君はどこへだって行ける

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 一般的な夫婦であれば、夫が連絡なしに何年も帰って来なければ、捜索願いのひとつも出すだろう。  でも母が父の安否について心配する素振りはまるでなかった。無関心というよりは、父がどこかで元気にやっていること、そして『その内帰ってくる』ことを、頭から信じて疑っていないように見えた。  「信じらんねぇ。俺だったら何がなんでも探してやるってなるけどな」  コントローラーを操る指を(せわ)しなく動かしながら、聡史(さとし)は言う。  「仕事って言って出歩いてばかりの半無職の中年男なんて、捜索願出しても警察は動かないでしょ」  私は聡史の部屋のベッドに寄りかかって、赤い分厚い本をパラパラと(めく)る。数ヶ月前まで聡史が使っていた大学受験過去問題集だ。  一歳年上の聡史は、数日前に私と同じ高校を卒業した。私より一足早く、優雅な春休みだ。進路も決まっているから尚更。  「警察が駄目でも探偵とかあるじゃん」  「いやぁ。そこまでしなくても」  はは、と私が笑い飛ばしたのと同時、聡史はポイっとコントローラーを床に放り出した。画面を横目でちらりと見ると『you lose』の文字。  「お前も不思議だよな。普通、親父が何年も帰って来なかったら疑わない?」  「生きてるかどうかって?まぁ多少は心配したけど、事故や事件に巻き込まれてたら警察とか病院とかから連絡来るでしょ」  再びページを(めく)り始めた私の手から本を引き抜いて、それもポイっと床に放り捨てた。こうやって何でもポイポイ放り出すから、聡史の部屋はいつも散らかっているのだ。  「違うよ。他所(よそ)で女でも作って転がり込んでるんじゃないかとかさ。俺ならそっちの心配をするね」  聡史は私の隣に並んで座って、ベッドの縁に片肘をつく。揶揄(からか)うようなちょっと意地悪な笑みを、口の端に浮かべていた。  「他所で、女…?」  本を取り上げられて手持ち無沙汰になった私は、うーんと腕組みをする。  「…うちのお父さんがそういうの、なんか想像出来ない。タイムスリップして石器時代に迷い込んでたとか言われた方がまだ信じられる」  「すげぇ信用してるな」  「いや、全然してないけど。そういうのと縁が無さそうって思うだけ」  「そういうのって何」  「だからさっき聡史が…」    言ったやつ、と言い終える前に、聡史が私の唇を塞ぐ。  軽く触れるだけのキスだったけれど、不意打ちだからびっくりした。目をぱちぱち(しばたた)かせた私を、聡史は満足そうに眺める。    「こういうのだよな。でもお前が生まれたって事は、全く無縁で生きてきた訳じゃないってことじゃん」  「…まぁ、そうだけど」  「皆やってる事だよ」  そうして聡史はもう一度唇を重ねて、今度はもう少し深く、お互いの唇の形をぴったり合わせるみたいにした。それでわかった。父が浮気してるとかどうとか、そんな話をしたかったんじゃない。『皆やってる事』、聡史はそれを私に言いたかったんだ。  聡史の手が、私の胸の方へ伸びてくる。私はそれを掴んで止める。  「もう少し待って」  「またそれ?」  「未成年なもんで」  私がそう言えば、聡史はそれ以上何もしてこない。軽く肩を(すく)めて、ふわりと私から距離を置く。たくさんの言いたいことを、飲み込んで腹に溜め込むみたいな顔をして。    「それでおじさんは今どうしてんの」  「家事手伝い。でも何か変なの。やたら甲斐甲斐しく世話焼いてくるんだよね。焼魚の骨取ってくれたり葡萄の皮一個一個剥いてくれたり」  「要らん世話だな」  「そうなんだよね。ちょっと鬱陶しい」  「やっぱり何か後ろ暗いところあるんじゃないの。罪滅ぼしのつもりとか」    馬鹿馬鹿しい。あんな甲斐性のない肥えた狸が化けてるみたいな中年男を、一体誰が好き好んで何年も囲いたがるというんだろう。聡史が話を戻そうとするから、私はそれきり口を結んだ。
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