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 週末の休みを前にした金曜日、仕事を終えて晋也(しんや)は一人暮らしのマンションに帰って来た。  残業続きの毎日に疲れて、今日は思い切って定時で職場を出たのだ。  自室のドアの前で鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとしたところで何かが視界の端で動いた。ドアが開く側の隅に、小さな黒い毛玉。  片手で軽く掴めそうな仔犬が、真ん丸な黒い目で見上げて来る。暗がりに黒い犬なので気づかなかった。 「ゴメン、ちびすけ。ペット禁止なんだよ。悪いけど入れてやれないんだ」  ここは所謂借り上げ社宅なので、禁止事項を破ることはできない。  晋也は犬を飼った経験はないが、どちらかといえば猫派だという程度で犬も好きだ。  社宅に住むことを義務付けられているわけでもなく、たとえばこの仔犬を飼うためにペットOKの部屋に移るのは何の問題もない。  ただ、今この部屋に連れ込むのは許されないのだ。  晋也は心を鬼にして小さな黒い塊をひょいと持ち上げて、部屋の前の廊下に下ろした。身を翻して、できる限り素早くドアを開けて身体を滑り込ませようとする。  しかしノブに手を掛けて開き掛けたところ、仔犬が足元に駆け寄って来てしまった。小さな獣は意外と素早い。  これでは(いたち)ごっこだ。……犬だけれど。
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