冥府に惑う者

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 死者の魂を司る場所、冥府。その中枢たる冥府城の片隅で、少年は息を潜める。  齢20にも満たない彼の名はカル。冥府の住人ではなく、現世より忍び込んできた侵入者だ。  カルは柱の影に身を隠し、自分へと言い聞かせる。きっと大丈夫……この日のために全てを捨ててきたじゃないか。  彼がいる部屋には『玉座の間』という名前がついている。冥府の主、冥王の居室だ。  強大な魔力を持ち死者たちの上に君臨するというその冥王を、カルはこれから討たなければならない。全ては、奪われた恋人を取り戻すためだった。 「紫の火柱が立つのを見たら、あらゆる希望を捨てなさい」  カルの暮らす国に昔から伝わる言葉だ。紫色の焔は、冥王だけが操ることのできる力。そして、それは現世の住人が冥府へと連れ去られる時に現れる。抗うことはできない。死を司る王の気まぐれを、現世の人間たちは指をくわえて見ていることしかできなかった。  その火柱がカルの暮らす牧場に立った。標的の名はエイ。彼と兄妹同然に育ち、いつしか恋人となった少女だった。  カルが駆けつけた時、エイは目に涙を浮かべて腰を抜かしていた。その傍らで天まで伸びていた火柱は、急速に収縮し人の形を取った。  紫の焔に包まれた人型。真っ白い目を爛々と光らせたそれは、言い伝えに聞く冥王の姿そのものだった。 「助けて……!」  か細いエイの震え声に、カルは応えることができなかった。冥王の魔術のせいだろうか、彼の脚は前に進まなかったのだ。  冥王がエイに手をかざす。次の瞬間、彼女の身体は紫の焔に包まれた。結局焔が恋人と共に消えるまでの間、カルには何もできなかった。  ろくに喧嘩もしたことない牛飼いの少年には、人智を超えた存在と戦う術さえわからなかったのだ。  ただひたすらに、地面を拳で叩き続ける。カルの叫び声が、夕闇の牧場に虚しく響いた。 「迎えに行くから……冥王を倒せるくらい強くなったら、必ず迎えに行くから!」
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