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恋なんてするもんじゃない⑥
スタッフに指示を出して、荷造りを済ませた頃だった。
皐月から電話が来た。
——今すぐ来て頂戴。
皐月には、祖母の秋子が病床中さんざん世話になった。
挨拶もなしに村を出る理由にいかない。
隼人はスマホを閉じると、車に乗り込んだ。
祖母が乗っていたオレンジ色のコンパクトカーは、隼人がプレゼントしたものだった。
横暴な祖父が亡くなり、一人になってからの祖母は、意欲的だった。
様々なことに挑戦してやっと人生を楽しみ始めたというのに、ガンとの戦いが始まった——。
『——そんな顔していないで、もっと笑いなさい。人間は楽しむために生まれてきたのよ』
最後に会った時に祖母にこう言われたが、あなたの人生こそどれだけ笑えることがあったのですかと聞きたかった。
小春の家の前を過ぎて、周平の家の前を通ると川沿いの道から外れた脇道が見えてくる。
その脇道に入ると正面に大きな門扉が現れた。
隼人は開け放たれた門の中に車を進めた。
豪奢な日本家屋の玄関から女が出てくる。
この家の家政を仕切っている和歌子だ。
和歌子が小走りで、隼人の車に近づいてくる。
隼人は車を停めた。
「離れにいらして下さい。御前様がお待ちです」
和歌子が御前様と呼ぶのはこの家の主であり蛇神村の村長、槐善之のことだ。
「善之さん、今日は具合がいいんですか?」
隼人が気安く善之と呼び捨てにしたせいか、和歌子は嫌な顔をした。
無言で足早に前を歩いていく。
「皐月さんも一緒ですか?」
「警察の方がお見えになっています。御前様は隼人さんからも事情をお聞きになりたいようです」
「警察? 省吾さんの件でですか?」
和歌子は立ち止まり振り返った。怖い顔で隼人を睨みつける。
「武さんのことも省吾さんのことも、御前様の前では何も仰らないで下さい。御前様がお尋ねになった時だけお答え下さい」
厳しく言うと、和歌子はまた先を歩き始めた。
隼人が槐善之と会うのは子どもの時以来だった。
村にいた時の隼人は、これほど大きな家を見たことがなかったし、大人たちが頭を下げる、槐善之こそ世界の頂点のように思い込んでいた。
和歌子に案内されて部屋に入った隼人は、勧められる前に手近な椅子にどかりと腰を下ろした。じっと正面の善之を見つめる。
後ろで和歌子が嫌な顔をしただろうが、知ったことではない。
槐善之は車椅子に座っていた。
両側にはボデイガードなのか、人相の悪い男が二人付き添っている。
「——警察庁から来たひよっこが手前勝手に大騒ぎするものですから、仕事になりませんよ」
弱りきったような声で善之に訴えるのは、延寿署地域課課長の簗取だった。
その横には田所と同期の青木もいる。
二人は隼人のすぐ横のソファーに並んで座っていた。
「今頃田所は、どこかで酔いを覚ましているんでしょう。夕方には戻ってきますよ」梁取は隣の青木に顔を向けた。「前もあったよな? 病院で二日酔い点滴を受けていて、連絡がつかなかったこと?」
簗取は青木に同意を求めたが、青木は眉を寄せて考え込むような顔をした。
「——そうかもしれませんが、昨夜ここに担ぎ込まれたってのが、気になります——警察庁から来る人間の研修があるってのに、あいつを動けなくなるまで酔わせる奴なんていませんよ。みんなほどほどにしとけって言って帰ってるんです。最後に出たモンも『歌姫』のママに事情を説明して、水割りを薄めに作ってくれ、なんなら水だけにしてくれって頼んで出たって言うんですよ——田所が酔って誰かに担ぎ込まれたっていうんなら、そいつは警官じゃありません」
青木は力強く否定したが、簗取はきかなかった。
「とにかくとっとと田所を連れてこい! 今日中に地域課全員で、あのあまちゃんに頭を下げにいくぞ! あいつの上司に報告されたら厄介だ!」
車椅子の上でじっと動かなかった善之が、みじろぎした。
「隼人——」
低くしゃがれた声だった。
だが善之が一言発した途端、場の空気が緊張した。
「——おまえは、どう思う」
隼人は青白い顔の老人をじっと見つめた。
「人払いをお願いします。あなたと二人だけで、話がしたい」
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