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教師 上川託野
校舎の三階。その一番奥の、とある一室。
『生徒指導室』
そう書かれたプレートのあるドアに立ち、一呼吸どころかそれを二回、三回と繰り返しても、この心臓の異様なまでの緊張具合は収まることがなかった。
本来なら頼るべき同僚の男性教師ふたりは、女の教員である自分の後ろで体を小さくし、まるで頼りには、なりそうにない。まぁ彼のまるで教師に向いているとは思えない威圧感と風貌と考えれば、おもわず萎縮してしまうのも、わからなくはないが。
にしても、いい歳した大の男が、ふたりも一緒になって女である私の後ろに隠れるってどうなのよ。こっちだって、彼を目の前にして、平常心でいられる訳じゃないのに。
とはいえ、このままここに大人四人突っ立ったままでは埒が明かない。
本日四回目のため息混じりの深呼吸をしたのち、ようやくドアをノック。それに対する返事も、反応すら返ってこない。
「上川先生。防犯訓練、もうすぐ始まりますよ」
やはり反応なし。試しにドアノブを捻ってみるが、鍵がかかっていた。今一度ノック。今度は強めに叩いてみた。
反応、なし。
おもわず後ろに視線をやった。そのうちのひとり、この高校ではベテランの部類で、彼と歳の頃も近い(多分)男性教師は観念したように立ち位置を交代し、改めてそのベテラン男性教諭がドアに手を近づける。
瞬間、ドアが開いて、その勢いに男性教師がドアに顔面を強打し、情けなく尻もちをついた。
現れた上川託野の年の頃は、たぶん四十代か五十代。なぜか教師たちの間では、彼は年齢不詳なところがあった。
身長は、この高校の教員生徒、皆が皆同じように見上げなければならないほど高い。長めの前髪と銀縁眼鏡に隠れた、整いながらもこの世の黒い部分を詰め込んだような、どこか影のある瞳。真っ黒のナイロン生地の上下と、その下に黒いハイネックの、いつも見かける服装かと思いきや、下は変わらずだが、上は黒いタンクトップ一枚のみの、教師の学校内での服装とは思えない軽装な姿だった。
タンクトップから伸びる長い腕にも覆われた腹部にも余分な贅肉は一切なく、まるで適度な筋肉で武装をしているかのようだ。ゴリゴリでマッチョな格闘家というよりは、どちらかといえばボクサーの体型に近い。
「上川先生、外に出る時はきちんと上も着てから出てきて下さいよっ」
自分のようなある程度の歳の頃の女ならともかく、年頃の女子生徒が見たら、おもわず目を背けてしまうだろうに。
「おまけに生徒指導室に寝泊まりまで……」
開いたドアの隙間から見えた生徒指導室の奥には、広げられた寝袋がひとつ。テーブルには一台のノートパソコン。壁には職員会議などで着る大きめのスーツが一着、ハンガーでかけられている。
どうやら上川がこの生徒指導室を私物化し、寝泊まりしているという噂は本当らしい。
対し上川は無愛想に、
「校長に許可はもらってんだ。文句ないだろ」
「校長って」
その言い方もどうなのか。
許可はもらってる、ではなく、校長を脅して無理矢理許可をもらった、の間違いではないだろうか。
「それより上川先生、生徒たちにむけた防犯訓練が、そろそろ、始まりますので……」
上川の開けたドアに顔をぶつけられたベテラン教師はようやく痛みから回復して立ち上がり、もうひとりの若い男性教師も言葉をつまらせつつ声をかけた。
「大人に守ってもらう前提の行事なんざ、やってなんの意味がある」
上川は眉間に皺を寄せつつ、投げやりに返してくる。
「言葉も喋れないガキじゃあるまいし。自分の身は自分で、守るしかねぇんだよ」
そんな。
「じゃあなんですか。生徒全員に、常に護身用のスタンガンでも持たせとけ、とでも言うんですか」
ベテラン教師は苦笑しながら、あくまで冗談めかして言っている、というような口調だった。
それはさすがに暴論だろうと、今度は三人揃って苦笑した。
だが上川は、
「そうするしか、能がねぇならな」
そう本気ともとれる言い方で、吐き捨てた。
上川の大きな背中が再び、生徒指導室のなかへと消える。こちらを威嚇するような大きな音で、ドアが閉められる。
鍵をかける音が聞こえた。
なんとも微妙な空気だけが残った。
前々から感じていたが、彼には教師にしては過激な、危険な思考があるように思う。その思考を生徒たちに吹聴して周ったり、押しつけたりする訳ではないだけ、まだいいのだが。
やはり呼びに来ただけ、時間の無駄だったらしい。
普段生徒たちが出入りしている玄関の前を通り、体育館へと通じる通路へ差しかかった時、見覚えのある姿がその通路に横たわっているのが目に入った。
それは、今日の全校生徒にむけた教職員たちによる防犯訓練で、突如校内に不審者が侵入してきたという設定の元、その時の教職員たちの対応を生徒たちの前で見せるために、不審者役を担当する予定だった男性教師。
「どうしたんですかっ」
倒れた男性教師の元へと駆け寄った。どうやら気を失っているだけのようだ。それでも、ただごとではない。嫌な予感を感じ、三人連れ立って向かったのは、これから防犯訓練を行う予定の体育館だった。
