1人が本棚に入れています
本棚に追加
恋とは堕ちるもの
僕が初めてその地に赴いたのは、十才になったばかりの春から夏へと移り変わる頃だった。
王弟である父が臣下に下り、バディスト公爵の位と国が保有していたバークレー領を賜ったからだ。
バークレー領は王都から南に馬車で一日半ほどの位置にあり、主な産業は小麦をはじめとする農業と鉄鉱石の産出である。
馬車で市街地を抜けると、すぐにぽつぽつと家が建つ田園地帯に入る。それから森を抜けて宿場町があり、バークレー領に入る。
王宮育ちの僕にとって見るのも全てが珍しいが、中でも見渡す限りの麦畑は穂が色づき、黄金の海のように風に揺れている。その壮大さと美しさに見惚れていると、父が言った。
「フィリル、ここは国有数の穀倉地帯だ。そして鉄鉱石が採れる山もある。なぜここが国の直轄地であったかわかるか?」
僕は少し考えて答えた。
「食べ物も鉄も大切だからですか?」
「そうだ。もし国に有事が起こった際、最も大切なものは食糧だ。私が臣籍降下してこの地を賜ったのは、ここを守れという意味と、国王陛下の私に対する信頼の表れだ。……私の次はお前がこの地を守ることになる。忘れるな」
「はい」
屋敷は小麦畑を見下ろす小高い丘の上にある。長い間人は住んでいなかったが、僕たちが来るとなって手入れをしてくれたらしい。心地いい空気の流れる空間となっていた。
国が保有していた間、代官として管理していた子爵家の当主が僕たちを迎え、挨拶の後父と仕事の話の話をするために場所を移していった。
代官のシード子爵は、中央の宮廷貴族であったが実直な性格で信任が厚く、三年ほど前、若いながらもこの広い領地に派遣され管理を任されていた。まだ三十代半ばで父と同世代。柔らかな雰囲気の男だ。
退屈になった僕は庭に出た。放置されて荒れ、柵の向こうの原っぱと境目がわからないような庭を屋敷沿いにぐるりと周る。裏の方へ行くと馬場があった。
高い柵に隔てられた向こうには森。そしてはるか奥には山と白い雲の浮かぶ青い空がある。あの山が鉱山だろうか。
今まで住んでいた、石造りの建物に囲まれた王都とは全く違う景色と空気に、僕は思わず深呼吸をした。
そういえば、父は「土地はいくらでもあるから、屋敷を増築してもいいかもな」と言っていた。隠れ家のような離れも欲しいな、などと考えながら歩いていると、馬の近くに僕と同じくらいの年の男の子がいた。ハニーブラウンの髪の毛と青い瞳。先ほど見た子爵とよく似ている。
僕が近づくと、男の子ははっとした顔をして頭を下げた。
「君は?」
「カイン・ドュ・シードと申します。父の子爵が公爵さまと会談中のため、こちらで控えております」
やっぱりシード子爵の息子だったか。
「私はフィリル・カミーユ・ドュ・バディストだ。……よく私が公爵の息子だとわかったね」
「それは……やはりわかります。着ているものとか……。それにこの馬も素晴らしいです」
彼が見上げている馬は、王都の屋敷から連れてきた騎乗用の馬。青毛で額に白いスターがある。
目を泳がせながらも正直に言う彼に僕はくすっと笑った。まだ子供なのに礼儀もちゃんとしているし、頭も良さそうだ。たしか彼も三年前までは王都にいたのだな、と思い至る。
「そうか、ではここにいる間、君には仲良くしてもらえたらと思う」
「も、もったいないお言葉です」
それから僕たちは父親たちの話が終わるまで一緒に馬を見ていた。
カインはシード子爵の次男で、子爵がこの土地や屋敷を手入れする時についてきて、この屋敷で飼われている馬たちの世話を手伝っているらしい。
「兄が王都の侯爵家に近侍として出仕したのでできることは、と」
「ふうん、私も馬は好きだ。ここにいる間は私も世話の勉強をしよう」
そう言って馬の鼻先を撫でていると、カインは驚いたように目を丸くしていた。
「どうした?」
「いえ、公爵家のご子息が馬の世話をなさるのかと……」
「信頼関係が大事だろう? せねば落とされてしまう」
僕たちが笑っていると、家令が僕を呼びに来て、カインは父親の子爵と共に帰って行った。
*
それから数日、子爵が屋敷に通って父と話し合いをしていた。その間、僕もカインと馬の世話をしたり庭の探索をした。自分たちで架空の宝探しの地図を作ったり木に登ったりして楽しい時間を過ごした。
王都の屋敷ではしなかったような遊びが新鮮で、カインと協力しながら克服することは達成感を感じた。
服をぼろぼろにして家政婦長のレオノーラからは嫌な顔をされたけれど。
父は苦笑しシード子爵はカインを意味ありげにカインをじっと見ているが、基本的に僕たち二人を自由にさせてくれた。
長い時間を一緒に過ごすうちにカインと僕はすっかり意気投合した。もちろんカインは僕を尊重してくれていて対等ではないけれど、僕は初めて心を許せる『親友』というものを得た心持ちになっていた。
*
大人たちの話し合いも落ち着いたある日、僕は父たちとともに街の方へ赴くことになった。
その前に時間があった僕は、護衛とともに馬で屋敷の周辺を巡ることにした。
馬場の後ろにある門から出て白い花が咲く草原を歩き出す。
「気持ちの良いところですね、フィリルさま」
護衛のアンリとしばらく進むと、子どもが二人、しゃがみ込んで笑っているのにでくわした。
「カイン?」
「あ、これはフィリルさま!」
カインがあわてて立ち上がり頭を下げる。僕は、カインの向こうから振り向いた女の子を見て息を呑んだ。
柔らかそうなミルクティー色の髪の毛に碧の瞳、丸みを帯びた頬はほんの少し紅潮し、白い肌は絹のようだ。そして頭には白い花の花冠。草原の中に現れた妖精かと錯覚するほど愛らしい。
「シルヴィ、頭を下げて。新しい領主さまになった公爵令息のフィリルさまだよ」
カインがそう言って女の子の頭を押さえて下げさせた。
「うきゃっ」
その声に僕ははっとして瞬きをした。そして、なるべく落ち着いて声を出した。
最初のコメントを投稿しよう!