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雨はまだやまない
俺はウォリアーのことを大きく誤解していたのかもしれない。ふしだらで不真面目で、遅刻魔で成績は最下位……。でもそのレッテルのどれもが全くのデタラメだった。見ている限り侍らせているような女の影はないし、ここでは真面目に研究に取り組んでいる。遅刻をするどころか俺より先に来ているし、成績は……。
「来てない時期があったから。だからなにも提出できなくて最下位だったんだ」
じゃあ、やっぱり不真面目だったのかも。
「前に組んでたやつとは気が合わなくてさ。それでここに来るのもやめたら留年しちゃった」
「そう……」
たぶん、辺りはすっかり暗くなっている。教授に鍵を渡され戸締りを必ずするように釘を刺されてしばらく経つ。こうして日が無くなるまでウォリアーと過ごすようになったのは何度目だろう。何回も車で送ってもらっていたから、少しはウォリアーとの会話が緩やかになった気がする。
「だから、びっくりしたよ。俺のとこに直に来るなんてさ」
ああ、あの時か。
確かにあの輪の中に飛び込むのは勇気が必要だ。ただ俺は、うまくいかないのを誰かのせいにしかったのかもしれない。八つ当たりして、発散させたかったのかも。
「……俺が行かなかったら、ここには来てなかった?」
「うーん……たぶんね。ハッキリ言って俺にはここが合ってないし」
「合ってない?」
「うん」
ウォリアーは、本当は生き物の科目ではなく植物の科目に進学したかったそうだ。あと何ヶ月かすればモルモットの解剖とかもあるし、それも苦手だからなぁ、と嫌そうに俺に言った。
「植物……。なんか、似合わないね」
「えっ、そう? こう見えて俺詳しいんだよ。例えばー……ほら、喋りかけると良く育つって言うだろ? あれ本当なんだ」
「……へえ」
「愛情かけて育ててると、絶対うまく成長するんだよ」
「それは……育て方が合ってるんじゃないの」
「そうなのかなぁー」
天井をスイと見上げるきれいな瞳の色。それと一瞬だけ視線が合った。俺はすぐに、スッと逸らしてしまった。そんな俺にはお構いなしで、植物がどう素晴らしいのか切々と語っている。はっきり言って俺にはなんの興味も湧いてこない話だった。
「でも親父が厳しくてさ。仕方なく、この学科に」
「ふうん……」
「奏は? どうしてここに?」
「俺……。俺、は」
ここに来れば救急だって、看護だって道を選べるから。兄ちゃんの教え通りの進路を考えたら、ここしかなかった。
「将来稼げそうだから、かな」
「んー確かに。上位は国内外問わず狙えるらしいしね」
「うん……別に国外に出たいわけじゃないけど、できれば首席で卒業したい。どこでも行けるように」
とにかく金が欲しいのだ、俺は。
「そっかぁ。頑張ろうよ。俺たちなら首位狙えると思う!」
「……うん」
「俺製薬会社に勤めたくてさぁ。会社は綺麗そうだし、血とか見なくて良さそうだし、病院よりは俺に合ってると思うんだよね。そしたらうるさい親父も納得するだろうし」
「いいね、製薬会社」
ウォリアーは、そういえば。と切り出した。
「奏は身寄りいないんだよね?」
「……よく知ってるね」
「噂でさ。ほら、ここのやつらって噂大好きだろ? 気を悪くしたらごめん、なんだけど」
「ううん。本当のことだから、別に」
身寄り無し。わかってはいたけどやっぱり相当な孤独だ、これは。でも悲観しているわけじゃない。
「……いや、身寄りがないってのは嘘になるかな。保護者みたいな人はいるし、生き別れた兄ちゃんもいるから」
「えっ? ……そうなんだ」
どこにいるかは、本当に生き別れてしまったわけだけど。
「奏は苦労人なんだね」
「……そうだよ。だから、もし二人で首位になったら俺に譲ってよ」
「……あはっ。いいよ! 譲ってあげる」
「約束ね」
あれ。俺って冗談言えたんだ。しばらく冗談なんて言ってなかったと思うな……。
