きみは友達

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きみは友達

「奏は、何時に家出てるの?」  今日もまた俺の方が遅く研究室に着いてしまった。他に誰もいない研究室で二人きり。どちらかが喋らないと余計に広く感じられる空間。気まずさより先に、いの一番に、おはよ。と声をかけられてにこりと微笑まれる。なんだか居心地が悪くて、不貞腐れたようにその言葉を返す。ここ何日かはこの繰り返しだ。  こないだの初歩の課題から、俺達は他の研究生を飛び抜かしてすでに7個目の課題に取りかかっていた。ここの研究室の教授はアナログで、データで提出するということはさせない。だからデジタル時代の年代の俺達はそれなりに苦労を強いられた。それでも俺は紙に書くというのは苦ではないし、それは相方のウォリアーも同じようだった。お互いノートになにか書きながらでも集中して作業できる。他の研究生とは違う出来栄えに、俺たちはすぐに教授のお気に入りの生徒になったように感じた。 「……6時半に、出てる」  今日はなんてことはない、ただのレポート作成のためだけの時間に充てていたから、俺の方が絶対早いだろうと思っていたのに。これ以上は泊まり込みでもしないと研究室に一番乗りはできない。 「ろ、6時半⁉︎」  嘘だろ? と半笑いのウォリアー。俺はいたって真面目に、本当だよ。始発のバスに乗って来てるんだ。と答えた。 「……バス? え、待って。どこに住んでるの?」  すごく不思議そうな、俺を疑うような目で見て言った。俺が住んでいるのはこの大学から四つも離れた小さな町だ。そのことにもウォリアーは例外なく驚いていた。俺の言うことにいちいち驚くやつだ、ウォリアーは。そしてその顔からして田舎だと言いたいのだろう。それもそのはず、一番近いマーケットは隣町だし娯楽なんてあった試しがない。バスがかろうじてあったのは助かったけど。それだけの、町。 「そんな不便なとこ……引っ越せばいいのに」 「……」  顕微鏡を覗きながらノートにスケッチする。俺が黙ってしまって、この近くいい部屋たくさんあるよ。と付け足されてしまった。 「安いから。家賃。驚くよ」  すぐ隣のウォリアーの目を見られない。代わりにスコープを覗く。親切心で言ってくれているのは百も承知だ。でも、俺には他にどんなにいい物件があろうとも、例え金が有り余っていても、引っ越す選択肢はなかった。 「へえー。だから朝も帰りも早いんだね」  いいんだ。俺はあの家に帰りたいのだから。 「……うん」  研究室では居残りしてまで課題や自由研究をするやつもいたけど、俺がどうしてしないのか、いや、できないのかを納得したようだ。 「今日のは時間、かかるかもね」  そう。今やっているのは時間経過による観察が重要な課題。夕方までには間に合わないかもしれない。どうしようかとは思っていたのは、事実だけど。 「朝からやってたら間に合うかなと思ったんだけど……」 「あー……奏が良かったら、だけどさ。今日送ろうか。もし、遅くなりそうだったら」 「送るって……」 「俺、車乗って来てるんだ。いいだろ」  自慢げに、へへっと笑って、またカリカリとノートにペンを走らせている。やっぱり親切心、なんだろうか。  ——友達ならこれが普通なのかな。いや、そもそもウォリアーは友達? ただの研究室の相方だろう。変に意識して断るのも気が引ける。  普通の人間関係の構築をしてこなかった俺には、ウォリアーのこの言葉の意味がよくわからなかった。嫌なら断ってくれても。と言われて、ハッとなる。慌てて、 「お願い、します」  となぜか敬語で喋ってしまった。 「あはは。別に、ガソリン代払え! なんて言わないよ。今日のは時間かかりそうだし。自分でやった方がいいだろ? 俺がやっといてもいいけど……」 「いや、自分でやりたいから……」 「うん。じゃあ決まりね」  これでいつまでも研究に没頭できる。