いってらっしゃいの後で

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いってらっしゃいの後で

『いってらっしゃい』  覚えのないメモに、私は一人、首を傾げる。  なんてない日の夕方、私の部屋、隅っこにある勉強机。その、鍵のかかる引き出しを開いた先を眺めながら。  そこにはうっすらホコリを被ったノートがあって、なんだか懐かしくなって開いてみた、その最後のページに。多分私の筆跡なんだけど、何があってどんなつもりで書いたのか思い出せない文字があった。  とはいえ、覚えていないことだけなら、仕方ないとも思いつつ。  一息ついて、マスクを外す。少し悩んでから汚れよけのエプロンなんかも外しながら。今日は久々の帰省。久々の、部屋の大掃除だった。  だから、気が散って余計な休憩を挟んじゃうのも、こんな日の醍醐味ってことで。誰かに言い訳するみたいに苦笑いが浮かぶ。  とはいえ。 「なんだっけ、これ……」  つい独り言がこぼれるも、困ったことに、思い出せそうにない。  何のノートだったのかはハッキリ覚えているのに。そう言えば、もう十年くらい前になるのかな。  まだ中学生だった頃の、英語の教科書みたいな。  そんな画風の、小さい等身のキャラクター。友達なんてほとんどいなかった私の、貴重な話し相手だった子達が、メモの下でこっちに向けて手を振っている。目の前にあるのは、そんな絵のページ。  辛いこと。悲しいこと。珍しく、ちょっと嬉しいこと。何か、話したいことができた時、私は、ちょうどこうして絵に描いていた。  日記にするのは、何故だろう、なんだか寂しく思ってしまったから。今なら分かる。本当は、きっと誰かに話したくて、できなくて。ただの文字だけだと虚しくなる気がしたから。  懐かしいな、だなんて思う。例えば初めの方にページを戻せば、少し絵も文字も拙くなるのが、一目で分かる。それはつまり、最初と最後でだいぶ時間が経ってるから。  高校に入って、幸いにも友だちができて。実際に人に話すようになってからは、このノートに何かを書くことも減っていたんだ。  とはいえ。 「でも、本当になんだっけ、これ」  また最後のページに戻る。あんまり覚えがない。  最初に戻る。『大丈夫』『いっしょにいるよ』だなんて書かれた文字は、今でも思い出せる。このノートも何冊目だったか、中学時代が終わりそうな不安を、書くに任せて書いた時の絵だ。その時の、ひんやりとした空気感まで思い出せるのに。  ページを捲る。『ドンマイ』『いい思い出になるよ』なんてメモは、期末テストで残念ながら事になった時。  それから、高校の制服を着てみた時。卒業式で泣けなかった時。春休み、早咲きの桜を見た時。入学式の日、隣の席の子に話しかけられた時。  次から時間が飛び飛びになるけれど。全部、全部覚えている。  友だちができた時。同じクラスの人に、好きだ、って言われた時。そのあと結局振られた時。  本当は中学の前からずっと好きだった人に、好きって言えなかったこと。言ってもらえなかったこと。  改めて見ると少しだけ恥ずかしくて、それがチクチク、寂しく思う。全部、映画みたいに思い出せるのに。 『いってらっしゃい』  最後のページだけ。なんでだろう、書いた時のことを思い出せずにいた。  ……ううん。  少しだけ、思い出していた。下の方にある絵には、そう言えば覚えがあったから。  なんてことはない、引越し前の、最後の夜。前のページと続けて書いて、もしかして、これが最後の絵になるのかな、だなんて思ってた、分かってた夜の空気。寂しくなんかないって思ったほうがいいのか、寂しいって思ったほうがいいのか迷いながら書いた記憶。前のページと混ざって思い出せなかったんだと思う。  だけど。 『いってらっしゃい』  その言葉が、どうしてだろう、ピンとこない。ありふれたメッセージのはずなのに、なんにも不自然なんかじゃないはずなのに。  どうして、不思議にすら感じるんだろう。分からないまま、一度ノートを引き出しに置きなおす。  どうして最後の最後だけ思い出せないのだろう。  それからすぐ、思い出が忙しくなったから。私は一度、目を伏せる。  知らない場所。自分から何かしないと何も起きないことを知った。久々に帰ってきて、久々に話した高校時代の友達に、なんだかずいぶん置いていかれた気がしてしまっていた。  二十歳になって、それから、それから。だんだん目まぐるしくなってきて、目を開ける。  いつの間にか、どうしても懐かしく感じる、いつかの私の部屋。  いってらっしゃいの文字だけが、今も、思い出せない。  だけど、少し何か頭の片隅に引っかかってきて、手を伸ばせば届きそうな気がしてきていた。絵を描いた時のことを思い出す流れで、言葉を残す時の感覚も、わかるような、ズレるような。  またページを戻す。やっぱり全部覚えていて。最後のページ。いってらっしゃい。  もう少し。  もう少しで、どんな声だったか思い出せそうなのに──  久々に開けた部屋の窓、少し黄ばんだカーテンが、さらさらと音を立てて揺れる。  懐かしい夢を見た朝みたいに眩しい風。首筋を撫でて、くすぐったくて笑みが浮かぶような。  なんと無しに伸びをする。あくびするフリまでこぼれて。だから、寂しくなんてないのに涙が滲みそうになった。  友達がいなかった私にとって本当に、大事な話し相手だったんだ。現実で上書きするのがもったいないくらいに。  入籍前の、最後の帰省。いくつかの荷物と思い出を置いて、私は、ここを離れる。夢から離れても、もう寂しくなんかないはずで。 「……いってきます」  笑みを浮かべて。 「その前に、ただいま」  目の奥がツンとするような懐かしい夢見心地。手を振る絵が、もう少し、笑ったような気がした。  あとになって思い出したことがある。  置いていく気がして、寂しくて、一緒にいくつもりで。「いってきます」って書き残した。そんな覚えがあったから、思い出せなかったんだって。  今度「ただいま」を言う時に、どういうことなのか、新しい思い出話のついでに聞いてみようかな。そんなことを思う、晴れ続きの日。
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