「あっ、奏。見て、これ……すごい変化してる。テキストと違う……」
ウォリアーが手招きして俺に言った。それを交代して覗く。
「すごい……は、早く写そう!」
ウォリアーが俺の背中に、やっぱり⁉︎ やったぁ! とはしゃいで言った。見た瞬間に俺も同様に感嘆の声を上げてしまった。俺たちがずっと待っていた様ではない。予想もしなかったシャーレの中の状態に、俺たちは二人で興奮した。我先にとお互い自分のノートにペンで走り描く。ここまでの行程はどうだったか、条件はなんだったか、二人で確認しながらああだったこうだったと時間を忘れ次々にレポートを積み上げた。俺たちはまるで新発見をした研究者みたいに喜び合った。これならきっといい評価をもらえる。さっきの首位の話が、現実味を帯びたように感じた。
「わあー。結構降ってるね」
外は生憎の雨模様。ウォリアーがその辺の傘をバサっと広げて、待ってて、車付けるから。と言いバシャバシャと暗闇の中へ消えていった。俺は、文明が発達しても天気予報はあてにならないな、と身震いしながらウォリアーが吸い込まれた暗闇をぼんやりと見つめた。
「わー! 早く! すっごい降ってきた!」
まだ新車のにおいがする車内へ飛び乗る。さあさあからざあざあへと音が変わるのに時間はたいしてかかっていない。傘を持っていなかった俺は、ほんの少しの歩数だけでこんなにも濡れてしまった。
「はは、ずぶ濡れだね」
「最悪……もう」
ウォリアーが俺のバッグを後ろへ置いてくれている間に、シートベルトを締めタオルで体を軽く拭う。すると、俺みたいに傘差せば良かったのに。と言われ、ウォリアーのは他のやつのだろ。と返した。さも自分の物のように使っていたけど。
「ちゃんと明日返すから、いいの」
「ごめん、シート濡れた」
「いいよ、嬉しいから」
「嬉しい?」
「では出発ーっ」
カチカチと鳴るウインカーの音。滑り出す、俺たちを乗せた真新しい車。俺の聞き間違いだったのかもと思い、前を向き、その次に右を見る。ガラス越しの景色がどんどん流れていく。雨粒が筋を幾度も作り、透明の水が静かになった街に吸い込まれていった。昨日と違って雨だから運転しにくいのか、あのマシンガントークのウォリアーがなにも言わなかった。独り言でさえ。
もしかして初心者なのか? 雨の日だし、だから運転に集中してるのかも。まあいいか。ゆっくりと座っていられる。
俺はそんなことを思って、朝とは違う、目線の低くなったルートをうとうとしながらしばらく眺めていた。もう明日になったかな。そう思っていたら、ウォリアーが口を開いた。今日は大収穫だったね、と言った。
「うん。ウォリアーのおかげだよ」
眠い頭で正直に答える。俺はなにもしてないよ、と言われ、俺はそれを否定した。
「あ……ごめん、着いたんだ」
その様子にハッとなる。不自然に信号で止まったなと思ったら、あの長い距離を経ていつの間にかアパートまで来ていた。ベルトを外して、後ろにあるバッグを手繰り寄せる。ウォリアーが手を伸ばし、なにかパチリと音をさせた。
「ねえ、いつになったら俺のこと名前で呼んでくれる?」
「えっ?」
よく聞き取れない。この雨のせいだ。ざあざあの雨が何度も車にどばりと落ちて、ウォリアーが言った言葉が、本当にそう口に出したのか、俺は座り直した助手席で考えあぐねなければならなかった。
「なんて言っ……」
「帰したく、ないな」
車内灯が暗闇を少しだけ照らす。二人を、ぼんわりと映し出す。だけどその瞳が俺を見ているのはハッキリとわかった。固まったように微動だにできない。さっき言われた言葉を必死で頭の中で反芻する。俺は一体どんな顔をしているんだろう。しっとりと湿った金髪の前髪の隙間から、薄く伸ばしたブルーの瞳がそんな俺を映していた。
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