夏の日の思い出、俺が後悔していること。

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 なにか話が聞きたい? いいよ。……そうだな。あの夏の日の話にするか。あの夏の日、俺たちは戦った。いや、俺は脇から見ていただけで戦ってはいなかったか。今になって思うと凄く残酷なことをさせていたと思うし、だからこそ激しい後悔を抱いている。そんな後悔の告白を今からする。  あれは10年以上前……俺が小学生だった頃だ。当時、巷ではデータカードダス(専用バーコードの付いたカードを使って遊ぶアーケードゲーム)が流行っていて、中でも特に世界中のカブトムシクワガタムシを戦わせるゲームが日本中で一大ブームを巻き起こしていた。  勿論、当時小学生だった俺らの間でもそのゲームは流行っていて、学校の休み時間では「誰誰がレアカードを当てた」だとか「何とかって雑誌に新カード情報が載った」だとかそんな話題で持ち切りだった。そして休日になれば皆でコンビニに集まってそのゲームをプレイしていた。大人になってから知ったんだが、こういったゲームはかつて『カード自販機』という扱いだったためコンビニやスーパーに設置することが出来たらしい。  ただ不思議な事にそのゲームのブームは俺らの間だと1年程度で終わった。世間的にはまだ流行っていたのにも関わらず、だ。まぁ小学生の流行りの移り変わりが早いのが世の常ではあるのだが。その代わり、俺らの間では新しい遊びが流行った。  きっかけはカードゲームブームが一段落してきた頃に学校周辺の近場に新しく個人経営の昆虫ショップが出来たことだった。多分ゲームの人気にあやかったんじゃないかと思う。で、当然そこにはゲームに登場する虫の実物が多く売られていたため、それらを一目見ようとクラスでもそこに訪れる奴ってのが一定数いた。  そこからだった。本物のカブトクワガタ同士を購入・或いは捕獲し戦わせる……所謂昆虫相撲というのが新たな流行となった。ゲームじゃ刺激が足りなかったんだろうか。それは分からない。  戦いのルールはいたってシンプル。ホームセンターで手に入れた30㎝程度の太い木をリングにし、そこに虫同士を置いて向かい合わせることで戦わせる。飼い主は棒でつつくことで虫の動きをある程度制御する。そして、先に戦意喪失した方か或いはリングから先に落ちた方が負けとなる。  俺はこのブームには少し遅れる形で参加することになった。昆虫相撲を話題にしているグループの奴らとあまり関わっていなかったことが原因だ。いや、そもそも俺は何かとブームに乗り遅れがちだった。そんな俺がブームに乗れたのは夏休み中……いや、夏休み前あたりの休日だったと記憶している。  いつも一緒に遊んでいる山内(仮名、本名ではない)の家に行ったらそこで偶然昆虫相撲グループの奴らと行き会ったのが始まりだった。グループの中心的存在・松田が山内とそこそこ仲が良く、松田が山内を遊びに誘おうと山内家に訪れていたらしい。で、山内を誘うついでみたいな感じで俺も松田のグループについて行くこととなった。  ホームセンターで虫かごなどの物資を一通り入手した後、山内と俺を含む10人前後で神社の境内まで自転車で行った。 向かった先の神社は松田たちが普段虫を探している場所だった。その日は制限時間内に虫を探し、そこで各々が捕まえた虫を戦わせるといったことが遊びの趣旨となった。  松田のグループの連中は探し慣れているので、日陰の土の中だとかよく出没する木の周辺だとかからいとも容易くカブトクワガタを見つけていっていた。だが、一方の俺はというとそういったノウハウが全く無かったことから制限時間になっても1匹も見つけることが出来なかった。アブラゼミなら何度も見つけた。しかし肝心のカブトクワガタが見つからない。これでは昆虫相撲に参加することが出来ず、またもや俺はブームに取り残されてしまう。危機感から焦りに焦ったが、焦ったところで見つかるわけもなく、残酷にも集合時間が来てしまった。  俺がとぼとぼと集合場所に集まった時、他のメンバーは松田からメジャーを借りて捕まえた虫の大きさを比較し合っていた。俺はカラの虫かごをぶら下げ、孤独に悔しさとみすぼらしさを感じていた。その時だった。グループの内の1人の佐藤ってのが俺に話しかけてきた。  「あ、俺結構捕まえたからさ……これやるよ。」  そう言って差し出してきたのは小さなコクワガタだった。5㎝ぐらいの奴だ。  「お、ありがとう。」  咄嗟に俺は礼を言った。