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恋なんてするもんじゃない⑧
——おまえは正道を行け。
低く言うと槐善之は、車椅子の手すりを掴んだ。
ブザーが鳴り、悪人相の男たちが戻ってくる。
隼人は腰を上げた。
「皐月さんにご挨拶をしてから帰ります」
男の一人が、「ご案内します」と隼人の前に出た。
皐月は母屋の台所にいた。割烹着姿で人参の皮をむいている。
大きな台所中に美味しそうないい匂いがした。
「宇佐美さんに、お夕食を持っていってあげて頂戴」
「……私が、ですか」
「ご近所でしょ」
「今夜、発ちます。お別れを言いにきました」
あらと、皐月は手を止めた。
「ずいぶん急ね。お仕事?」
「……はい。しばらくは東京にいます」
そうなのと、皐月はまた皮むきを始めた。
心なしか、淋しげな様子に隼人の胸が痛んだ。
「——防犯カメラの映像は、警察が持って行ったんですか?」
さあどうかしらと皐月は顔を上げなかった。
器用に人参の飾り切りをしている。
「防犯カメラを見れば、自転車で去った男が田所さんではないと、すぐ分かると思うんですが、簗取さん達はまだ気付いていないようなんです」
「どういうこと?」と皐月は眉を寄せた。
「私は今朝、男が自転車で去るのを間近で見ましたが、あれは田所さんでは、ありませんでした」
「あなた、どうしてその事を宇佐美さんに言わないの?」皐月の口調は厳しい。「宇佐美さん一人が、根拠もなく騒いでいると思われているのよ。お気の毒だと思わないの?」
「……はあ」
返す言葉がない。
「他にも何かないの? 駐在所の掃除をしていた時に気付いた事とか、おかしな点とか?」
「……そうですねぇ……流しの下に車のキーが落ちていましたし、通用口には蛇の面がありました」
「蛇の面が?」皐月は心底不快そうな顔をした。
「幸吉さんが作った魔除けの面ですよ。昔はみんな飾ってましたよね? もう飾らなくなったんですか?」
「田所さんは、駐在所に飾っていたの?」
「……分かりませんが、そうなんじゃないですか?」
バカバカしいと皐月は身体を翻し、小ぶりなお重に料理を詰めだした。
「防犯カメラの事は、私が善之に聞いておきます。あなたは知っていること、見聞きしたことを全て、宇佐美さんに報告しなさい。田所さんの身に何かあったら、あなたは証人なんですから、この村から出られませんよ!」
そこに座って待っていなさいと皐月に言われ、隼人は手近の椅子に腰掛けた。
悪戯がみつかり、担任から叱られた小学生のような気分だ。
「お食べなさい」と皐月が皿を寄越してきた。ちらし寿司と鳥の照り焼きが載っている。
頂きますと隼人は頭を下げ、箸を手にした。
——駐在所に行き、また彼に会わなければならないのか……。
ちらし寿司を食べながら、隼人の気分はどんどん滅入っていった。
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