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久しぶりに仕事が早く終わった。
そう思ったイトスギは、まっすぐに家へと戻ることにした。
このところの残業続きの日々で、もう何日も妻のアカネと顔を合わせていないかも分からない。
最寄りの駅で降り、そのまま真っすぐで自宅のマンションが見える。
駅から近い、2LDKの物件だ。イトスギの収入からすれば、身の丈にあったもの。
ただ、子どもができることも考えて、広めの物件だったが、その予定はしばらくない。
どこか精神的に疲れているイトスギは、なんとかマンションに到着してエレベーターに乗った。
迷うことなく、自分の階のボタンを押す。エレベータは、行先の階へと上昇を始めた。
「はぁ…」
イトスギはため息をついた。こんなはずではなかった。
新婚当初こそ、イトスギとアカネの仲は良かった。
しかし、転勤の話が出たことから、二人の仲には亀裂が入り始めた。
単身赴任なのか、一緒に引っ越すのか。
引っ越すならば、この部屋を引き払うことも考えなければならない。
イトスギはアカネに合わせようとしたが、話は一向にまとまらなかった。
結局、イトスギが転勤の話を断ることで、その転勤の話は終わった。
しかし、その代償は大きかった。
まず、イトスギの昇進の道は閉ざされた。
そして、今以上にイトスギの年収が増えることもなくなり、それからのアカネはイトスギに冷たく接するようになった。
過去のことを思い出して、もやもやとした気持ちを抱えながら、イトスギはエレベータの表示を見た。
一向に、イトスギの部屋の階に到着しない。おかしいな。
イトスギはそう思った。しかし、エレベータは上昇をしている。正常に動いているように見える。
しかし、いくら上昇を続けても、階数表示はそのままだった。壊れているのか?
イトスギはそう思った。そして、エレベータについてある緊急時の呼び出しボタンを見た。
その時、突如としてガクンと急停止する感覚に襲われ、目を見開いた。
「なんだ?」
エレベーターの表示を見ると、階数表示が『564-』という意味不明な表示を示していた。
確実に故障しているな、とイトスギは思った。
迷うことなく、呼び出しボタンを押した。
反応がない。
閉じ込められたのか?
イトスギは不安を感じつつも、待つしかない。
やがて、エレベータのドアが開いた。
正直、ほっとした気分だった。
このままエレベータに閉じ込められるよりもマシだ。
イトスギは、開いたドアから廊下に出た。
廊下。
何かが、違う気がした。
毎日見ているはずの廊下のはずが、何か別の空間のように感じる。
なんども廊下を確認する。
どこをどう見ても、自宅のマンションの廊下だ。
しかし、言いようのない違和感が拭えない。
…気にしていなかっただけで、これまでもそうだったのか?
一度気になって見てしまうと、なんでもないものが気になってしまう。
これもそんなものの一種かなと、イトスギはそう思うことにした。
そして、自分の部屋番号を探して歩き出す。
エレベーターを降りてすぐ右側にあるはずの自室が、いつもより遠い気がした。
部屋の前に到着した。
イトスギは、玄関の扉に鍵を差し込んだ。
「ただいま。」
そのまま、イトスギが玄関の扉を開けると、部屋は真っ暗だった。
アカネは、寝ているのか?
まあ、疲れているだろうしな。
イトスギはそっと、してあげることにした。
そっと、室内を歩く。
手探りで電気のスイッチを探した。
カチリと音がして、部屋に光が灯った。
そこで、イトスギは息を呑んだ。
部屋の中は埃だらけで、家具はすべて白い布で覆われていた。
まるで何年も誰も住んでいないかのようだ。
「な…なんだ、これ…」
イトスギは混乱しながら、部屋の中を見回した。
そして、部屋の隅に目が留まった。
白い布に覆われていない唯一のものだった。
そこには、アカネが最後に着ていた服に、そっくりの服を着たマネキンが立っていた。
マネキンの胸には、包丁が突き刺さっている。
包丁を力任せに刺したようで、マネキンの身体を貫通していた。
なんだこれは?