これで何とか俺も昆虫相撲に参加することが出来る。だが……俺は手に乗っているコクワガタをまじまじと見つめた。こんなのでどうしろと言うんだ。周りの虫は7㎝台のカブトムシだったり、6㎝台のノコギリクワガタだったりと大物ぞろいだ。1匹も見つけられなかった俺が言うのも変だが、やるからには勝ちたい。今も昔もプライドだけは人一倍あった。……が、こんなチンケな虫で勝てるのか。俺は不安を抱えながらコクワガタを虫かごに入れた。  俺の横で松田はリュックサックから自由帳を取り出し、あみだくじを作成していた。これでトーナメント表の順序を決めるらしい。あみだの結果、俺は3試合目に戦うこととなった。  人生初の昆虫相撲の対戦相手は鈴木ってやつだった。鈴木の昆虫は6㎝台のカブトムシ。当然、コクワよりかは大きい。虫同士を向かい合わせた時、周囲は半笑いになっていた。  「コクワじゃ厳しいよな。」  「いやまだ分かんねぇだろ。」  そんなことを言っていたと思う。  「参加賞にしてはいい方じゃない?」  松田も馬鹿にしていた。正直俺も「無理だろ。」と引きつった笑いを見せていた。だが、事態は予想外の方向へと動いた。  試合開始直後、カブトはコクワを掬い上げようと角をキバと地面の隙間に差し込んだ。そしてそのままカブトが一気に持ち上げる……かと思われた。なんとコクワは持ち上げられなかった。小さな図体には見合わないような踏ん張りを見せて耐えていたのだ。最初こそコクワを馬鹿にしていたのだが、思ってもいなかったこの光景に俺を含め一同が驚いた。が、それでもまだコクワが勝てるとは思っていなかった。  コクワとカブトは一進一退の攻防を繰り広げ、どちらも持ち上げられるのを許さないといった状態が続いていた。そして、それから1分以上が経過したと思う。体力切れを起こしたカブトの隙を突いて、コクワが持ち上げることに成功した。その場にいた殆どがそれを見て声を上げていたと思う。そしてコクワは、カブトを投げて場外へと出して決着をつけた。コクワが勝った瞬間、周囲に大きなどよめきが起こった。これには流石の俺も「まじかよ!」と声を上げていた。  カブトの持ち主である鈴木も「すげぇ!」と純粋に驚いていた。勝ったのは俺じゃなくてコクワなのだが、この時はまるで自分が勝ったかのように嬉しかった。  ただまぁ、流石に1回勝っただけではまぐれだと思う人もいた。松田がその1人だった。  「偶然ってこともあるしな、うん。」  松田が言った。内心俺も一度限りの奇跡が起こったんだと思っていた。ビギナーズラックというやつだ。だが、その後もコクワは俺たちを驚かせてきた。準々決勝は山内のノコギリクワガタとの対決はノコギリの猛攻に耐え抜いたコクワがノコギリを場外へと押し出して勝利、続く準決勝で当たったグループのリーダー格・松田の7㎝級のカブト相手にも自慢の持久力を見せて再び押し出しによって勝利した。こんな小さな虫がまさかの決勝戦まできてしまった。  これを見た山内が「このコクワ、ドーピングでもしてんじゃね?」と冗談を言って周囲を笑わせていたが、そうでもなけれな説明がつかないんじゃないかと俺は小学生の頃の小さな脳味噌で考えていた。正直なところ、喜び半分困惑半分といった感じだった。  という訳でとうとう来てしまった決勝戦。相手はコクワをプレゼントしてくれた男、佐藤の7㎝台のヒラタクワガタ。恐らく今日捕まえた虫の中で一番の大物だ。ヒラタクワガタの気性が荒いというのは俺らの間では共通認識だった。ペアで買ったヒラタがメスを半日で殺害したとグループの一人が語っていたのを耳にしたこともあるぐらいだ。だから、いくらなんでもヒラタには勝てないんじゃないかと思った。不安の中、戦いが始まった。  そのヒラタは例に漏れず好戦的だった。コクワガタを見るや否や即座に威嚇を始めた。並大抵の虫ならこれだけで背を見せるだろう。だが、俺のコクワは違った。強大な相手の威嚇に一切動じていなかった。むしろ、ヒラタからの攻撃を今か今かと待っているようだった。   試合開始直後、ヒラタは大きなキバでコクワの胴体を捕えようとした。が、掴みどころを間違えたようで持ち上げられず失敗。ヒラタは一旦離れて再び仕切り直そうとしてきた。しかし、それもまた掴み損ねて失敗。  「全然掴めないなこいつ。」  佐藤が笑いながら呟く。他の皆も「こいつ不器用だな。」と笑っていた。だが、俺は気づいていた。ヒラタが不器用なんじゃない。むしろコクワが相手のキバの刺さる部分を急所から上手くずらすことで器用にいなしているんだ。