浮気の掌

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浮気の掌

 その美術館の中に入るのにチケットは要らなかった。僕の傍には無表情の彼女が居て、その細い指には二十一グラムの指輪が嵌っていた。首にはカメラにバツ印と『Don't touch me!』の文字がシールの様に貼られている。室温は正常、昨日食べたペスカトーレの匂いは未だ自分の隠し味。 「もし叶うなら一生踊っていたいね。そして一文無しになって餓死して駄犬の餌になりたいね」 「そうなったら、貴方は幸せ?」 「君の作ったジビエを食べるよりかは確かにね」 「あら、砂糖と塩を間違えただけなのに」    荘厳に飾られた美術品は、丹念に凝視すると絵画から人に変化する。水彩画は儚い少女に、油彩画は妖艶な美女に、清潔な中庭は安らいだ顔をした老婆に。それらには彼女とは違って何の禁止も施されていない。故に触ってやろうかと(てのひら)を向けると、あの『Don't touch me!』が首を振りながら睨みつけてくる。浮ついた気持ちを見透かされた僕は間が悪くなって、適当な言葉でその場を濁してしまう。 「……海が見たいな。あっちの絵に行こう」 「気まずくなったのね? 目を合わせなさいよ」  夢見心地の気分と怯えが半々で綺麗に分かたれている。心臓の上をタップダンスする驚きと共に、美術館はその彩りを変えていく。僕は着せ替え人形の様な美術品を見たくて入った訳では無い。僕が傷付けたら、同じだけ僕を傷付けてくれる物が欲しくて、探しているだけなのだ。 「最後にあなたが選ぶのはどうせ私なのにね」 「最適解を選ぶのに必要なのはいかに誠実であるかさ。結局全部を見ないと一番なんて決められない性分なんだよ。ほら、次の展示群だ」  知りたい。「脳味噌にはハニートーストが効く」  奪いたい。「仄かに潮の香りがしてきたぞ」  解りたい。「文化祭で買ったのはビー玉?」  閉じ篭ったら最後の美術館。  椅子に座っても出口は遠い。  やがて作品も無くなってお終い。   「無事に帰れると思うなよ、ダーリン?」 「……気を惹きたいだけの癖に、生意気だな」    この浮気の掌は何も選んではいない。  或いは既に選び尽くしただけなのかも知れない。ただ君に触れたくて、出来なくて、その忌々しい文字が掠れて消えるのを待っているだけかも知れない。  僕はこの美術館を出るまでに、本当に一番を決められるのだろうか。曖昧な疑問符を払い除ける為に意識を強制的に現実へ引き戻す。隣には暫定一位が居て、綻んだ表情を見せるのは一瞬だけ。   「最低ね!」 「最低だな!」  罵倒で二人踊り合う。生々しい傷を付け合う。  何故か誇らしい気分になって、掌を逸らす。
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