里帰り

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 しかし一雄は足を止めずに、淡々と、しかし何処か湿り気を含んだ様子で語り出した。  「妹もめちゃくちゃ美人で、頭が良くて、でも気が強かった。野心家ってやつだった。だから俺なんか、しょっちゅうやり込められてた。そんな気の小さい俺に嫌気が差したのか、アイツは家出しちまった」  冷たい秋の風が一雄と佳代の間を通り過ぎた。ふたりは互いに顔を合わせず、眼前の坂道の向こうにある白い病院と、白い雲が出てきた空を見ている。時折佳代がちらちらと一雄の顔色を窺うように目線を向けるが、一雄はそれを気にする素振りも見せない。    「間もなくおふくろが病気で死んだ。俺はテキトーな高校に行って、公務員目指した。ホント、高校行けたのはラッキーだったよ。父さんには感謝してもし足りない」  (高校に行かせてもらったぐらいで?)と言いたかったが、佳代は堪えた。ここで毒舌の気性を覗かせれば、いよいよ自分の正体がバレてしまう。  「俺は警察官になった。今はしがない交番勤務だ。でも今って何かと物騒だろ?そうそう、緋夜組っていうヤクザがドンパチ始めるかもしれないって噂知ってるか?怖いよなぁ。だから俺達も、ヤクザとかの情報を、否が応でも集めないといけない」  ふたりは坂に差し掛かった。佳代は俯いて、前を見れない。しかし一雄は真っ直ぐに、前を見ている。  「それで分かっちまったんだ。悪人の方が警察官より贅沢してるってこと。正義は勝つなんて綺麗事だ。俺だって、ガキの頃よりは金持ちになったけど、いまだに安い借り家暮らしだからな。理不尽だろ?妹も、この現実知っちまったから家出したのかもな。せっせと家族に奉公していてもどうせ報われない、それよりずっと良い生き方がこの世にはごまんとあるって現実に。  でもよ――だからって俺は、この生き方を止めるつもりは毛頭無いぜ」  ここで一雄は佳代の方に顔を向けた。その顔はどの俳優の微笑みよりもずっと輝かしい笑顔で、美しかった。  「俺が公務員試験に合格した時、親父はめちゃくちゃ喜んでくれた。まるで宝くじが当たったみたいな様子でさ。仕事はキツイし、パワハラまがいなことだって受けることあるけど、時たま面白い先輩にあたることだってあるんだ。それに町の人達が、俺によくしてくれるんだ。勿論芸能人やスーパースターに向けるような態度とは全く違うけど、でも良いじゃねえか。全部この生き方してるからもらえたもんだ」  佳代は答えない。佳代の頭の中には、暴力団員になった後に見た光景ばかりが浮かんでいた。  仁義だの何だのと言い訳がましく言いながら、男が若者の指を切り落としていた。着物姿の女が武器を効率よく買う為に算盤を弾いていた。幹部がキャバに愛人が百人もいるなどと自慢していた。  一番鮮明に思い出せた光景は、痩せた老人が佳代の腰を馴れ馴れしく撫で回し、何やら卑猥なことを言っている場面だった。それは佳代が情報員の仕事に慣れてきた時のことだった。佳代も佳代で表面上は御愛想を言いながらも内心舌打ちし、(この男から情報の一つでも引き出せれば御の字ですね。ついでにデパコスや高い香水でも買ってもらいましょうか)などと考えていた。   自分の思い出の中に、一雄が語る情景に似たものは何一つなかった。佳代は急に、自分がやけに汚らわしく思えてきて、動揺した。  そんな時、二人は病院の入口に到着した。全ての汚れを吸い尽くしてしまいそうな程に白い外壁が、佳代の目には痛かった。  「じゃ、ここでお別れだ。そろそろ戻らないと、先輩にどやされちまう」  一雄はおどけた調子で言った。このまま何も言わずに病院に入ってやり過ごそう。佳代がこう思った時、去り際に一雄はこう囁いた。  「お前、青火組の人間だろ。俺は知ってる。今からでも遅くない、足洗ってやり直せ。お前は頭が良いから、暴力団に入るより、ずっと楽しく生きられる方法をすぐに見つけられる。真っ当に生きろ、佳代」  佳代がハッとして振り返った時、一雄はもう自分に背を向けて歩いていた。一雄は全て知っていたのだ。私が暴力団員であることも、私が彼の妹であることも。それを全て承知の上で、ここまで一緒にいてくれたのだ。  どうして。佳代は泣いて膝から崩れ落ちそうになった。暴力団員の人間と連れ添って歩いていたなんて知れたら、危険に陥るのはお兄ちゃんの方なのに。自分は散々両親に迷惑をかけて、挙句家族を捨てた薄情者なのに。  私はお母さんに、お父さんに、お兄ちゃんに、ただいまの一言さえ言う資格のない人間なのに。  「お兄ちゃん!」  佳代がこう叫んでも、一雄が振り返ることはなかった。どこからかやってきた枯れ葉が一枚、二人の間を通るだけだった。  胸ポケットのスマートフォンがメールを受信した音がした。しかし佳代はスマートフォンを手に取ることはなく、ただ考えていた。  自分は一体これからどうすれば、ただいまを言う資格のある人間になれるのだろう、と。
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