この時、恐らく俺だけがこのコクワの強さに気付いていた。ただ脚の力があって持久力があるだけじゃない。このコクワは賢い。  中々相手を持ち上げられずにヒラタがイライラしだしたところで、ついにコクワがヒラタの内腹に潜り込み、キバをねじ込んだ。その場にいた一同が「おおっ」と声を上げた。  そして、ついにコクワがヒラタを投げ飛ばそうと宙へ浮かした。だが、ヒラタもただでは負けない。投げられまいと持ち前の力強いキバでコクワの胴を捕え、宙に浮いたままキバの力だけで態勢を保っていた。  「よしよしよしよし!」  佐藤が叫ぶ。  「戻るな戻るな戻るな!」  俺も叫ぶ。ここでヒラタが地面に落下すればコクワの勝ち、土俵に戻れば戦闘続行となる。ここで戦闘続行となれば、いくら耐久自慢のこいつといえども連戦による疲労と体格差から流石にキツいと俺は思った。だからいち早くここで決めて欲しかった。  だが、俺の願いはいとも容易く裏切られた。宙にいるヒラタはなんとか前脚を木に引っかけることに成功、土俵に戻ってしまった。その上、ヒラタのキバはコクワの胴を掴んだままだった。  「よっしゃ!」  佐藤が喜びの声を上げる。まずい……! と思ったその時だった。ヒラタを振り払おうとコクワがキバを突き出すように動いたことで、コクワのキバがヒラタにぶつかり、そのダメージを嫌がったヒラタが離れていった。そして離れた隙を突き、再びコクワがヒラタを掴んだ。今回掴んだのはキバだった。そしてヒラタを宙に浮かした。今度はヒラタの脚が完全に土俵から離れていた。その勢いのままコクワは後ろへ倒れ込むように投げ飛ばした。ヒラタは地面へと落下していった。こうして俺は人生初の昆虫相撲で、しかも小柄なコクワガタで階級差というハンデを覆し優勝してしまった。予想外の結果に周囲は「コクワつえぇ!」と驚愕しつつも俺と一緒に結果を喜び合った。佐藤は冗談交じりに「コクワあげなきゃよかったな。」と苦笑いしていた。俺はといえば、優勝が決まった時にバカでかい叫び声を上げて変な即興ダンスを踊っていた。実に小学生らしいと思う。  グループの新参が予想外の虫で優勝をかっさらっていくという光景なんてのは普通に考えれば受け入れがたい結果だ。だが、グループの大半が純粋にこの事実を楽しんでいた。ただ一人、松田を除いて。この結果に松田はどこか不服そうな顔を浮かべていた。それどころか何か話しかけられても空返事ばかりになっていた。  家に帰る前に俺はその辺から適当に土と木の枝を拾って虫かごの中に入れ、これをコクワの家とした。  さて日が暮れて家に帰った後なのだが、俺は興奮気味に今日のことを両親に伝えた。母親は何が何だかといった感じだったが、父親は少し関心を寄せていたようだった。  「こいつこんなちっさいのにめっちゃ強くてさ! 力もそうだけど技が凄いんだよ!」  コクワの入った虫かごを片手にリビングで熱弁していると、俺の正面でリモコンを片手にソファに座っている父がこんなことを言った。  「そりゃまるで『舞の海』みたいだな。」  「まいのうみ……?」  俺がぽかんとしていると父が喋りだした。  「相撲だよ。他と比べると小さいお相撲さんなんだが、努力と技術でのし上がっていったんだ。『技のデパート』なんて言われててね。」  俺の父親は相撲が好きだった。よく俺がチャンネルを回していると「そろそろ相撲の時間だから。」と相撲のチャンネルにするよう要求してきた。俺はそれに辟易しながらNHKにチャンネルを変えていた。  親に今日のことを一通り語り終えた後、俺は自室に入って机の窓に近い所に虫かごを置いた。そして静かに虫かごの蓋を開けて中を覗いた。コクワは木の真横で休んでいた。俺は唾をゴクリと一度呑み込んだ後、コクワへと恐る恐る手を伸ばした。触覚こそ動かしていたもののコクワは逃げなかった。  俺は実物のカブトクワガタを一度たりとも触ったことが無かった。昆虫ショップに行けば実物を見ることは出来るが、飼わなければ触ることは出来ない。つまりここで初めて本格的にクワガタを触ることになる。慎重にかごからコクワを外へと出した。  掴まれたことに驚いたコクワはじたばたと全身を使って抵抗しだした。だが、その時の力強さに俺は命の躍動を感じた。これが今日、多くのカブトクワガタを打ち破ってきた者のパワーなのか、と。虫というのは思っている以上に力があるんだ。俺は気づかされた。直感的にではあるが生命の強さの源に触れたような、そんな気がした。  眺めている内に俺はコクワにどこか親近感を抱くようになっていた。