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遠くでワンワンと犬が吠える声がする。
車のエンジン音がマンションの前を通り過ぎてゆく。
子供らの騒がしい声は近くの公園からだろうか。
それらを意識の先の方で聞き流しながら眠りと覚醒の間を行き来する。
何という心地よさ。
それが至福のひとときなだけに、後からくる罪悪感がハンパない……。
目覚まし時計を手に取ると、私はハーと大きく息を吐き出した。
液晶画面は土曜日の半分を無駄にしてしまったことを告げている。
「またやっちゃった……」
頭を振りながら私は布団の上に体を起こす。
急いで身支度を整えると、日焼け止めを軽く塗って眉を描いただけのナチュラルメイクで外に出る。
お昼過ぎの日差しが起き抜けの肌に突き刺さってくる。
寝起きの状態でも無理矢理外に出てきたのは、所謂『休日引きこもり』にならない為、というのもあるのだけれど……。
私は通りの先にあるものに目を向けた。
自宅マンションから徒歩10分ほど。
ありふれた住宅が並ぶその先に建っているのは、古い造りの赤い屋根のお家。
外見上、そこが何かのお店だとわかるのは、『小鳥堂 営業中』と書かれた木製の看板のみだ。
けれど辺りを漂う香ばしい香りは、何メートルも前からそこが何かを告げていた。
私のお腹がグウと大きな音を立てる。
木製の扉を引くとドアベルがカランカランと軽やかに鳴った。
「いらっしゃいませ」
目尻にシワを寄せてにこやかな笑顔を向けてくれるのはレジ係の奥さんだ。
私はペコリと頭を下げると、急いで4畳半ほどの狭い店の奥に視線を向ける。
私は何も置かれていない上の棚を見つめながら小さくため息を吐いた。
そうだよね。もうこんな時間だもんね……。
レジの向こう側の厨房では、白い作業着を着た小鳥堂の旦那さんが忙しそうにパンを作っているのが見える。
小鳥堂は50代ぐらいのご夫妻二人だけで営業している。だから営業時間は朝10時から商品が売り切れるまで。日曜は定休日。
山型食パンはいつもお昼前には売り切れてしまう人気商品だ。
小鳥堂のパンは私好みのよく焼きタイプ。
焼き過ぎる寸前まで火を入れられた山型食パンのクラスト部分はカリッとしていて香ばしく、中はふわっと柔らかい。
シンプルな配合のそれは噛み締める度小麦本来の旨味が存分に味わえる。
私は少し考えてから、手前に置かれていた角型食パンを手に取った。
しっとり、もっちり食感の角形食パンももちろん美味しい。
美味しいのだけれど……。
食べられないと思うと余計に食べたくなるというものだ。
後ろでカランとドアが開けられる音がする。
うかうかしてたら角型食パンも売り切れちゃう。
私は急いでそれをトレーに載せる。
後から来た客は食パンの棚に目を向けると、大きくため息を吐いてみせた。
その広い背中は傍から見てもわかるほど、しゅんとしている。
長めにとられた前髪の間から覗く切れ長の目と艶のある薄い唇。
ツンと尖った顎は綺麗なラインを描いて耳元まで続いている。
小鳥堂で何回か見かけたことがある男性だ。
私と同じ山型食パンファンだと思うと何だかちょっと嬉しくなる。
その人は私と同じく、少し考えるようにしてから角型食パンをトレーに載せた。
そうそう、両方共美味しいんだけどね……。
私は頷きながらレジに向かう。
「もし、山型食パンをお望みなら次回からご予約もできますよ」
私の様子を見兼ねてか、奥さんが声をかけてくれる。
「えっ! そうなんですか?」
でもそう声を上げたのは、私でなくて後ろの男性。
慌てて口を押さえてみせるところが何だか可愛い。
「はい。ご希望ならハーフサイズにもできますよ」
奥さんは笑いを堪えながそう答えた。
「へえ、それは嬉しいですね」
基本平日、私は朝ご飯を食べない。土日二日間だけでは食パン一斤は食べきれないから、ハーフサイズはありがたい。
冷凍保存もできるけれど、やっぱり焼きたてには敵わないのだ。
「僕もそれ、お願いします」
「では、ご連絡先をお伺いしてもよろしいですか?」
私達は渡された紙にそれぞれ名前と電話番号を記入する。
男性が奥さんにそのメモを渡す時、チラリと見えてしまった。
綺麗な文字で書かれた「前嶋」の文字。
へえ、前嶋さんっていうんだ。
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