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弁償
私の日常が一気に不穏なものに変わったのは、本当につい数分前の出来事である。
いつも通りに仕事を終えた金曜日。友人に美味しいよと教えてもらったパン屋に寄った帰り道で、この男に突然声を掛けられた瞬間から私の平穏は終わった。
人気のない場所で、道を塞ぐようにして停められた車から降りてきた男性に感じる恐怖は凄まじく、こんなに不安になった経験は今まで一度もない。
急にひりついた異様な空気に、ただ呼吸の仕方が分からなくなった。
「あは、見つかってよかったぁ」
ゆるいパーマのかかった黒髪から覗く切れ長の二重が、私を嘲笑するようにすうっと細くなる。
一見微笑んでいるように見えるのに、全然安心できないのはどうしてなんだろうか。
一歩ずつ男がこちらに近付いてくる度に、私の心臓も恐怖で動きを早くしていく。
「そうやって引き攣った顔するのって、心当たりがあるからだよね?」
ゆっくりと落とされる言葉が怖くて、きゅっと喉が詰まる。
心当たりなんてありませんと返事をするべきなのに、脳がうまく働かなくて一言も漏らす事ができない。
ただ目の前の人物をじっと見つめながら、いつでも逃げ出せるようにと足をゆっくり後ろに引いた。
「ああ、もしかして逃げようとしてる? 逃がさないけど」
「……っ」
「俺の車に悪戯したよね? 小さい子供じゃないんだからさ、悪い事したならちゃんと償ってくれないと」
「え……?」
「ほら、これ君でしょ? ちゃんと残ってるよ」
男が手にしていたタブレットの画面を私の方に向け、監視カメラの録画映像のようなものが流される。
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