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恋なんてするもんじゃない④
何かおかしい。
いったい自分はどうしてしまったんだ。
ああ、そうか疲れているんだ……。
重たいウッドカーペットを肩から下ろした隼人は、自分が出した結論に満足した。
栞里から無理やり駐在所の掃除を任されてから動きっぱなしだ。
そろそろ疲れが出てくるのも当たり前だ。
彼が駐在所に入ってくる。「田所さんは、まだお戻りではないんですね」と声をかけてきた。
まただ……。
なぜ交感神経が優位に立つのかわからない。
動機、めまい、発汗、緊張。
「着替えをしたいのですが、お部屋をお借りできますか?」
言われて隼人は「二階、使って下さい」と答えたがうまく声が出ない。
それでも伝わったのか、ありがとうございますと礼を言って彼は二階に上がった。
隼人は深呼吸をした。
平常心を取り戻さなければ——。
彼、名前はなんといったっけ?
ああ、宇佐美さんだと、深呼吸をしながら隼人は思い出した。
二階に文机を持っていき、ゴザに鋲を挿せば全て完了だ。
家に戻っても治らなければ、午後に病院に行ったほうがいいかもしれない。
隼人はため息を一つついて、二階に上がって行った。
宇佐美は、蛇の面の前に立っていた。
着替えの途中なのか、シャツをはだけさせたまま隼人に振り向く。
「これは、何ですか?」と蛇の面を指しながら訊いてきた。
隼人はいままで感じたことのない不快感で顔を背けた。「……魔除けの面です……気味悪かったら、片付けます」
「ここでは皆さん、蛇のお面を家に飾られているんですか?」
「……私が子どもの時は、そうでした」
自分はなぜ不愉快なんだ?
何に腹を立てている?
ゴザを鋲で止めながら、隼人は自分の不機嫌の元を探った。
「こちらの神社に古いお堂があるそうですね、そこも文化財に指定されているんですか?」
自分の怒りの原因を考えていた隼人は、宇佐美の言葉にハッとなった。
「お堂ですか? どこのことだろう?」
文化財に指定された建造物が『蜿り橋』以外にもあっただろうか?
観光客に案内を乞われた時のような素直さで、隼人は考え込んだ。
「林の中に建っているらしいんです」宇佐美は隼人の前に正座をした。「ご存知ありませんか」と隼人の顔を覗き込んでくる。
宇佐美と目が合った途端、隼人の全身の血が逆流した。
「宇佐美さあん! うどん出来たよ!」
下から呼ぶ沢木の声がするやいなや、隼人は勢いよく立ち上がった。
急いで階段を駆け下りる。
再び込み上げてきた苛立ちに胃がムカムカしてきた。
階下には皐月と小春がいた。
沢木を含めた三人は、じっと隼人を見つめる。
「隼人さん」低く小さな声で皐月が言った。「宇佐美さんって、どんな方?」
知りませんよと、隼人は叫びだしたかった。
「もし誠実な方なら、省吾のことを相談してみようと思うの」
皐月の言葉に、小春と沢木がうなずく。
「皐月さんのお孫さん、無実なのに警察に追われてひどい目にあってるだろ?」と沢木。
「こうしてるうちにも、真犯人は野放しじゃんか」と小春。「宇佐美さんって、そういう話を聞いてくれそうな人かい?」
皐月の孫、槐省吾の身を案じる気持ちは隼人にもある。
いや、あった。
だが今の隼人は、それどころではない。
二階に上がってからの不愉快の元が分かったのだ。
あろうことか自分は、彼に欲情した——。
羞恥と自己嫌悪で、誰とも顔を合わせたくない。
このまま駐在所を飛び出したかった。
「どうなんだい隼人!」と、小春が返事を促す。
「……私は……あの人とは、関わり合いたくないです」隼人は険しい顔で横を向いた。苛々した口調で呟く。「……好きになることは、ありません……」
三人ががっかりした顔をしたのも、隼人は見なかった。
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