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⑤
閑静な住宅街の側の道路を抜け、乗用車がやっと1台通れる程の道幅しかない細い道路へと左折した。
こんな道が交互通行だなんて泡沢には信じられなかった。対面から配達車輪でも来たら避ける場所すら無さそうだった。
泡沢は徐行しながら、時折、クラクションを鳴らしながら進んだ。
民家の入り口のフェンスや電柱にミラーがぶつからないよう、鶏になった気分でしきりに左右を確認する。
そこそこな高級車が止まっているが、ここで暮らす人達は、この狭い道路しかない事がわかっていながら、家を購入したのだろうが、その感覚が泡沢には信じられなかった。
慣れもあるのだろうが、道路が狭い分、他の土地と比べると購入金額も安いのかも知れない。
安いと言っても泡沢の給料じゃとても手が出せる金額ではないだろう。
署長クラスまで出世すれば、何十年ローンなら組めるかも知れないが、泡沢自身、これまでの人生でマイホームを夢見た事は1度もなかった。
「あ、あの家でしょうか」
チッチがそのように言った時、泡沢はカーブを曲がる為にハンドルを何度か切り返している時だった。
「先輩、後ろ見ますよ?」
泡沢はチッチのその言葉を断ったのは、簡単に切り返し出来ると判断したからだったが、想像以上に曲がった先が狭く、細かく切り返しを繰り返さなければ確実に擦るかぶつけてしまう。
大丈夫だと言った手前、チッチに後ろを見てくれとも言えず、泡沢は苦心の末、何とかそのカーブを抜ける事が出来た。
カーブの先の道幅は広く、泡沢はホッとして思わず車を止めてしまった。
「だから言ったじゃないですか」
「そうだな。悪かった」
停車した車から数十メートル先に警察車両が一台金網のフェンスギリギリに止めていた。
家の前に立っている制服警官が、泡沢達に気づきこちらの様子を伺っていた。
不審車両とでも思ったのかも知れない。
泡沢は再びエンジンをかけ徐行で止まっている警察車両の後ろへ近づくと、チッチを先に降ろしてからフェンスギリギリまで車を寄せて停車させた。
車から降りると既にチッチが制服警官と挨拶を交わしており、泡沢がそちらへ近づくと耳が痛くなる程の大声で
「ご苦労様です!」
と言い、泡沢は少し怪訝な表情で目礼を返した。
「泡沢刑事であられますか?泡沢先輩のお噂は数々聞き及んでおります!自分、田所勇と申します。こうして憧れの先輩にお会い出来た事は何より光栄であります!」
「いや、君、田所くんか。俺は大した刑事ではないよ」
そう返すと同時に桜井真緒子と木下の顔が脳裏に浮かぶ。
「君は君らしく、真面目に職務を全うし刑事を目指すべきだ。俺みたいな変わった特技なんて持つ刑事だと、色々大変だからな」
泡沢がいうと田所は「はいっ!」といい敬礼を返した。
「隣人の近藤房江さんは在宅しておりますが、話を聞きますか?」
田所が尋ねて来た。
「いや、大丈夫」
と答え、門扉を押し開け玄関へと向かった。そのすぐ後にチッチが続く。
ここへ来るまで、チッチが乳首が痒いと言い出さなかったという事は、近辺で事件や容疑者等はいないという事だ。
なら目撃者から話を聞いた所で意味はない。勿論、その目撃者が犯人の可能性がないとはいえないが、それは自宅を確かめてからでも遅くはない。
そのように泡沢は判断し、近藤房江から話を聞くのを断ったのだった。
埃で汚れた玄関扉を引き開けると、ムッとする空気が押し寄せて来た。玄関内の壁はタバコのヤニのせいか黄ばんでいて、上り框の側の下駄箱の上には骨董品らしき皿が飾られていた。
高価な物かどうか、泡沢にはわかりかねた。
その皿の前に靴べらが置かれてある。
上着のポケットから室内へ入る為のジューズカバーを取り出した。それをつけ白い手袋を装着した。
一歩、入るといきなりカビ臭さが鼻をついた。裏庭があるのかわからないが、家中の空気の入れ替え等はしていなかったようだ。
玄関から真っ直ぐに進むとリビングにぶち当たった。
そこには古びたテーブルと椅子が2脚あり、側のシンクの中には大量の食器類が洗われないまま山積みにされていた。その周りに数多くの小蝿が飛んでいる。
「先輩、窓開けますか?」
リビング横に立ったチッチが厚手のカーテンを掴みながらそう言った。
「そうだな。頼む」
殺害現場となったのは山田ミサヨの自室という事だったが、荒れ放題のキッチンを見る限り、息子が母親である山田ミサヨの面倒を見ていたとは、到底、思えなかった。
ミサヨはミサヨで、歳のせいなのか、そもそもが不精な性格なのか、それとも寝たきりだったのかわからないが、とにかく片付けが出来ていない時点で身体を動かす事がままならなかったのだろう。