…とにかく、悪趣味だ。
いたずらの域を超えている。
誰の嫌がらせだろうか。
もし不法侵入だとすれば、警察に連絡をしなければ。
いや、部屋にいるアカネは無事なのか?
イトスギがそう思ったときだった。
物音がした。
誰かがいる…
悪意のある第三者が…
イトスギは、後ろを振り返った
いない。
誰も、いなかった。
落ち着いて、イトスギが前を見たとき、目の前にはマネキンがいた。
目の鼻の先に。
ひぃっ!
思わず、イトスギは腰を抜かせた。
マネキンは先ほどとは全く違うポーズをとっていた。
まるでイトスギに何かを訴えかけるような。
イトスギは部屋を出ることにした。
まるで、生きているかのようなマネキン。
それから離れたい。
一刻も早く。
イトスギはマネキンから距離をとって部屋を出る。
玄関へと真っ先に走った。
玄関の扉。
そのドアノブに手を掛けた。
その時、イトスギは背中から胸にかけて強い痛みを感じた。
振り返る。
そこにはマネキンがいた。
…イトスギの背中のすぐに。
イトスギは状況を理解したが
既にすべてが遅かった。
イトスギの意識は急速に失われつつあった。
警察を、救急車を…
最後のイトスギの思考は、そこで終わった。
次の瞬間。
イトスギは、目を開けた。
自分が青い何かで覆われているのに気がついた。
なんだこれは?
イトスギは、もがいた。
必死に、そこから抜け出す。
イトスギは、風呂場にいることを理解した。
抜け出してみると、自分がブルーシートに包まれていたことに気が付いた。
工事現場などでよく使用されている防水シートだ。
イトスギは、工事用のブルーシートに包まれて水のないバスタブにいたのだ。
いったい誰が?俺を?
なにか思い出せる気がした。
最近、ここで何かがあったような?
しかし、何も思い出すことは出来なかった。
いや、とにかくアカネを探さないと。
イトスギは、バスルームを出て、部屋の中を歩き回った。
どこにもアカネはいない。
2LDKだ。
すぐに見回すことができた。
トイレ、キッチン、リビング、寝室…
「おかえりなさい。」
突然、後ろからアカネの声が聞こえた気がした。
振り返ると、そこにアカネの姿はなかった。
…幻聴か。
イトスギは、ため息をついた。
そして、あるものに気が付いた。
写真立てがあった。
白いウェディングドレスを着たアカネと新郎のイトスギが教会で寄り添っている。
結婚式の時の写真だ。
ただ、写真の中のアカネの顔の部分だけが、真っ黒なマジックで塗りつぶされていた。
念入りに。
何か恨みが感じられるくらいに、執拗に。
「違う…違う!俺は…!」
イトスギは叫びながら、部屋の中を走り回った。
しかし、どこを探しても、生きているアカネの姿はない。
ようやく、イトスギは全てを思い出した。
あの日。俺は。いや、あれは…
「ああああああ!」
イトスギは絶叫した。
頭を抱えながら、しゃがみ込む。
そして、イトスギの意識が遠のいていった。
翌日。
イトスギは目覚めると、いつもの朝を迎えた。
…昨日も飲みすぎてしまったのか。
イトスギは、自分がだらしもなく、リビングの床で寝ていることに気がついた。
キョロキョロと周囲を見回して、彼は起き上がった。
「おはよう、アカネ」
寝室にいる妻へそう言った。
返事はない。
いつものことだ。
アカネは、朝、寝ていることが多い。
せっかく彼女が熟睡しているのに、わざわざ起こすことないだろう。
イトスギはアカネを起こさないように、静かに支度をする。
身支度を整えて、家を出る。
そして、また夜。
イトスギは帰宅するのだった。
「ただいま」
彼は自分の部屋のドアを開ける。
部屋は真っ暗だった。
何一つ変わることが無い日常。
イトスギは、日々を過ごすのだろう。
永遠に「ただいま」と言い続けるのだろう。
しかし彼は永遠に、本当の意味で家に帰ることはできないのだ。
もう彼は永遠に帰れない場所にいる。
そのことに彼が気づくことはない。
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