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恋なんてするもんじゃない①
子どもの時から何者かになりたかった。
群衆の中の一人ではなく、抜きん出た特別な存在。
他者に影響力を持つ成功者。
最初それは漠然とした夢だったが、そのうち渇望となり、隼人にとっては生き抜くための絶対条件になった。
隼人の母親は既婚者との間に出来た子どもを親に預けたきりで、ほとんど実家に寄り付かなかった。
封建的な小さな村で、父親のいない隼人は、あからさまな悪意にはさらされなかったが、常に憐れみを受けてきた。
なにかの折に大人が菓子などを配るときにも『隼人は可哀想だから』と余計にくれたりする。
小学校に上がった時も、『隼人くんの家はお父さんがいなくて、お母さんが遠くに働きに行ってるから大変でしょ』と担任が給食で余った食パンを袋に詰めて渡してきた。
ちくちくと熱いもので胸が詰まったが、悔しさを言葉に出来ず隼人は黙ってパンを受け取った。
そして蛇神村に入る前に、川に投げ捨てた。
教師は書面でしか隼人の家の事情を知らなかったが、隼人の祖父母の家は村の中では裕福な部類に属した。
だからこそ母親は、自分が一人で育てるよりはと息子を親に預けたのかもしれない。
ただ古い家であるには変わりなく、厳格な祖父は事あるごとに不始末をしでかした隼人の母を罵り、隼人や祖母に辛く当たった。
祖母の秋子は優しい人ではあったが、弱かった。横暴な夫に口答えどころか、身動き一つせず頭を下げ続けた。
隼人も祖母と同様に岩のように動かず、嵐が去るのを待った。
転機が訪れたのは、隼人が十歳の時だ。
実の父親の本妻が亡くなり、隼人の母親と再婚した。
隼人は村を出て、年老いた実父と初めて会った。
実業家の父親は隼人を後継者として厳しく育てた。
隼人に何度も言い聞かせた言葉がある。
世の中には二種類の人間しかいない——己の役に立つか、立たないか。
快楽を求めて時間を浪費するな。
貧乏人とは付き合うな。
全く好きになれない男だったが、父親の哲学は隼人に多大な影響を与えた。
もう一人、隼人が強く惹かれた人物がいる。
コロンビアの麻薬王、パブロ・エスコバルだ。
隼人がパブロについて書かれた本を読んだのは、中学生の時。
『パブロは22歳までに100万ドル稼げなければ自ら命を断つと決意した』——この一文を読んだ時、隼人の身体が震えた。
強く決意するとは、こういうことだ!
決断とは字の如し、『決めて断つ』ことなんだ!
もう二度と惨めな思いはしない。
そう強く決めた隼人は、自分の目標に関係のないあらゆるものを絶った。
付き合う人間は慎重に選んだ。
女からどんなに言い寄られても時間と金の浪費でしかないと考え、割り切った関係を守る相手としか交わらなかった。
高校生で起業し、大学卒業する頃には父親を超える年収を得た。
日本のイマン・ガジともてはやされたが、マスコミにはいっさい出なかった。
隼人にとって大衆に顔を知られることは無駄でしかないからだ。
隼人が三十歳になった二ヶ月後の五月、祖母の秋子が亡くなった。
隼人は急いで蛇神村に駆けつけた。
隼人の母親は葬儀が終わると後片付けを隼人に任せて、とっとと東京に戻っていった。九十過ぎて認知症を患っている夫を施設に入れて、本宅で若い愛人と楽しく暮らしているようだ。
祖母のガンが見つかったのは去年のこと。
祖母は少しづつ片付けをしていたのだろうか、隼人が幼少期に過ごした家はきちんと片付いていた。
手紙や日記、アルバムなども見当たらない。
隼人が教えて始めた『アカシア日記』のブログ記事だけが、晩年の秋子の心情を綴った唯一のものだった。
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