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菜穂(なほ)。どうしよう、部屋の前に犬がいる」  情けない声でスマートフォンの向こう側に告げた晋也に、恋人はしばしの沈黙の後『……すぐ行くから』と通話を切った。  彼女は晋也のマンション最寄りの隣駅の傍に住んでいて、ここから直線距離なら大したことはない。  さすがに昨日までのような遅い時間なら、一人で移動させるのは危険なので頼るにしても来させる気はなくこちらから訪ねただろうが。 「とにかく晋也の部屋じゃどうしたって無理でしょ。私のマンションはペット可だから、とりあえず休み中は預かるよ。その間になんとか貰い手探そ」  十数分後、おそらくは全力で自転車を漕いでやって来たのだろう菜穂が仔犬を目にしてあっさり告げる。  そのやけに落ち着いた態度に、晋也はつるっととんでもないことを口走ってしまった。 「まさか、──まさかお前が置いたとか、じゃないよな?」  口にした瞬間後悔したがもう遅い。  いったん出た言葉はもう飲み込めないのだ。 「……なんのために? 私の部屋にこの仔引き取って、ついでに晋也も一緒に来て欲しいから、とか? ふざけてんの!?」  もともと高くはないのに、さらに数段低くなった菜穂の声。 「晋也にとって私は、生き物を道具に使うような人間なんだ。しかも、世話しないとすぐ死んじゃいそうな小っちゃい仔犬。よくそんな姑息でイヤな女と平気で付き合ってるね」  背後から立ち上る炎が見えるようだ。  声を荒げることはないものの、本気で怒っている。
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