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三枝荘の座敷わらし①
————誰かの幸せのために、自分の幸せを投げ打って尽くすこと。
それは清くて、美しくて、讃えられるべき行いだと思っていた。だけどいつからだろう。誰かの願いを叶えるたび、僕の体は弱っていった。まるで小刀で削るように、少しずつ、少しずつ。
願いの成就に沸く人たちは、僕のことなんてすぐ忘れてしまう。友達のようにふたたび会いに来てくれることはない。みんな幸せになっていくのに、与えるばかりの僕はずっと孤独。ちっとも幸せなんかじゃあない。「どうして僕だけ」なんて思っていたこともあったけど。ボロボロになっていく体を眺めながら、だんだんと諦めの気持ちが強くなっていった。
『人のために尽くして消える人生、それはそれで美しいじゃないか』と。
突如嵐のように現れた「彼女」が僕の横面を言葉でぶん殴るまでは、本当にそう、思っていた。
◇◇◇
「もうっ、本当に最悪!」
梅雨が明け、夏らしい蒸し暑さがやってきた七月の半ば。愛車の真っ赤なオープンカーのハンドルを握り、横小路悦子(よここうじえつこ)は山道を走っていた。ワックスをかけたばかりの車のバンパーは無残にも大きくひしゃげている。下り坂を走行中、不運にも脇見運転の後続車に追突されたのだ。
「無保険ってあり得ないでしょ。しかも修理代払えるアテがないってどういうこと? 自腹で直せって? 直しますけどね! あー腹が立つ!」
ギャアギャアと喚きながら、信号待ちの合間にカーナビを確認する。目的地まではあと少しというところまで来ていた。
本日悦子が向かうは旅館「三枝荘」。全国的に名を馳せる有名宿だ。『三枝荘最奥の間「皐月」に棲みつく座敷わらしが宿泊者の願いを叶えてくれる』という売り文句を初めて耳にした時、そんなバカなと鼻で笑っていた悦子だったが。政治家や財界人、芸能人に加え、身近な友人までも「ここで願いを叶えてもらえた」などとまことしやかに言い出しては、疑い深い彼女も興味を惹かれずにはいられなかった。一年待ちの予約を経て、今日ようやく三枝荘の宿泊日を迎えたわけだが。
「ここしばらくの不運を吹き飛ばしてもらうつもりでやってきたのに。たどり着くまでにこれだけ災難が続くってどういうことよ。座敷わらしどころか、不幸の親玉でも住んでいるんじゃないの?」
家を出てからここまで、運転中カラスのフンに見舞われること二回。うんざりしてルーフを閉じれば、今度は前方の過剰積載気味のトラックから落ちてきた荷物に襲われる。間一髪衝突を避けたと思えば、先ほどの追突事故。
「ほんっとうに嫌になる。私が何をしたっていうのよ」
あまりに神様は自分を疎みすぎていないだろうかと、悦子は特大のため息をついた。
◇◇◇
藍色の紬、トレードマークの赤いちゃんちゃんこ、黒い艶髪のおかっぱ姿。「いかにも」な座敷わらしの姿を描いた土産物のアクリルキーホルダーを見て、若い男は苦笑した。
「まあ、初めの頃はこんな感じだったよね、僕って」
男の紬の着物は擦り切れてボロボロ、ちゃんちゃんこは色褪せて毛羽立っている。体は子どもとは言えないほどに大きく育ち、かつてツヤツヤだった黒い髪は、年月を経て白さを帯びていた。肌艶と身長、顔立ちから推定される見た目年齢は二十歳ほど。
「皐月の間のお客さまたちに、『今の姿はこんなじゃなかったですよ』って言ってもらうように、伝言を頼めばよかったかなぁ」
そんな風変わりな姿をした三枝荘の座敷わらし「ハルキ」は、ぼんやりした面持ちで館内を歩いていた。
「さて、今日のお客さまはどんな人かなっ、と」
落ち込んだ表情なんてするだけ無駄。ハルキが意図しなければ、旅館のものたちは彼の姿を見ることも、声を聞くことも叶わない。「今日は元気がないね」なんて話しかけてくれる同僚はいない。
フロントで薄桃色の着物を着た仲居が宿泊者リストを見ている。ハルキは彼女の背後に回り込み、リストに書かれた名前をチェックした。
「ええと、皐月の間、皐月の間。あったあった。……ん? なんだこの苗字、なんて読むんだ?」
