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(……私、助かった……?)
命が危険に晒されているその瞬間でも、そしてその危険から間一髪で助かった時でも、人間というものは思考が止まってしまうらしい。佳代がようやく我に返ったのは、バカヤロー人が死ぬところだったんだぞ、という怒鳴り声が上から聞こえてきた時だった。
「……ふぅ、良かった。大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます……っ!?」
佳代は自分の命を救ってくれた誰かに向かって振り返り、そして息を呑んだ。
勿論佳代が子どもの時何遍となく見た顔とは少しばかり違っているが――一雄だ。佳代の目の前にいたのは、間違いない、兄の一雄だった。
佳代の観光客めいた姿とは対照的に、一雄は黒いスーツを着て、無地のネクタイを締めていた。胸ポケットには何か黒いものとボールペンが入っていて、スーツの下のシャツは雪のように清く真っ白だった。勿論香水の匂いなど全くしない。
しかし甘ったるい香水の何倍も人を魅了するであろう優しく暖かい笑顔が、彼の端正な顔に浮かんでいた。
「あ、では、私、急いでいますので……」
佳代は必死で笑顔を取り繕いながらここから逃げようとしたが、しかし一雄は首を縦に振らない。
「もし怪我でもしていたらどうします。念の為、病院に行きましょう。付き添いますから」
(いやこの状況で怪我なんてしている筈ないでしょうが……!やっぱり馬鹿は大人になっても治らないものなんですね……)
佳代は思わず顔を反らして眉を顰めた。反面一雄はすっくと立ち上がり、倒れたままの佳代にそっと手を差し出す。
一雄の手は骨太く頑丈で、まるで長年の試練に打ち勝った人当たりの良い職人のようだった。青いネイルで彩られた佳代の血の気の無い指とは、あまりに対照的である。一雄と佳代は手と指でさえ正反対であった。
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