俺もコクワと同じ、身長は小柄な方で背の順になると決まって先頭から2、3番目になっていた。小学生ってのは運動出来る出来ないだとか身長が高い低いだとかでカーストが決まるようなところがあったから、俺は背の低さにコンプレックスを抱いていた。だが、このコクワの勇ましい激闘を見たことで考えが変わった。小さくても英雄になれると、ある種の自己投影をしていた。こいつのかっこよさに俺は惚れていた。  結局、その日の俺は飯を食べたり風呂に入ったりする時以外は寝るまでずっとかごの外からコクワガタを眺めていた。こうして、俺のひと夏の昆虫相撲物語が幕を開けた。  翌朝、教室に入ると既に登校していた昨日のメンバーが一斉に俺の方を向いた。どうやら昨日のコクワのことで盛り上がっていたようだった。俺が来たと同時にコクワの話題を振ってきた。それを聞いて俺はなんだかグループの英雄になれた気分だった。こんな体験が出来るのは中々ない。スクールカーストがあまり高くない俺は浮かれに浮かれた。ただ、どうやら松田だけは気に食わなかったようだった。全然話に乗っかってきていなかったのが凄く記憶に残っている。もしかするとこの後に起こる出来事の影響で、猶更そういう印象に磨きがかかっているのかもしれない。兎に角、この時の松田はいつもと何か違っていた。  そんなこんながあってから夏休みに入った。俺は暇さえあれば山内と他数人で昆虫相撲に勤しんでいた。ミヤマクワガタ、アカアシクワガタ……と様々な昆虫と戦わせてみたが、やはり俺のコクワの勝率は高かった。勿論、無敗ではない。時々押し出されることもある。しかし、脚力はやはり本物なようで土俵から浮かされたことは一度たりとも無かった。  そして夏休みの間、何もない時に俺はかごの中のコクワをじっと眺めていた。俺はキラキラと輝きを放っているコクワの瞳を見つめるのが兎に角好きだった。何というか、戦士の目というか……言い表せないんだけど歴戦の猛者の瞳って感じが気に入っていた。他のカブトクワガタとは目つきが違う……と少なくとも当時の俺はそう思っていた。写真にしておかなかったのが悔やまれるぐらいだ。  「なぁ、お前は今なにを考えてるんだ?」  コクワが何を考えているのかは分からない。分からないが、分からないなりにかごの中のコクワに俺は毎日話しかけていた。話しかければ、なんか友達になれるような気がしたからだ。  そんな順風満帆な昆虫相撲生活の中、俺とコクワの運命を左右する出来事が起こった。それは夏休み中盤の頃。久しぶりに松田のグループと昆虫相撲をすることになった時のことだ。いつものように山内の家に行ったら途中から松田たちがやってきたのだが、松田は俺を見つけるといきなり「やるぞ。」と一言だけ言ってきた。その表情と語気にいつものおちゃらけた松田が一切感じられなかったことに俺は少し恐怖を感じた。  その日はトーナメントは無しで各々が見たい対戦カードを組むといった形の試合形式となった。なった、というかそういう風に松田が決めた。今回はいつもの神社ではなく山内の家の車庫(といっても山内家はそこに車を置いていなかったので最早ただの物置き)で戦いが行われた。  松田はしゃがむといつものように地面に木を置き、肩下げ鞄から平たいプラスチックケースを取り出した。松田の持つ平たいケースには複数の仕切りがあるのだが、一部屋につきクワガタ1匹がぴったり収まるぐらいの広さしかない。あくまで捕獲した虫を持ち帰るためだけのケースだ。昆虫採集のガチ勢なら必需品レベルの物であり、当然のように松田は持っている。他にも何名か持っている人がいたが、俺を含めて持っていない人の方が多かったため、俺らの憧れの的となっていた。  松田のプラスチックケースには何種類かのクワガタが入っていた。その中から松田が選んだのは7から8㎝はあろう国産オオクワガタだった。松田がオオクワを取り出した途端、周囲はどよめいた。レアだからだ。国産オオクワガタはその道のマニアからの人気が高く、高額で取引されている。その上、野生種はかなりレアであり現在では絶滅危惧種に認定されているらしい。  流石に松田のオオクワガタは野生種ではなかった。少し前に昆虫ショップの夏休みキャンペーンのくじで当てたものらしい。ただ、そのオオクワには普通のオオクワとは異なる点があった。それに佐藤がいち早く気付いて指摘した。  「こいつ、目白くね?」  このオオクワは目が白かった。  「病気か?」  佐藤が聞くと松田が「いや。」と答えた。  「ホワイトアイってやつ。レアものだよ。くじで当てたのが偶然そうだった。」  