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恋なんてするもんじゃない②
祖母の遺品整理も終わり、そろそろ村を引き上げようかと考えていたある日、日課のジョギングから村に戻った隼人は、駐在所の前で声をかけられた。
「隼人さん、うちの人、みませんでした?」
村の駐在、田所の妻の栞里だった。
スマホを握りしめた栞里は、弱りきった顔で小首を傾げながら隼人を見上げる。
「いくら電話しても連絡、つかなくって……東京からお客さんが来るのに、部屋の準備もまだだし……皐月さんが、点検しに来るのよ……私、あの人に怒られちゃうわ……どうしましょう……」
どうしましょうと言われても、隼人には返答の仕様がない。
「……お布団も、古いのしかなくって……お客さんに出せるものが、ないのよ……」
「祖母の遺品に新しい布団があるので、持ってきます。あと何か入り用のものは、ありますか?」
「何がいるのか、私には、さっぱり……隼人さん、中を見てもらえません?」と栞里は駐在所の中に隼人を招く。
自分が見てもしょうがないだろうと思いつつ、隼人は中に入った。
建物の前はよく通るが、隼人が駐在所の中に入るのは初めてだった。
中は古い木造建築の匂いがした。
スチール製の机と、パイプ椅子。
奥には四畳半程度の板敷きの間があったが、その板がひどい。変色し、所々剥げたり反り返ったりしている。
ビールや缶酎ハイの空き缶も転がっていた。
駐在夫婦は近くに自分たちの家があり、ここには住んでいない。
長年人が住んでいなかったのだから仕方ないが、いくらなんでもこの上に布団は敷けないだろう。
隼人は処分しようとしていた白いウッドカーペットがあるのを思い出した。サイズ的にもちょうどいい。
「この床に合う敷物を取ってきます。ゴミを片付けていて下さい」
返事がないので、隼人は振り返って栞里を見た。
栞里はぐったりと、パイプ椅子に腰掛けている。
「——隼人さん、うちの人、捕まるんじゃないかしら……」
「田所さん、何か悪いことしたんですか?」言いながら隼人は土足で床の間に上がった。
他に何が必要なのか見てみようと思ったが、靴を脱いで上がる気がしない。
「東京から来る人、研修なんかじゃなくて、あの人のこと調べに来るんじゃないかしら」
板の間の右には急な階段があり、左には小さな台所があった。
流しにタバコの吸殻が数本落ちている。
「大丈夫ですよ。知り合いに聞いたんですが、警察庁の人間が交番に研修に来ることって、本当にあるらしいです。おかげで現場が混乱して、めんどくさがられてるみたいですよ」
警察庁の人間が駐在所に来ることに疑問を持った隼人は、知り合いの検事に訊いてみた。
もしかして自分の監視が目的なのではと疑ったからだ。
容疑は晴れたが、身に覚えのない件で拘束されてからは、警察への不信感が強くなった。
『心配ないよ。そこに行くの宇佐美警部だろ? 会ったことあるよ。霞食って生きているようなボンボンって感じだ。研修先を決める宇佐美の上司は、エリート中のエリートだ。警視庁の手伝いなんか引き受けないだろ』
お育ちの良い、お坊ちゃん警部か——隼人は早朝に自転車で走り去った男を思い出しながら、廃墟のような部屋を見回した。
流しの下に車の鍵が落ちている。
隼人は鍵を拾い上げて、それを栞里に見せた。
「これ、落ちてました」
「やだあ! そんなとこにあったの?」鍵を見た栞里は勢いよく立ち上がった。「車があるのに、鍵がないから困ってたのよ!」
隼人から鍵を引ったくるように受け取ると、栞里は駐在所から出ていこうとする。
「私、あの人を捜しに行ってくる! あとのことはお願いね!」
(え?)
ポカンとする隼人を残して、栞里は行ってしまった。小走りで『蜿り橋』を渡っていく。
なぜ自分が駐在所の掃除をしなければならないのだとは思うが、ここが人の住める状態でないのを知ってしまったら無視は出来ない。
(……とりあえず、布団が敷けるくらいにはしておくか)
隼人は台所を点検した。
小さな冷蔵庫は使えそうだが、プロパンを止めているのか、ガスが点かない。
鍋類も食器も何もなかった。
次いで隼人は台所横の通用口に目をやった。
たたきに何かが落ちている——。
手に取り、表に返す前に、隼人にはそれが何か分かった。
蛇の面だ。
(懐かしいな……)
昔は自分の家にも飾ってあった。
村に代々伝わる魔除けの面だ。
どこから落ちたのかと隼人は部屋の壁を見上げたが、面を飾るような位置に釘は刺さっていなかった。
隼人は面を片手に急な階段を上がった。
天井が低く、身を屈めなければならない。
二階は真っ暗だった。
手探りでスイッチを探したが、明かりはつかなかった。
下からのわずかな光を頼りに、窓にたどりつく。
腰窓を開けて、固くなった雨戸を引くと日の光が入り、川の音が聞こえた。『蜿り橋』もよく見える。
別な窓も同じように開けると、気持ちのいい風がさっと抜けていった。
こっちの窓からは神社へと続く石段とその脇に植えられたアカシアが見える。
アカシアは今が花の盛り。
甘い匂いが風に乗ってやってきた。
隼人は明るくなった室内を探し回った。
(あった)
やっと蛇面をかけられる釘を見つけた。
蛇面は正しい位置にかけなければならなかった。
正しい位置——お面に向かい頭を下げると、蛇面神社に頭を下げるのと同じになる位置——にしか、蛇面はかけられない。
だが階下には、その位置に釘は刺さっていなかった。
(元は、二階にあったものなのか……)
隼人は蛇面をかけると、手を合わせて頭を下げた。
昔、祖父母と一緒に行ったように。
手を下ろした隼人は、二階の続き間を見ながら短くため息をついた。
蛇面を飾ったからには、ここもきれいにしなければ……。
子どもの時に身についた教えは、なかなか抜けない。
特に神仏に関しては、蔑ろにするほうが気分が悪かった。
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