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 ビルの屋上にいると、時空が歪むと言われている。  特に夜は。  大手生命保険会社のビルの最上階から、屋上へ続く階段を上る。  今日は晴れているので、月が正面で迎えてくれた。  ぼんやりと浮かび上がる手すりと窓の形。  誰もいない空間に、靴音と、呼吸音がやけに大きく聞こえた。  屋上庭園には、天然の芝生が銀色に輝いている。  東屋にLED照明が煌々(こうこう)とついていて、吸い寄せられるように歩いて行った。  小道のレンガタイルを踏みしめて、一歩一歩ゆっくりと。  夜の冷えた空気を肺に吸い込むと、段々と息苦しくなってくる。  幾千幾万の星は、都会の空気に(かす)んで見えず、自分が目指したところも手の届かない彼方にあって、目に映らなかった。  東屋のベンチに腰かけると、背もたれに身を預けた。  街の灯りが下からほのかに明るく照らし、空はうっすら青い。  夢を追って都会に出てきた田舎者には、星は見えないらしい。  こうしてぼんやりしていると、世間に取り残されて、自分だけ歳を取らずに無駄な人生を生きているように感じられる。  深くゆっくりと息を吸い、重い身体を起こして立ち上がった響は、何かに取り()かれたように縁へと歩を進めた。  フェンス越しに、地図のような街の夜景を見下ろして、ゆっくりと息を吐いた。  ビルの窓の明かりは、人の営みの数だけ灯される。  耳を澄ませば、遠く車のエンジン音が聞こえる。 「あれが、東京の灯だ。  俺が居ようと居まいと、関係なしに時は流れていく。  何かを成しても、この灯が一つ、増えるだけだ」  都会の景色に背を向け、東屋へと戻って行く。  柔らかい起毛のジャケットを羽織り、またベンチに身体を預けた。  故郷へ帰りたいとは思わない。  だが、威勢よく飛び出してきても、結局何も変わらなかった。  虚しい。  明日も生きなくてはならないから働く。  そして疲れ切って帰ってくる。  そんな毎日が恐ろしかった。  いつしか、(まぶた)を閉じていた。
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