『ホワイトアイ』。『アルビノ』と言った方が伝わる人が多いかもしれない。生まれつき色素が不足している状態で生まれることにより全身が真っ白な動物が誕生することがある。その確率は万分の1だ。先述の通り、大体の動物は体全体が美しい白色になるのだが、カブトクワガタにそれが発生した場合、目だけが白く変色する。そのため、『ホワイトアイ』という名が付いている。  ホワイトアイのオオクワを戦いに出すと聞いて俺はマジかよと思った。そんなレアものを戦いの場に駆り出すとは。万が一、それで寿命を削るようなことがあったらどうするんだ、なんてことを考えていた。だが、逆に言えばそれだけの覚悟を持って俺のコクワを倒しに来たということでもある。  「この前、こいつとその辺にいたオオスズメバチとを戦わせたら圧勝だった。オオスズメバチ真っ二つになっちゃってさぁ。」  オオクワを木の上に乗せながら喋る松田。小学生が虫にエグいことをするなんてのはよくあることだが、この時の松田の語りには残酷な無邪気さとは異なる質感が漂っていた。コクワを倒すためには何でもやるといった執念のようなものがあった。  俺もその場にしゃがみ、移動用に持ち込んだ虫かごから慎重にコクワを取り出して木に乗せた。向かい合わせたクワガタの間を佐藤が棒で遮り、試合開始のコールを行った。  「よし、じゃあ……始め!」  合図と共に棒を上げ、遂に2匹の英雄が相まみえた。どちらもいきなり攻めたりはせず睨みを利かせ合っていた。  オオクワには「オオ」の名を関するに相応しい風格があった。綺麗な曲線を描く鍬、光を反射する黒い光沢を纏った羽根、そして何よりコクワよりひと回り大きい体格が強者としての風格を醸し出していた。だが、コクワも負けていなかった。体格では負けているが、少しでも近づいたらただではおかないとでも言わんばかりに睨んでいた。  俺と松田はそれぞれ2匹のケツを棒で軽く押した。そして両者が接近すると遂に互いのキバが噛み合った。素早い身のこなしでオオクワのキバの間を挟むコクワ、そしてそれを上から挟み込んだオオクワ。キバが入り込む度に「ミキキ……」と力の籠った音が響く。  「いけっ! 持ち上げられるな!」  いつものように俺は声を出してコクワを応援していた。だが、松田は一言も発していなかった。普段であれば俺らみたいに声を張って盛り上げていたのだが、この時は違った。神妙な顔つきでオオクワをじっと見ていた。  キバが噛み合ったまま土俵を左右に行ったり来たりする2匹。どちらも持ち上げさせるのを許さない。力が入るたびにキバと鎧がぶつかって何度も「バチンバチン!」と音が鳴って一進一退の攻防を繰り広げる。全員に緊張が走る。俺も唾を飲んで見守る。見入るあまり全員喋ることを忘れている、そんな静寂の中だった。先に戦況を動かしたのは……最悪なことに松田のオオクワだった。  キバを噛み合わせたままコクワは、土俵際まで押し出され後ろの片足の足場を失ってしまった。それが良くなかった。その隙をついたオオクワにより、遂にコクワが思い切り持ち上げられてしまった。今まで一度たりとも持ち上げられたことのない俺のコクワが、だ。その光景は言ってしまえば『絶望』。敵に追い詰められてカラータイマーが赤く点滅してしまっている状態のウルトラマンを眼前でまざまざと見させられているような感じだ。大きく声を上げる周囲とは反対に、俺は言葉を失い冷汗を掻いていた。  だが、オオクワ側もあまりコンディションが良くなかったようだ。足場が悪かったようで奇跡的にすぐにコクワを地面に戻した。  「あぶねー!」  外野の一人が叫ぶ。相変わらず松田は表情を変えない。思わず俺は安堵のため息をついていた。  しかし、戦況が良くなったわけではない。コクワは土俵際の崖とも言えるような足場に立たされている。その上、戦況、体格差、力の差……と不利となる要素が数多くある。コクワからすれば絶体絶命の状況だった。僅かな希望に賭けて心の中で俺は祈った。  その時だった。コクワのキバに脚軽く小突かれたオオクワが態勢を崩し、そのままの勢いで落下していった。地に落ちたオオクワは俺たちに腹を向け、脚をじたばたと動かしていた。「俺の勝ち!」と腕を振り上げかけたところで、松田が先に口を開いた。  「今のなし。もう1回。」  その一言に俺は待て待てと言いかけた。確かに、今のオオクワの敗北は事故のようなものだ。だが、それでも土俵から出てしまった以上コクワの勝ちに変わりはない。第一、今までも同じような状況は何度もあったがその全ては落下した方の負けになっていたじゃないか。