小説のネタ集め

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役所勤め一筋だった僕はようやく定年を迎えることになった。 待ちに待った年金生活。 これからは自由な時間を満喫できると思っていたら―。 実際には予想以上に退屈で、手持ち無沙汰な日々。 一方、妻はというと、歌やダンス、友人との集まりと謳歌している。 娘も嫁いで家を出て行った。 静かにひとり過ごす居間で時計の針の刻む音がやけに大きい。 ふと棚の上にある小さな箱が目に留まった。 娘が退職祝いにプレゼントしてくれた万年筆だ。 よし、これで一丁書いてみよう。 近所の文具店で原稿用紙を買ってきて、早速机に向かう。 いざ書こうとして、手が止まった。 随筆にするか、俳句にするか…いったい何を書いたらいいのか。 困って妻に相談すると、提案されたのは―。 「そうねぇ、小説はどう? 私、ミステリーが好きなのよね」 なぬ?! 推理小説というやつか。 若い頃に読んでいたこともあり、みるみる創作意欲が湧いた。 ただ、それは一瞬のこと。 役所での書類業務と同じ具合にはいかず、書き出しの一行さえ思いつかない。 すぐに気持ちがしぼんでしまった。 まずは、ネタ集めをしないといけないよな。 犯罪学や法医学を勉強すれば…と、真面目に下調べをしてはみたが。 頭がガチガチな堅物には、物語を書くところまでたどり着けなかった。 悩む僕に「お散歩でもして気分転換したら?」と妻の勧め。 そこで街中を歩き、行き交う人々や道端に咲く花を観察した。 それでも…。 ダメだ、何もひらめかない。 感性というものがないのだ。 やはり自分の経験がものを言うのだろう。 いや、待てよ。 自分で行動を起こしてみるのはどうだ? 例えば、泥棒になりきって逃亡者を体験するのだ。 もちろん、実際には物を盗ることはしない。 防犯カメラを避けて自宅に戻るただのごっこ遊びなら―。 これが意外にもスリリングで面白く、筆がスラスラと進んだ。 僕は調子づいて、そこから様々なことを試した。 歴史的な事件や現場の見学や、謎解きイベントの脱出ゲームへの参加など。 それらを通して、体験がいかに大事かを知ったのだった。 ある日のこと、台所から包丁を持ち出し、バッグに忍ばせて街を歩いてみた。 どんな気持ちになるのか、その感覚を味わうためだ。 その直後に筆を執ればまた良い文章が書けるだろう。 しかし、小心者の僕はオドオドしていて不審に思われたらしい。 警官に職務質問を受け、その場で包丁が見つかってしまった。 「小説のネタ集めで…」という説明は通用するはずもなく―。 散々厳しく注意されて、すっかり気力を失った。 もうこりごりだ…ミステリーなんかを題材にしたから。 もっと安全なテーマに変えよう。 数日後、新たな作品に取り掛かっていた。 切ない恋愛ものだ。 これなら警察のお世話になることはないし、楽しく創作を続けられる。 そう思ったのも束の間、事態はすぐに収束を迎えた。 妻が僕のスマホを手にしていたのだ。 「このマッチングアプリは何?」 女性の画像が並ぶ画面を見せられ、詰問が始まった。 「あなたのスマホは常にチェックしてたけど、いったいどういうつもり?」 日頃から妻が僕のスマホを覗き見していたとは…。 仕方なく説明する。 「それは小説のためのリサーチなんだ。アプリで知り合った若い女性と中年男性のはかないラブストーリーを書くためで…」 妻の表情は冷ややかなままだ。 そういえば、若い頃にも浮気を疑われた時、妻は嫉妬深かった。 一度暴走したら何をするかわからないところがあるんだよな。 そして今、妻は包丁を握りしめている―。 僕はその場に立ち尽くし、ぼんやりと考えた。 なるほど、こんな小説はどうだろう。 嫉妬に駆られた妻が夫を殺害してアリバイ工作をする―。 ネタは思わぬところに転がっているものだな。
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