言った言葉を、私は聞き逃さなかった。
動物園、ゾウさんが楽しみ。
何よりも久しぶりに二人きりのお出かけだ。
動物園に到着。確かにリニューアルされていたが、細部までは覚えていないので、なんだか綺麗になったかも、という印象だった。
それでも、ゾウさんのエリアに近づくと心が高揚した。
はやる気持ちを抑えて、檻の外で足を止める。
大きい。大きい。幼い頃見ていた時と同じ感情がよみがえってくる。
ああそうだ。今思い出した。私はゾウさんが好きだったけれど、もう一つ好きだったものがある。
それは隣で私見ていてくれた母の事だ。
動物園に行くと、母はずっと私だけを見てくれていた。それが嬉しかったのだ。
あの時と違ってずっとゾウばかり見ることはなかったけれど、帰り際、もう一度ゾウさんをみた。
「楽しかったね。昔を思い出したよ。お母さん、毎日付き合っていてくれてたよね。ありがとう」
気づけば私の口から、素直な言葉があふれていた。
◇
ゾウをみた加奈の横顔は、過去の記憶と色あせない笑顔だった。
もちろん高校生になったから満面の笑みとまではいわないけれど、頬を緩ませる姿は昔と変わらない。
一緒に来られてよかった。
ただ、次行こうかといわれたときは、当たり前だけれど少しだけ悲しかった。
私はまた“母親”になってしまっていた。「飲み物は?」「暑い?」「忘れ物ない?」なんて、何度も聞いてしまった。
帰り道、一人で反省していたら、加奈が昔の事を覚えていてくれていたらしくありがとうといってくれた。
嬉しかった。
母親になってから気づいたことがある。それは、決してなんでも知っているわけじゃないということだ。
加奈が一歳になれば、私は母親として一年目になり、加奈が二歳になれば、私は二年目となる。
お互いにわからないことがわかっていく。親子はそうやって成長していく。
帰り道、加奈と沢山話した。部活の話や学校の話。また自然な笑顔を見せてくれた。
自宅に到着。扉を開けて中に入ると、なぜか仕事に行っていたはずの夫がリビングにいた。
「おかえり。動物園はどうだったの?」
「え、何してるの? 仕事は?」
そこでふっと我に返る。口から出たのは「ただいま」ではなかった。そこで、気づく。
そうか。加奈も色々考え事をしていたり、何か言いたいことがあったのかもしれない。私に対して、質問したいことがあったのかもしれない。
なのに私は、加奈に対して次々と話しかけすぎてしまう。
もっと、加奈の話を聞いてあげるべきだった。
◇
本当に楽しかった。お母さんはいつも通り優しくて、自分も疲れているはずなのに「暑くない?」「飲み物買ってくるから待っててね」なんていってくれた。
母とは、無条件に愛をくれる素敵な存在だと思う。
これから先、どれだけ私が間違っても母だけは愛情をもって接してくれるとわかる。
なのに私は母の気持ちをわかろうともしなかった。
私は母が大好きだ。だからもっと気持ちを伝えよう。
あれ、なんでお父さんが家にいるの?
翌日、学校が終わって自宅の玄関の前で立ち止まる。
私はスマホを深く鞄の奥にしまいこんだ。
扉を開く。偶然、母が廊下を歩いていた。突然の事で驚くも、すぐに声をかけようとした。
すると――「加奈、おかえりなさい」
母は、柔らかい声でそういってくれた。
話したい。今までの事や思っていたこと。
でもそれは後でいい。
いつもありがとう。私の事を考えてくれてありがとう。
「ただいま、お母さん」
満面の笑みを浮かべる母を見て、これからはもっと素直になれる気がした。
最初のコメントを投稿しよう!