山を越える方法

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「今夜が山でしょう·····」  あなたがもし、この言葉を言われるとしたらどんな場面を想像するだろうか。  例えば愛する家族、いや、愛してなくてもいいとにかく近しい親族が死の淵に居るらしい場面を思い浮かべるだろうか。 他にも将来を誓い合った恋人が実は余命僅かであったと倒れた時に知り、医師からこの言葉を聞くのだろうか。  それ以外だとテスト勉強をサボっていたツケで、今夜しっかりと一夜漬けをしなければとても乗り越えられそうにない時や明日社外の人に向けてプレゼンテーションを行なうのにまだ資料が出来ていない時だろうか。  こう考えると山と言うものは非常に幅の広い高さがあることに気が付く。 さながらエベレストと天保山くらいの差だろうか?  そんな哲学者めいた物言いで考える私の山は今、目の前にある。 高さで言えば比叡山?六甲山?それとも愛宕山?間違っても富士山などと烏滸がましいことは言わない。  もちろん、例えた山にも失礼なこと·····とツッコまれそうだが要は高さはそこそこ、だけど日本一まではいかないってことを伝えたい訳だ。 私の目の前には明日の朝、締切の原稿がある。  この原稿は、とある文学賞の新人賞へと応募しようと数ヶ月前からコツコツと仕上げていたのだ。  今どきは手書き原稿を必ず郵送しなくてもいい反面、Webでアップロードだ。パソコン音痴と兄や姉、挙句には理解していないはずの愛猫にまで鼻で笑われるほど、出来ない。  だが、こちらの言い分としては決してパソコン音痴などではなく、パソコンの画面を見ていると目が滑り、自身の所在地が不明になる事が多く、目的地に辿り着けないだけなのだ。  現に原稿だって、手書きのノートに書けば最後のエンドマークまで辿り着くのに数日あれば十分だ。   けれど、これをパソコンに書き写すとなると途中で目が滑る。結果、修正に何日も費やし、「今夜が山でしょう·····」などと自分で呟いて悲壮感を漂わせて追い込まねばならない状態に陥っている。 「なんで目が滑るんだ·····」  本当なら今日は、推し作家さんの本を優雅に読んでSNS内で読書仲間と『応募しました~。あとは選考の方から選ばれるの祈るしかないので、この本読んでます☆』みたいな戯れを繰り広げたかったのに!  明日は、台風来るって噂だからお菓子を買い込んで自堕落に過ごす予定だったのに! 「いや、あんたそれはアカンやろ。仮にも大学生が夢も希望もない自堕落さでどないするん」  背後から自称応援団の姉が何か言っているけれど、気にしない。  ·····いや、待て。姉は今日の朝、台風来るのにあわせて会社でやるべき仕事をほとんど終わらせて帰る。だから残業して、明日有給休暇取って締め切り前のパソコン操作チェックを横でしてくれると約束していたのだ。  間違っても夕方に声が聞こえる訳が·····。  そう思考が思い至り、背筋に寒気が走った。なぜ、姉の声が聞こえたのか?もしかして締め切り前で焦る私が姉の予定を聞き間違えたのか? (そうだ。きっとそうに違いない)  そうじゃないと説明がつかない。だけど、もし姉では無い何かの声だったらどうしよう。後ろを振り返り確認すべきかどうか迷っているとまた声がした。 「山、越えられそうか?」  もうこれは振り返るしかないだろうと意を決して振り返る。  後にはもう暗闇しか見えなかった。 「ただいまー。あれ?なんか余裕そうにアイス食べてるけど何とか新人賞には応募できたの?」 「へへ、まあね。無事に山を越えました!」 ワタシは笑いながらソファでアイスを持っていない方の手をVサインに変えて主張する。  だいたいこの身体の持ち主は宝の持ち腐れなのだ。幾ら素敵な小説がかけようとも身体が現代の利器を拒んでいるのだから。  ·····だから、ワタシがあなたに成り代わる。この部屋でかつて小説家を志して死したワタシが、ね。
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