「佐々木さん、ヨココウジ様ってまだ到着されてない? 十二時だと思っていたのだけど」
「あ、女将さん。少々お待ちくださいね。今確認します」
タイミングよく女将がフロントに現れ、仲居の女性に尋ねる。
「へえ、ヨココウジ」
変わった苗字だな、と声に出してみるも、フロントに立つ二人にはハルキの呟きは聞こえない。
「美人起業家でテレビとかにも出ている方だし、しっかりうちの宿をアピールしておかないと。もし迷われているようであれば、こちらからご連絡しなきゃ」
鼻息荒くそう言う女将の言葉に適当な相槌を打ちつつ、仲居は皐月の間の欄を探す。
「すごくお綺麗な方でしたよね。でもご自身で立ち上げられた会社の売却後あたりからは露出が減って————あ、大変」
「なあに、どうしたの」
「横小路様からお電話があったみたいです。追突事故に遭われて遅くなるって。梅ちゃんたら、こんな大事な連絡を付箋で済ませて……」
仲居の言葉にハルキは現実に引き戻され、女将は目を丸くした。
「追突事故? 大変じゃない!」
————旅館に来る道中の事故なんて、災難だなあ。
起業家、美人、テレビにも出る有名人。女将たちの口から出てきたキーワードを頭の上に浮かべながら、ハルキは顎をさする。
「悦子って名前からすると女性だよね。起業家ってことは、強そうなおばちゃんが来るのかな。やだなあ、とんでもないお願いだったら。日本初の女性首相にしてほしいなんて言い出したりして」
座敷わらしはなんでも願いを叶えられるわけではない。あまりに無理難題であれば断ることもある。————特に消えかけの、残り滓みたいなハルキの状態では。
たまには出迎えにでも出てみるか、と思っていたのだが。到着時間がわからないのならここにいても仕方がない。ハルキは皐月の間に向かって歩き出すと、ピカピカに清掃されたロビーの前に差し掛かったところで振り返り、もう一度フロントを見つめた。
「ごめんね、女将さん、スタッフの皆さん。横小路さんの願いを叶えちゃったら、明日から僕が現れることは無くなるけど、適当に上手く誤魔化しながらなんとかやってください」
独り言のようにそう言って、ハルキはフロントをあとにした。
『どうしても振り向いてくれない彼がいて。どうにかして私のことを好きになってくれないかしら』
『俺を社長にしてくれ』
『一生お金に困らない生活がしたい!』
そんな願いを聞くたび、ハルキは優しく微笑み、手を伸ばす。
オレンジ色の綿毛のような光が辺りに広がり、願った人の体を包み込む。
「いいよ。叶えてあげましょう、あなたの願い。どうか幸せになってね」
座敷わらしになってからずっと、ハルキは幸せを欲する人間たちの願いに毎日応えていた。だがそんな生活ももう終わる。
皐月の間の畳にゴロンと寝転がったハルキはため息をつく。目を瞑れば、走馬灯のようにこれまでの宿泊者の願いが思い出された。
「……そういえば、昨日の願いはちょっとだけ印象的だったな『初恋の幼馴染にもう一度会いたい、だっけ』」
大学生の女の子の願いだった。中学まで一緒の幼馴染がいたらしい。その子の家が急に海外へ引っ越す事になったのだが、思春期真っ只中だった彼女は、最後の最後にそっけない態度をとってしまったのだという。連絡先も聞けぬまま、今は彼がどこにいるかさえわからないのだそうだ。
「なんで初恋を成就させてくださいって願わなかったんだろうなあ。そうすることだってできたのに。よくわからないなぁ」
実際そう提案してみたのだが、彼女は首を縦に振らなかった。
ハルキは彼女の願いを叶えた。きっと今頃どこかで、初恋の彼と顔を合わせていることだろう。
「彼らの縁はふたたび交わることになったのかな。いいなあ、忘れられない初恋かあ。人を好きになるってどんな感じなのかな。僕も一回くらい恋愛をしてみたかったなあ。……まあ、もう無理ですけどね」
乾いた笑いが漏れて、途端に虚しくなった。
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