遅れていた分はとっくに取り戻したけど、他のやつらより有利な立場でいたい。いい成績で、いい就職先見つけて、自分だけの自由な金をもらって、それで……それで、兄ちゃんを探す。何年かかっても。    ちら、とウォリアーを見る。俺に無駄口を叩くでなく、少しクセのある綴りでノートを完成させていく。姿勢は良くないけど、俺とは違う節立った指の関節がペンを支えていた。ふと、最近は昼に食堂へ行っていないようだなと思った。俺はというと、誰も来ないような中庭の隅で一人で食べている。一緒に食べようと誘うわけじゃないけど、時間になると先に食べに行っていいよと言われるからそうする。いつもだ。そして昼休憩が終わってからも俺より先に研究室に戻っている。それも、いつも。  もしかして、昼休憩取ってないのかも……。 「あ、沸騰してるよ」 「え、あっ、熱っ!」 「わっ、大丈夫⁉︎ 早く冷やして!」  考えごとをしていたから。俺としたことが、熱せられたフラスコに手の甲をぴたりと触れさせてしまった。ウォリアーに強く腕を掴まれる。すぐ側の水道の水を勢いよく出したと思ったら、自分の腕ごと俺に水を浴びせた。瞬間の熱さで冷や汗が垂れる。 「う、……はぁ。びっくりした……ごめん」 「こんなに近くに置いとくから……よく冷やさないと」  水が冷たい。ジンジンと痛むのは、この冷たさのせいでもある気がした。 「も、もういいよ」 「……見せて」  左の手の甲が赤くなっている。ジャージャーと出しっ放しの水をもったいなく思って、ウォリアーが見つめる左手はそのままに、右手で蛇口を捻った。 「……もう。意外とおっちょこちょいなの?」  ウォリアーが、俺の火傷したところに蓋をするように自分の手を重ねた。たらりと冷や汗が背中を伝ったのがわかった。 「……いや……」  俺より大きな手。どこかで、探していた手かもしれなかった。冷えた手からウォリアーの体温が俺に移ってくる。それと同時に、ぶわりとウォリアーが身に纏っている空気が肺を満たした。 「もっ、もう大丈夫、だから」  なに? なんでこんなことに?   濡れた肌着が気持ち悪い。 「氷で冷やす?」 「た、たぶん大丈夫……」  しどろもどろの俺を不審に思っているだろう。まともにウォリアーの顔を見られない。 「少しヒリヒリするだけ、だから」  ウォリアーの肌の温度を感じてしまった。身を寄せるほどの近距離で、息をしてしまった。常用してるのか、ウォリアーが身につけている香水の香りが頭中に巡ってしまった。気を張っていないとくらりとめまいがしそうだ。呼吸のタイミングさえ、合っているかわからない。 「よかったね。利き手じゃなくて」 「う、うん……」  こんな時、どうすればいいのだろう。やっちゃった、とおどければいいのだろうか。それとも、ありがとうと言えばいいのだろうか。兄ちゃんとの時間だったらきっとどちらかを選択していたのに。思考がぐるぐる回転する。俺は、対人恐怖症のようにこの後どうすればいいかわかったもんじゃなかった。きっとウォリアーには変に映ったに違いない。口元がカタカタと小刻みに震えた。バレていないだろうか、不安に思った。 「水膨れできるかも。なにかあったらすぐ言って。さっ。気を取り直してー……」  机に向かうウォリアーに申し訳なく思う。俺に好意的に接してくれてるのに、俺はこんなふうにしか態度にできない。濡れた袖口を少しだけ捲って、一瞬だけぎゅっと目を閉じた。    人に触れられるって、こんなんだったっけ。自分の中の、浅ましさを見つけてしまった。    ウォリアーがあの時俺にかざした手は、羽のように、ふんわりと温かかった。      そういえばあの時不快に感じた香水のにおいはウォリアーのものだった。今は、そんなにキツくはないようだけど。      
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