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恋なんてするもんじゃない⑤
宇佐美が二階から下りてきても、隼人は努めて宇佐美を見ないようにした。
存在を意識しないために。
自分にはもっと大事なことがある!
午後には荷物をまとめて村を出ようと隼人は決めた。
祖母の秋子が病気になっても、一度見舞いに来ただけであとは皐月や小春に任せっきりにしてしまった。
隼人の母親は、さらに冷たい。
負い目からか隼人は皐月に頼まれた事を引き受けた。
秋子の遺品整理をしながら、小春の用事もしてきた。
だがもういいだろう。
村で寛いでいる間にビジネスのアイデアが浮かんだ。
そろそろ腰を上げて動き出さなければ。
「田所さんは、いつ頃お戻りになられますか?」
と宇佐美の声がした時、隼人は(聞こえない、聞こえない)と自分に暗示をかけた。
駐在所を出たら秘書に連絡して、ホテルを取らせる。
タクシーを呼んで村を出る。
そんな段取りを呪文のように繰り返した。
「まだ帰ってこないの?」と小春の声がした。
自分に訊いているようだ。
隼人は黙ってうなずいた。
「朝、出て行ったきりなの? 栞里さんは?」
知りませんよと答えるのも億劫だ。
沢木が代わりに答えてくれて助かった。
「栞里さんは、九時前くらいに田所さんを探しに行ったよ——田所さんの方は朝見たっきり、会ってないなあ——朝五時半くらいに、自転車が倒れる音が二回もして、起きちゃってさ、外出たら、田所さんが自転車に乗って坂上がって行くのが見えたよ」
「あたしたちも、そんくらいの時間に田所さん、見たね」と小春。「自転車のベル、うるさくならしながら、皐月さんの家の方に走っていったよね?」
小春はまた隼人に答えを求めてきた。
放っておいて下さいと、小春に頼みたい。
この会話に入ったら、忘れたい存在を嫌でも意識しなければならないから……。
「それから、ずっとお戻りではないんですか?」と宇佐美の声。
澄んだ美しい声だ——。
どうして彼の何もかもが自分の琴線に触れるんだと、うんざりしてくる。
「田所さん、皐月さんのとこに行ってないの?」と小春の声。
「いいえ。今日は一度も田所さんと会っていません」と答えた皐月は「隼人さん」と隼人を呼んだ。
隼人は顔を上げた。皐月と目が合う。
「そうなんですか?」と皐月。
「隼人さん、どうなんです?」と宇佐美もこっちを見つめてる。
「……はあ……まあ……」と隼人は、また下を向いた。
「なんだよ! はっきりしないね!」と小春がイライラした声を出した。「隼人! 宇佐美さんが知りたがってるんだから、しっかりしな!」
「まあまあ、隼人さんは、栞里さんの代わりにここの掃除して、疲れてるんだよ。労ってあげてよ」と沢木が間に入ってくれた。「第一さ、警官の制服着る人なんか、この村に田所さん以外いないんだし、制服着て、いつもの自転車に乗ってたんだから、田所さんに決まってるよ——やだなあ宇佐美さん、怖い顔しないでよ」
沢木が何を言っても、宇佐美は納得しなかったようだ。
延寿署に電話をして、田所が行方不明だと報告した。
昼食会はお開きとなり、やっと駐在所から出られた。
外に出た隼人は、村を出ることしか考えなかった。
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