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一雄は病院に行くまでの間、何回も町の人々から声をかけられた。
「あら一雄ちゃん、こんにちは」「あー、かずおおにーちゃんだ!」などという他愛のない挨拶を、何度もされた。一雄の隣にいる佳代はどうしてもむず痒く感じ、あの時此奴の手を振り払って逃げ出せばよかったとしみじみ思った。
子どもの時よりずっと洒脱な容姿になっているから、固より鈍い性質である一雄が自分の正体に気付くことはなかろうが、しかしそわそわして落ち着かない。
「おっ、一雄君、そこにいるのは彼女さんかい?かなりの美人じゃないか、やるねえ」
病院まであともう少しというところでパン屋の主人からかけられた下世話な言葉にはとうとう佳代の堪忍袋も切れ、一雄を睨まずにはいられなかった。一雄は頭を掻いた。
「参ったなぁ、君と一緒だと男の人からの視線が痛いよ」いつしか一雄の口からは敬語が消えていた。しかしそこに馴れ馴れしさはまるでなく、寧ろ下手に敬語を使ってお愛想を言うような人よりずっと好感を持てるような口調であった。
「なら私を置いてどこかに行かれたらどうですか?」
佳代はいつもの底意地の悪さを発揮して、皮肉に言った。それに一雄は苦笑して、「懐かしいなぁ」と故郷を想う移住者のような口調で呟いた。
「君を見ていると、妹を思い出すよ」
その言葉に、佳代は思わず歩みを止めた。バレたか。冷や汗が項からドッと噴き出した。
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