松田もそのルールに乗っ取っていた。 だが口を開きかけたところで松田がキッと俺を睨みつけてきた。まるで「逃げるのか」と言うかのように彼の目が威圧してきていた。小声になって俺は  「あ、ああ、分かった。」  と思わず反論するのを止めてしまった。こうして2回目の戦いが始まった。同じように互いの虫が向かい合った後、再び佐藤が試合開始のコールをおこなった。  「始め!」  2匹の昆虫が相手目掛けて突進していく。先手を打ったのは……松田のオオクワだった。悲しいことにコクワのキバはオオクワは届かなかった。オオクワのキバが外側からガッチリとコクワを捕えていた。それでも、コクワも負けじと持ち上がらないように脚を踏ん張らせ耐えていた。  「耐えろ耐えろ!」  必死に俺は叫んだ。中学だとか高校だとかの部活の応援の時でもここまで叫んではいなかったと思う。  先ほどの戦いからは打って変わり、2匹は互いにほとんど動かず攻防を繰り広げていた。叫び続ける俺。無言で戦いを見つめる松田、熱狂する他の奴ら。ミンミンゼミの声が戦いをよりヒートアップさせていく。その時だった。俺にとって最悪の……それも俺が今に至るまで後悔をし続けている原因となる出来事が始まった。  「あ!」  一同に松田以外の皆が叫ぶ。ついにオオクワがコクワを完全に持ち上げてしまった。足場も安定している上、持ち上げられ方からしてコクワが復帰する方法は限りなくゼロに近い。だが、俺が最悪を感じた部分はそこではなかった。俺が真っ先にそれに気づいた。気づいたが、口にしなかった。というより口に出来なかったと言った方が正しいのかもしれない。きっかけは持ち上げられる一瞬、「ブチッ」という小さく、嫌な音を耳にしたことからだった。  なんだ? と思ってコクワの小さな体を注視した時に俺は気づいてしまった。持ち上げられた勢いと脚の踏ん張りが合わさったことで、コクワの後ろ脚の1本がもげてしまったのだ。もげた1本は土俵に突き刺さったままになっていた。俺は唖然とした。気づいてしまった以上、勝ちとか負けとかはどうでもよくなっていた。  結局そのままコクワは土俵の外へと投げ飛ばされて敗北。俺のコクワ史上初の投げによる敗北に周囲は驚き盛り上がった。  「すげぇ! あのコクワに勝った!」  純粋な目を輝かせる山内に対し松田は  「いやこれが普通だよ。体格差ってのはやっぱ覆せないんだって。」  普段のような明るさを取り戻していた。一方で呆然自失となった俺は、仰向けになったまま脚をじたばたとさせて藻掻くコクワを優しく拾い上げて虫かごの中に戻した。  「負けちまったな!」  「ま、こういう時もあるって!」  露骨に顔色が変わった俺の様子に気付いた周囲はたしかこんな感じのことを言って俺を励ましていた。だが、それらの言葉の投げかけは俺には一切響いてこなかった。負けたことなんか本当にどうだってよかった。  その後、アトラスオオカブト(安価で手に入る海外産のカブトムシ)VS国産カブトだとかメンバーの中で因縁のある人同士での戦いだとか色んな試合が繰り広げられ、皆が熱狂していたが、俺はそれらを集中して見ることが出来ず、ことあるごとに俺は虫かごの中のコクワをチラチラと見ていた。コクワはかろうじてまだ生きてはいた。生きてはいたが、今までと比べると明らかに元気が無くなっていた。  せわしない俺の様子を見て山内が「どうした?」と聞いてきたが、俺は作り笑いで「なんでもない」と無理に返した。本当は今すぐにでも帰りたかった。  家に帰った俺は玄関に靴を投げ捨ててすぐに自室へと駆け込んだ。そして虫かごから急いでコクワを取り出した。コクワはまだ生きていた。が、今までと比べて立ち方が安定しておらずふらついていた。少しでも歩いたらすぐに躓きそうなぐらいだった。その上、コクワの目からは俺があれほど気に入っていた輝きも失われていた。  俺はコクワが何とか命を繋ぎ止めていることへの安心と、何かの拍子で死んでしまうんじゃないかという2つの思いで板挟みになっていた。コクワをそっと住処へ戻して霧吹きをかけてやった後、俺は机に突っ伏した。泣きはしなかったはずだ。だが胸が異様なほどそわそわして何も考えられなかった。母からいつの間に帰ってたの? だとか、ご飯出来たよ、とか、今日は俺の好きなカレーライスが夕飯だ、とか言われてもその場から離れなかった。  しばらくしてから心配になったのであろう母が俺の部屋にノックしてきた。俺は「もう少ししたら行く。」とだけ言った。