そのくせ、ゴミ袋が山積みという程ではなく、寧ろ、そのようなら物がない事から、ゴミ捨てだけはしっかりやっていたようだった。
壁周りなどは埃が積もり歩くたび床がベタつくのは、掃除が出来ていない証拠でもあった。
「ここには何もないな」
チッチが窓を開けてくれたお陰で室内のカビ臭さも幾らか和らぎ、泡沢はチッチに殺害現場となった山田ミサヨの部屋へ行こうと伝えた。
山田ミサヨの自室はキッチンと向かいにあった。
チッチが襖を開けると黒く滲んだ血溜まりの跡が畳の上に広がっていた。
畳が血を吸い込んだのか、見た所、血溜まりは既に渇いているようだった。
ミサヨの自室の和室は小さな布団と桐箪笥1つというシンプルなもので、部屋自体も四畳半と手狭だった。
ここで山田ミサヨは鈍器なような物で頭を殴打され死亡した。血溜まりを避けながらチッチが布団を調べ始めている。
「布団に血痕は無さそうなので、ガイシャの山田ミサヨはリビングに出ようとした所を襲われたようですね」
「あぁ。そうだろうな」
泡沢はいい、血溜まりの跡を避けながら桐箪笥の方へ向かった。8個ある引き出しを上から順番に開け、中を調べた。
最初に開けた引き出しの中には知人と旅行に行ったのだろう、笑顔の山田ミサヨと3人の婦人がハウステンボスの前で撮られた笑顔を浮かべた写真が数枚入っていた。
「勃ちました?」
写真を見ていた泡沢に気づいたのか、チッチがそのように尋ねて来た。
「いや」
泡沢は首を横に振った。
それぞれの引き出しには印鑑と通帳や財布。中身は新札で3千円。郵便局と銀行のカードまで残っている。
春物や秋物の衣服、古めかしい下着に1番下の引き出しには着物等が入っていたが、どれを手に取ってもチンポは無反応だった。おまけに預金口座には7万円しか入っていなかった。
銀行の方には朝一で口座の差し止めをお願いしている筈だが、引き出しにない口座やカード、印鑑が別にあったのだとしたら昨夜の時点で既にコンビニのATMで下ろされているかも知れない。
そうだとしたら意味がないが、まだ現金が引き出された形跡についての連絡は泡沢達の元には届いていなかった。
泡沢は山田ミサヨの自室を見てより一層、違和感を覚えずにはいられなかった。
リビング等を見た時から気にはなっていたが、強盗殺人という話の割には、あまりに部屋が綺麗過ぎた。
全くと言っていいほど荒らされていないのだ。
リビングを荒らしている最中に山田ミサヨに見つかったのであれば、撲殺した後、桐箪笥の中を漁るのは定石な筈。だがその形跡もない。
一階だけに限ればそもそも強盗に入られたようには思えなかった。
それに山田ミサヨは自室で殺害されたのだ。物色している物音に気づいた山田ミサヨはそっと襖を開け家に侵入した犯人を見てしまったとしたら、高齢者の婦人が犯人を捕らえようとは万に一つ考えない筈だ。
だからと言って部屋から逃げ出すのはほぼ不可能だ。ひょっとしたらミサヨは息を潜め息子に連絡をしたのかもしれない。
今時の高齢者なら携帯は勿論、ショートメールくらいは打てる。写真に写っていた一緒に旅行に行くような知人、友人等がいるのだから、それは可能な筈だ。
そして山田ミサヨは息子か知人に連絡をしている所を犯人にみつかり山田ミサヨは悲鳴を上げた…
そこで慌てた犯人はミサヨを撲殺した。そうだとしたなら何故箪笥に手を出さなかった?息子の善久が2階に居たからだ。
悲鳴に気づいた息子が、母であるミサヨに声をかけたか、もしくは降りて来るのに気づいた犯人は取るものも取らず慌てて逃げ出した。
そして逃げ出す物音に気づいた善久は1階に降りて血塗れになって倒れている母親を見つけ、犯人を追いかける為に家を飛び出して行った…そしてその姿を隣人に目撃された…
泡沢はそこまで推理したが、頭を振った。
幾らまだ勃起していないからとはいえ、自分の憶測で事件を決めつけるの早い。
勃起を過信し過ぎるのも危険だ。だが筋は通る。息子である善久の行方が未だわからないのは、犯人に…
これ以上考えたくはなかった。
頭を整理しなくてはならないと泡沢は思った。
現時点で第一容疑者は息子の善久なのだ。
捜索の本筋としては、息子の善久が姿を消したのは家族内のいざこざで1人息子の善久がミサヨと口論の末カッとなり撲殺したという前提で自分達は動いている。
その理由は隣人の争いが絶えなかったという証言に他ならない。
だが、と泡沢は思った。やはりどうにも腑に落ちない。何かが引っかかる。
理由としては綺麗な部屋と金目の物が奪われていない事が挙げられるのだが、それなら何故、善久は家を飛び出した?
