第二章 学校 ─ガッコウ─ 3 第3話

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第二章 学校 ─ガッコウ─ 3 第3話

 昼休みになり、前の席の友人が後ろを向いて少年と一緒に弁当を食べていた時のことだった。話題はこの学級(クラス)の女子についての友人の寸評だったが、ある女子がこのクラスでは一番可愛いと語り、少年に同意を求めてきた。可愛いのと綺麗なのはどちらが好みかを尋ね返すと、当然とでも言いたそうに返された。おれは可愛い女の子が好みだな、と。少年が適当に相槌を打つと、友人は急角度に話題を転じた。十八歳になったら免許を取ってどこかへ旅行がしたい。長野県が良いかもしれない、と。  少年は友人が語った「長野県」という単語を耳にして、驚いたように目を見開いた。と同時だった。左側頭部に鈍い痛みを感じて顔をしかめ、それにはなにか理由があるのかを少年は尋ねた。  友人は指折り数えながら語りだした。  まず観光地が沢山ある。上高地に乗鞍岳、美ヶ原高原、大王わさび農場、松本平だけでもこれだけ有名な景勝地が揃っている。美ヶ原高原と諏訪市へはビーナスラインでつながっていて、諏訪近郊には霧ヶ峰があり、黄色い花を咲かせるニッコウキスゲの群生地も名高い。その後はもっぱら寺社仏閣を挙げた。善光寺、慈眼山清水寺、四カ所ある諏訪大社。そして史跡だ。小林一茶旧宅、善光寺平の川中島古戦場、真田氏館跡、国宝松本城、国宝旧開智学校、桜の名所の高遠城址公園。数え上げればきりがないくらいで観光名所の宝庫じゃないか、と。  たしかに、と友人は続けた。  北海道や沖縄も良いところではある。しかし、一つ大きな問題があった。大阪から北海道や沖縄へは陸路で行けないことはない。北海道なら津軽海峡を越えることができないし、もう一方の沖縄も鹿児島県から沖縄島へは、同様に陸路では行けない。が、フェリーを使えば可能ではある。ただ一番の問題は、距離が遠すぎるということにあった。行くだけで疲れてしまうし、時間もかかってしまう。それも旅の醍醐味なのだが、一日中車を運転しなくてはならないことを考えると、とても現実的ではない。  友人は大仰に足を組み替えた。  大阪から五〇〇キロ圏内で探すとなると、東京辺りか長崎辺りになるだろう。  千葉県にある世界的に有名なテーマ・パークも悪くはない。だが、そこはあえて除外する。なにもわざわざ人混みの多い夏休みに行くこともないだろう。アトラクションに入るのに一時間以上も待たされては、楽しめるものも楽しめない。  長崎にも良いところはあるだろう。食が美味いのもわかっている。だが、それもあえて除外する。観光目的なら、失礼を承知で言うのだが、ほかにもっと良い県があるだろう。  そこで浮かび上がってくるのが中部地方にある長野県というわけだ。  もったいぶったように友人が語るのを少年は、頭の痛みを堪えながら聞いていた。  先刻(さっき)言ったとおりだが名所に事欠かない。上高地や乗鞍岳はたしかに人の賑わいは多いだろう。しかし長野県にはそれ以外にも名所がある。旧中仙道を通れば『宿場町』や『寝覚の床』という観光地がある。移動距離も程良い。これほど魅力的な場所がほかにあるだろうかと友人は力説した。そして最後につけ加えた。蕎麦が美味いということを。  少年は黙って話を聞いていた。しかし、最後のほうは頭に入ってこなかった。友人が語った「旧中仙道」と「寝覚の床」という二つの固有名詞を耳にして、背筋が凍りついたかのような寒気を感じ、わなわなと震えだしていた。  少年の左側頭部に先程よりも強い痛みが走った。息が荒くなり、手は明らかに震えていた。少年はその震えを抑えるためにもう一方の手で押さえた。しかし、震えは治まらなかった。  友人は気配を察して心配そうに声をかけてきたが、少年の耳には入ってこなかった。  少年は激しく顔を振った。嫌な記憶を思い出していた。  あれは夢だっ。  少年は大声で叫んだ。周りにいる生徒たちが驚いたように少年を横目で見て、こそこそと話していたが、それどころではなかった。  激しい痛みが左右の側頭部を締めつけていた。その痛みを堪えるように、少年は頭を抱えた。足元の教室の床を見ていたが、次第に視界がぼやけて二重に見えてきた。枡目状の床が歪んだように見え、気分が悪くなってきた。今朝見た凄惨な夢がフラッシュ・バックしていた。  違うっ、あれは夢だっ。  頭を抱えたまま少年はふたたび叫んだ。  徐々に像がかすんで目の前が真っ白になっていった。やがて光が霧散して、そのあと、視界は暗転した。  友人がなにか叫んでいたようだったが、もう少年の耳には届いていなかった。意識が混濁して、消え失せた。
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