無意識の内に声のトーンが下がっていたせいか「どうしたの?」と聞かれたが俺は「なんでもない」と適当に取り繕った。  母に話しかけられたことで少しだけ思考に余裕が出来た俺は顔を上げ、プラスチックの向こうにいるコクワの姿を見つめた。  確かに、「体格差」というたった一言で俺のコクワが否定されたのは悔しい。だが、それ以上に俺の心を占めていたのはコクワへの罪悪感と後悔だった。どうして俺はこんなにも大事に思っていたこいつを今まで危険な目にあわせていたのか、と。元はと言えば俺が勝手に自己投影をしだしたのが悪かったんじゃないか、と。松田のオオクワを見た時、よくこんな高価な虫を戦いの場に出そうと思ったなとか考えていたが、じゃあコクワは戦いに出して良いのか。大事なのに? 大事だったら戦いとは無縁の環境に置かせるんじゃないのか? なんでコクワに心配をかけてやれなかったんだ。コクワもオオクワも。俺も松田も同じ命を持っているのに? そもそも高価だとか安価だとか、なんで命を価格で見ているんだ? コクワの顔面に残った霧吹きの水滴がなんだか涙に見えた。  コクワの悲壮な瞳が見ていられない。見ていられないはずなのについつい見てしまう。矛盾を抱えながら俺は虫かごの中に隠れているコクワを見てずっと自分を責め続けた。その日、俺はベッドに入っても眠ることが出来なかった。  一週間後、再び俺は山内と遊ぶことになった。といってもその日遊ぶのは山内だけ。2人だけで遊ぶのはかなり久しぶりだった。虫は持ってきていない。持ってこないと決めた、と言った方が正しいか。という訳で俺らはずっとプレイステーション2で遊んでいた。のだが、ゲームで遊ぶのもなんだかマンネリしてきていた。やはりゲームでは昆虫相撲より刺激が弱かったのかもしれない。そこで山内が学校近くの昆虫ショップへ行かないかと誘ってきた。  昆虫ショップに俺は一度も行ったことがない。だから、恐らく夏休み開始直後の俺だったら二つ返事で行くと答えていただろう。だが、コクワの惨劇を見た後の俺はもう虫に関する話題に触れたくなくなっていた。もうコクワを戦場に送りだそうとは思えなかった。だから適当な理由を付けて断ろうかと考えるも、肝心の適当な理由が思い浮かばない。という訳で結局山内の押しに負けて俺らは昆虫ショップへ行くこととなった。  昆虫ショップは学校付近の住宅街の中に紛れ込むような形で建っていた。個人経営なので大きくはない。中に入った途端、そこで俺は驚いた。中に松田たちがいた。松田たちと出くわしてしまったのだ。本当に偶然だった。  「あれっ山内と俺(ここでは俺と言っておく)じゃん。」  松田が真っ先に反応する。周囲にいるメンバーも俺ら2人の存在に気付いた。丁度メンバー全員で昆虫くじを引いているところのようだった。松田が例のオオクワを当てたやつだ。各々が結果について語り合っていた。  「俺ゼリーばっかなんだけど!」  「ヘラクレス(1等のヘラクレスオオカブト)来い! ……スマトラオオヒラタかー。幼虫だけど。」  「ニジイロクワガタ! ……弱そうだな。」  一番良かったので3等のスマトラオオヒラタの幼虫とニジイロクワガタ。ただ、昆虫バトルでは使えなさそうだということであまり喜んでいなかった。メンバーの一人が俺らを見て「お前らも引けよ。」と言ってきた。言われると同時に山内はノリノリで引きにいっていた。が、俺は引かないことにした。「いま金あんまなくてさー。」とその時の俺は言った。勿論、本当は違う。もう自分のコクワ以外の昆虫を飼いたいとは思えなかった。もう俺のコクワのような不幸を見たくなかった。  山内がくじを引いている中、また別の一人が俺を見てこんなことを言い出した。  「コクワのリベンジマッチ見たいんだよな。」  それを聞いた他のメンツも同調しだした。  「確かに!」  「リベンジマッチは熱い。」  「また見てー!」  全員が盛り上がっていくのを感じ取って俺はドキリとした。まさか、またあのコクワを戦わせなくてはならないのか? 俺がそんなことを思っている陰で話の輪の中に松田も参入してくる。松田もリベンジマッチに賛成らしい。松田が俺を見て尋ねてきた  「いいよな?」  全員の視線が自分に向いた時、俺は悩んだ。悩んでしまった。周りの視線の圧が強かったからだ。ここで「いやぁ」なんて言ってしまえば俺はつまらないやつという扱いを受け、孤立の道を歩んでしまうことになる。スクールカーストの低下はなんとしてでも避けたい。  その上、実のところリベンジを成功させることでコクワの汚名を返上したいという感情が俺にはまだ残っていた。