体育館のなかは、全校生徒が集まっているのにも関わらず、しん、と静まり返っていた。皆が皆、体育館の真ん中を凝視している。
全身黒ずくめの中肉中背の男が、仰向けの姿で横たわっていた。その男の持ち物であっただろうナイフも一緒に。
その側で仁王立ちしているのは、つい数分前に生徒指導室のなかへ姿を消したはずの、いつものように上下真っ黒のナイロン生地の衣服を寸分の乱れもなく着込んだ、上川であった。
まさか防犯訓練直前の学校に、本物の不審者が侵入してくるとは。皮肉としか言いようがなかった。
本来不審者を演じるはずだった教師は本物の不審者に勢いよく突き飛ばされ、頭を打って気を失っていたものの、特に大きな怪我はなかった。体育館で待機していたその他の教師と生徒たちにも多少の混乱が生じた程度で、いずれも実害はなし。
問題は、彼のことだった。
不審者役の教師を突き飛ばし、本物の不審者が体育館へ足を踏み入れた時、体育館内の出入り口付近で、既に待ち構えてた人物がいた。不審者がやけになってその人物にナイフを突きつけながら勢いよく突進していくと、その場にいた教師生徒が息を呑んだ一瞬には、不審者は彼の目の前で盛大に転び、したたかに頭を打ちつけ、倒れ、気絶していた。
あっという間の出来事だったらしい。
あとから教師たちや数人の生徒から話を聞いた。その意見はふたつに分かれ、不審者は上川の目の前で足を滑らせ、勝手に転んだようにしか見えなかったという者もいれば、上川が片手のみを動かし、その瞬間に、不審者の体が宙を舞って倒れた、という者もいた。なにしろ不審者が倒れた瞬間、上川は教師や生徒たちから背を向けていたため、本当のところは誰にもわからなかった。
その不審者、もとい中年の男は、その後の通報ですぐに駆けつけた警察官たちにより連行されていった。学校側も生徒たちの精神状態を鑑み、そのまま全員、下校させた。
警察官に事情を聞かれた際、ひとりの教師が、生徒たちにむけた防犯訓練の最中に不審者が侵入してきて、生徒たちを守ろうと全教職員が一致団結し、結果教師たちに取り押さえられた不審者がその弾みで倒れ、気を失ったのだと証言した。その証言した教師の、どこか懇願にも似た空気を察した他の教師たちも同じように証言し、特に学校内の器物を破損したとか、教師や生徒に危害を加えたということもなかったので、警察官たちは不審者役の教師の話を少し多く聞いた程度で、その場はそれで解散となった。
警察官たちが体育館へ駆けつけた時、上川の姿は既になかった。
生徒たちも警察官も去り、教師のみが残った校内。先ほどと同じメンバーで今一度、上川の元へと足をのばした。数回のノックのあと、同様に反応のない生徒指導室のドアノブに手をかけると、今度は鍵はかかっていなかった。まるでこの三人が再びこの場所を訪れることを、見越していたかのようだ。
失礼します、と一声かけ、ドアを開ける。
広げられた寝袋に寝転び、銀縁眼鏡を外して瞼を閉じていた上川は、下は黒、上は黒いタンクトップ一枚と、まるで体育館での出来事などなかったかのように、騒ぎが起きる前とまるっきり同じ格好であった。
「警察には、きちんと口裏合わせて、証言したんだろうな」
はい、と、生徒のために教師が一致団結、の証言を最初に言い出した教師が即座に答える。やはりあれは、上川の指示による証言だったらしい。
聞きたいことは山ほどあった。なぜあんな、予期もしない突然の不審者の侵入に対して、素早くその場に駆けつけることができたのか。警察の事情聴取の場に自分は居合わせることなく、なぜ他の教師たちに偽りの証言をさせたのか。あれこれ突っ込んで聞こうとした時、無機質な着信音と共に上川が側に置かれた端末を手に取った。もう一昔も二昔も古く懐かしさを感じさせる折りたたみ式の携帯電話、いわゆるガラゲーだった。シッシッと、上川の手が下から上へ、面倒くさそうにふられる。
電話対応をするからさっさとこの部屋を出ていけ。そういう意味合いらしい。こうなったらもうなにを聞いても、彼はなにひとつ、こちらからの質問には答えてくれないだろう。
※
『今日はずいぶんと、上川託野先生がご活躍だったそうですね。氷柱から聞きましたよ』
「下手に流血沙汰になって、警察に校内をうろつかれたら面倒だからな」
氷柱とは、電話のむこうにいる、彼の長年の同業者である男の、息子の名である。この高校に通う男子生徒だ。
しんと静まり返った生徒指導室。そこで人知れず交わされる、男ふたりの電話越しの会話。男が操作するノートパソコンの画面には、校内のあらゆる場所に彼が秘密裏に設置した監視カメラの映像が、リアルタイムで表示されている。だからこそ彼は、不審者の侵入に対して迅速に対処することができたのだった。
『今夜も、そちらの部屋で寝泊まりですか』
「ここならある程度、落ち着いて過ごせるんでな」
いつもなら出ることのない男からの電話。そこから相手の男のため息が、電話越しに聞こえてくる。
『そりゃあいい隠れ蓑でしょうね。まさか現役の殺し屋が、高校の生徒指導室を私物化して、時折そこで寝泊まりしているだなんて、誰も想像すら、しないでしょうから』
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