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それは何の変哲もないトンネルから始まった。
少なくとも入った時点では何の変哲もないトンネルだった。最初から出口が明るく見えていたぐらいの短いトンネル。その真ん中ほどで地震が起きたと思ったら、出口が薄ぼんやりと暗くなっていた。雨でも降るのかな、と思いながらトンネルを出ると、外はヴェネツィアのような海上都市になっていた。
だがここはヴェネツィアではない。そもそも地理的に違うし、およそヴェネツィアにはありそうもない建造物が傾いていたり、逆さまだったり、そこかしこに水没していたりする。
トンネルの向こうはこんな場所ではなかったはず、と辺りを見回していると、なんだか普通とは違う雰囲気の子供がいることに気がついた。
「ここは地を泳ぐ透明クジラのお腹の中だよ」
言われてみれば地面は透明な柔らかい膜があるようだし、遠くを見ると透明なドームの向こうにぼんやりと外の世界が見えている。どうもトンネルごとクジラに呑み込まれてしまったらしい。
それにしても変だ。地を泳ぐ透明クジラなんて聞いたことがない。せめて地を泳ぐクジラか透明クジラかどっちかにしてもらいたい。
「元々は海を泳ぐ透明クジラだったんだけど、海の魚や海藻や珊瑚を食べるのに飽きて、地上にあるものを食べるため地上を泳ぐことにしたみたいなんだ」
随分事情通な子だと思ってよく見ると、子供は自動人形だった。多分ピノキオという名前なのだろう。
そう納得していると、再び地面が揺れてトンネルから様々なものが飛んでくるようになった。透明クジラが色んなものを呑み込みながら地上を泳いでいるためだ。
クジラは人も他の動物も植物も現代的な建物も歴史的な建物もその辺の小屋もなんでもかんでも呑み込んでいった。そのうち異国文化を感じさせるものが腹の中に入ってくるようになり、透明な腹の向こうを確認してみると外国の見知らぬ風景が広がっていた。
アジア、ヨーロッパ、北極、アメリカ、アフリカ……。地上の様々な場所にあらかた行って大人しくなったと思ったら、ふいに浮遊感を感じた。 どうやら透明クジラは地上のものも食べ飽きて、空を泳ぐ透明クジラになったらしい。
透明クジラは空を泳いで、雨や雪、雲や虹を食べて過ごすようになった。
こちらはこちらで、お腹の中で快晴の外を眺めながら雨宿りしたり、灼熱の大地を上から眺めつつ雪遊びをしたりして過ごした。
折しもヴェネツィアの街並みの上に停泊していた夜、トンネルから凄い勢いで光が飛んできた。流星だ。その流れ星は大層クジラのお気に召したらしく、大小様々な星が腹の中を飛び交うようになった。
クジラの勢いは止まらない。クジラはぐんぐん上へ向かって泳いでいき、とうとう宇宙を泳ぐ透明クジラとなった。
宇宙でもクジラは沢山のものを吞み込んでいった。月、小惑星、彗星、星雲……。
もはやクジラを止められるものは誰もいない、と思いきや急停止。見ると巨大なクジラ……というには前足の生えた恐ろしげな怪物が立ちはだかっていた。クジラ座だ。同じクジラ同士といえど、話が通じるとは思えない。流石の透明クジラも同意見だったようで、瞬く間に逃げ出した。
追いかけてくるクジラ座から逃げるため、透明クジラは天の川へ潜り込んだ。星の流れに身を隠し、ようやくクジラ座の目を眩ませて逃げおおせることができた。
ほっとした透明クジラは星の流れに身を任せ、時折星をつまみながら、のんびり天の川を泳いでいった。
海を泳いでいた頃が懐かしくなったのか、天の川の中を気ままに泳いでいくうち随分遠くまで来てしまったようだ。
ふいにクジラは天の川から身を乗り出し、水に覆われた惑星へと向かっていった。
宇宙を泳ぐ透明クジラは次第に空を泳ぐ透明クジラとなり、ぐんぐん下へ向かって泳いでいくうち地を泳ぐ透明クジラとなった。
見たこともない樹や人や建造物を呑み込みながら、地を泳ぐ透明クジラは海辺にまでやってきた。ここまでくればもう海を泳ぐ透明クジラに戻るしかない。そう思いきや透明クジラは温泉に入るように下半身だけを海に浸からせ、ほっと安心したように眠りだした。
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