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項垂れる男
離陸するその瞬間が何より一番苦手だ。
機体がフワッと浮き、車輪が格納庫に収納されると、その機体は上を向き一気に加速していく。
重力に逆らって体が持っていかれるこの感覚。無重力になった胃が体の中で宙ぶらりんになったみたいに浮きあがるような感じになると、一気に全身鳥肌がたち、顔の周りの空気がゾワゾワしてくる。
気を紛らわそうと手に持っていたはずの文庫本がいつの間にか手から滑り落ち、ペシっと音を立てて足元の床に落ちた。
ちいさな窓のその向こうには、さっきまでいた故郷の町並みがだんだん小さく遠くなっていくのが見えている。
座席で目を閉じて項垂れている僕は、はたからみたら眠っているようにみえるだろう。
よく気の利くキャビンアテンダントが静かに近づいてきて落ちた文庫本を拾い、そっと目の前の開いた簡易テーブルの上に置いた。
チラッと項垂れたその顔を窺ったあと、窓際の隣の席の人にもさりげなく目を配る。隣の若者は周りを気にする様子もなく耳にイヤフォンをつけ一人の世界に入っている。
きっちり纏めた髪が一糸乱れることなく整う完璧なその彼女の横顔を一瞬チラッと見上げ、若者が少し照れた顔を見せたあと、また手元に視線を戻した。
いつものよそ行きな笑顔を貼り付けた彼女は、絶やすことない笑顔のまま一度頷くと隣の席の若者にも一礼した。
そのまま少し先の席の老紳士に手に持っていたブランケットを手渡すと静かにそこを通りすぎていった。
このあと、向こうに到着して誰もいなくなった機内の客室に一人取り残された項垂れたその男が気を失っていたということにやっと気付き、焦った顔で何度も声をかけるはめになるとも知らずに…。
到着を待つ東京の空はむこうが霞み、灰色の雲が立ち込め、雲間に雷が光り始めていた。
まもなく…雨が降ってくる…。
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