温泉旅館

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温泉旅館

 *その3日後*   列車は、山間部の長く続く緩やかな傾斜をスピードを落とし登って行く。  この傾斜を登り切った所に北佐和高原駅があり、そこには小規模ながら古くからある温泉地がある。  この列車に一人の旅行者が乗っている。名前は、田北聡(タキタ サトシ)。製菓メーカーに勤める31才のサラリーマンである。  今、彼は昨夏から家業の温泉旅館を継いでいる大学時代の友人、川田直樹(カワタ ナオキ)のお招きで、二泊三日の温泉旅行を満喫しに行くところである。 「この温泉に来るのは、大学3年の時のアルバイトの時以来だから10年ぶりになるのか。あっと言う間だな」  聡は大学時代に夏休みに、川田家の営む旅館で住み込みのアルバイトをしたことがあった。  因みに、川田はその時の宿泊客(三奈美(ミナミ))と3年前に結婚している。  そんな懐かしい思い出に浸っていると、列車はあっという間に目的の北佐和高原駅に到着した。  改札を出ると、駅舎は10年前と殆ど変っておらず懐かしい匂いを感じる。  温泉街は、駅前の通りを真直ぐに10分程度歩いたところに在り、数件の旅館や民宿が点在している。  前もって連絡をすれば各宿泊施設の車が迎えに来るのだが、聡は敢えて歩いて旅館まで向うことを選択した。  駅前の道は緩やかな登り坂の真直ぐな道で、背の高い杉並が続く。聡はその並木道を懐かしげに歩を進める。  そして、目的の友人の旅館まで半分程進んだところでのことである。聡は藪の中の騒がしさに気付いた。  何か生き物が動いているようなゴソゴソとした音がするのである。 「んっ、何だろ?」  ちょっと背筋に寒気が走ったが、興味の方が勝り聡は脚を止める。すると、そのタイミングを見計らった様に藪の中から”ひょい”と一匹のキツネが跳び出して来たのである。  不意を突かれた聡は、驚きのあまり身体を半身にして仰け反ってしまう。 「うぉ~キツネか~、びっくりした〜」  直ぐ目の前には通常の2倍はあろうかと言う大きなキツネがいる。  良く見ると、キツネはピンク色の花を1輪加えており、しかも、どことなく色っぽい。  キツネは聡に近づき暫し見つめるも、聡がキツネに”負けるか”と言う気持ち睨み返すと、キツネはあっさりと藪の中に消えて行く。  キツネの一連の様は、人間と思わせるような理知さと優雅さが見て取れ、不思議にもキツネが通った後には、微かにだが香水の様な匂いが漂っている。 「これ、キツネの匂いなのか?…まあ、そんな事どうでもいいか」  聡は気にするのを止めて、再び旅館に向けて歩を進め出す。  旅館が見えるところまで来ると、友人の川田が営む旅館の前で、大きく手を振る3人の姿が見えて来た。  その内の二人は予め移動する列車を伝えてあったので川田夫妻で間違いない。だが、一番手を振る女性が誰なのか分からない。独身の聡には非常に気になるところである。
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