いや自分の推理が正しいとしたらどうして真っ先に警察や救急車を呼ばず犯人を追いかけた?
泡沢は自分の頭を叩いた。自分の考えに固執し過ぎだと囁いた。柔軟になれ。
泡沢は深く呼吸をしてからチッチに1階の風呂場や、庭の確認を頼み、自分は2階に上り息子である善久の部屋を調べる事にした。大量の雑誌が山積みになっているが、それらは整頓され部屋の隅に置かれてあった。
パイプベッドの上の布団も綺麗に敷かれてあるし本棚も作者別に並べてあった。
ゴミ箱の中も綺麗で、勉強机もほぼ、埃らしきものは落ちていなかった。
これらは几帳面さのあらわれでもある。それなのにキッチンの山積みになった食器類は小蝿がわくほど一切手付かずのままだ。
自室をここまで整頓するような人間が、あんなになるまで食器類を放置するだろうか。一通り調べ終えた時、チッチが現れた。
「風呂場はどうだった?」
「想像以上に綺麗でしたね。掃除が行き届いている印象ですね」
「やっぱりそうか」
「やっぱり?とは?」
泡沢はチッチに善久の部屋を見せた。
「綺麗だろ?」
「物はありますが、そうですね。整頓されてますね」
「だよな」
「愛しい私のチンポの反応はどうです?」
「全然だ」
「という事は、息子は犯人じゃないって事ですか」
「まだわからないが、恐らくはそうだと思う」
「でも、それなら何故逃げたんでしょうね」
「わからないのは、そこなんだ」
泡沢は自分の推理を話そうとして止めた。
代わりにチッチに乳首の痒みがなかったか尋ねた。
「先輩と同じでダメでした。というより、私の乳首が痒くなるのは、犯人の手掛かりを見つけるというより、私がいる付近で事件が起きた場合に痒くなるんですよぅ。先輩のチンポとは仕様が違うので、私1人で捜索しても手掛かりは見つからないですよ」
チッチは別々に捜索したのが不満だったのか、頬を膨らませながらそう言った。
念の為、チッチが調べた風呂場や庭を見てみたが、チンポは無反応だった。
そうなると気になるのはキッチンという事になる。この家の中で唯一汚れているのはあそこだけだ。
1階全体のカビ臭さは湿気の問題であって頻繁に空気の入れ替えをしていない証だ。
常にリビングの戸を締め切っていたらこのような事も起こり得るだろう。
全くチンポが反応しないとなると、やはり息子である善久の行方を追い捕らえて話を聞いてみなければキッチンだけ汚れている理由も、逃げ出した訳もわからないだろう。
生きていればの話だが。その考えもチッチには黙っていた。バディに隠し事は厳禁なのだが、察しの良いチッチの事だ。
その内、気づいて問い詰めて来るに違いない。
その時は答えるつもりだった。だが、それは今ではない。自分自身が偏った推理に固執している気がしてならなかったからだった。
泡沢はスマホを取り出し警部に一報を入れた。
「息子はホシじゃ無さそうなんだな」
「恐らくは。100%とは言えませんが、実際、チンポはピクリともしませんでしたから」
「どうした泡沢、自信がないのか?」
「いえ、そういう訳ではありませんが、勃起を過信し過ぎるのは危険だなと思いまして」
「そうか……わかった」
警部はいい引き続き近所で聞き込みをするよう泡沢に指示を出した。
「得にガイシャの人となりを中心に聞き込みをしてくれ」
「わかりました」
泡沢はいい、電話を切ろうとして止まった。
「警部、もう一つ良いですか」
「何だ」
「頻繁にこの家に出入りしていた人間、つまりヘルパーやデイサービス等があったように思えるんですが」
「そんな情報はまだ誰からも入っていないが、どうしてそう思った?」
泡沢はキッチンの山積みになった食器類の事を警部に話した。
「小蝿まで集るのはかなり長い時間、放置されている証拠です。ただ洗い物をしていないだけならあんなにも小蝿は集りません。集るのは残飯等がシンクのゴミ受け等に溜まっているからでしょう。ですが、この家はキッチン以外はとても綺麗なんです。多少の埃はありますが、でも息子は几帳面のようですし、ガイシャの山田ミサヨの部屋も綺麗でした。なのにシンクの中には小蝿が集っていた」
「つまり、泡沢、何が言いたい?」
「山田ミサヨは1人では動けなかったのではないかと」
「なるほど。寝たきりだったと?」
「はい。自分はそう思います」
「なるほど。頻繁ではないにしろ、訪問者があったという訳か」
「ええ」
「わかった。その辺りの事も含め、聞き込みを頼む」
「わかりました」
泡沢はいい、チッチに目で合図を送った。
電話を切り、2人で殺害現場を後にした。
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