チビでもやれるんだということを証明したかった。コンプレックスまみれの俺にとっては勝利して見返すというその瞬間が必要だった。  だが、ここで承諾したらコクワはどうなる。辛うじて今は生き永らえているが、もう一度戦ったら本当に死ぬんじゃないだろうか。悩んだ末に俺は堅く笑いながら  「そのうちな。」  本当に雑で無難な保留をした。周囲が何かしらの反応をする前に結局、その直後に山内がくじで2等のギラファノコギリクワガタを当てたことでそちらに話題がかっさらわれていった。ギラファと言えば、世界最大級のクワガタだ。そのため、小学生からすれば世界最級のカブトことヘラクレスオオカブトと同じぐらい憧れを抱かれている。松田のグループは本物のギラファを前に大いに盛り上がっていた。こうしてリベンジマッチの話題は終わった。乗り切れたことに俺は安堵感を覚えた。  とはいえ、コクワの戦いを回避出来た訳じゃない。あくまで結論を先延ばしにしているだけだ。もやもやとした感情を何とか抑えながら俺はギラファを一目見に行った。  店員から山内へと受け渡された虫かごには巨大なクワガタが入っていた。俺以外の全員が目を輝かせてそれを見ていた。だが俺だけは不思議とギラファに魅力を感じられなかった。  「コクワとは大違いだな。」  「やっぱデカいは正義だよ。」  と誰かが言ったのを耳にした時は「ただデカいだけじゃん。俺のコクワはそこんじょらのとは違うんだぞ。」とキレそうになった。そんな気持ちを頑張って抑えた。  それから一時間近く駄弁った後に昆虫ショップの前で解散となった。俺は山内と2人で山内家に戻っていた。その時、俺は心の中のモヤを吐き出すように尋ねた。  「なあ……俺たちいつまで昆虫相撲するんだろうな。」  「どうした急に?」  「いや……何でも。」  ぶっきらぼうに俺は答えた。山内の方はといえばきょとんとした顔をしていた。それから、山内家でギラファを観察したり、再びプレイステーション2をして遊んだ。ゲームに熱中すればコクワという現実を忘れられるんじゃないかという僅かな期待に賭けて。だが、俺の頭からコクワは全くと言っていいほど離れてくれず、遊びには全然集中出来ていなかった。  家に着いてから俺はすぐに自室に籠った。どうしてもコクワのことが心配だったからだ。コクワは木の下でくつろいでいた。俺はじっとコクワを見つめた。今日、世界最大級のクワガタことギラファノコギリクワガタをじっくり見た訳なのだが、こうして改めて見るとやはり俺のコクワのが圧倒的に魅力的に感じられた。本当に俺はコクワのことが好きだった。こいつは体こそ小さいもののサイズ差を物ともしない勇ましさを持っている。にもかかわらず、俺にとっての最大のヒーローは「体格差」という一言で簡単に否定された。だからチビの俺としてはそれは違うと言いたかった。  だが、ヒーローは今や完全に生きることに疲れきっていた。脚を失い、全身は土で薄汚れ、瞳からもかつてのようなギラギラとした眩しさは消えていた。輝きを失ったその眼はもう戦いたくないと主人に訴えているようだった。  コクワを見つめながら俺は苦悩した。コクワの生命を取るか、俺のプライドを取るか。長く考えた。晩飯を食べる時も、入浴する時も、眠る時も、翌朝になってもずっと考えた。夏休みの課題なんかどうでもよくなるぐらいにはずっと考えた。考えに考え抜いた末で俺は決心した。  夏休みも終盤に差し掛かった頃。松田たちが集まるとの情報を聞きつけた俺は、コクワを携えて出かけることにした。場所は俺が佐藤からコクワを貰ったあの神社。……結局、俺は自分のプライドに負けてしまった。小さな命よりも大きな自尊心を優先してしまったのだ。  神社に来ると、俺に気付いた1人が手を振ってきた。振りながら「コクワは持ってきたよな?」と叫んで問いかけてきた。近づきながら俺は静かに無言で頷いた。松田も「リベンジ楽しみにしてるよ。」とわざとらしく言ってきた。 神社に全員が集まったのを松田が確認するとすぐに昆虫バトルが始まった。流石にいきなりリベンジマッチは行われなかった。他メンバーの昆虫相撲を観戦し、表向きには声を張り上げながら、内心では何かの間違いでリベンジマッチが行われなければいいと願っていた。この場に及んで、だ。  だが現実は非情だった。一時間近くが経った頃、松田が俺の方を見て「じゃあはじめっか。」と言ってきた。俺は覚悟を決めた。 松田は余裕の笑みを見せながらサッと見せつけるようにオオクワを出した。逆に俺はオオクワを優しく慎重に土俵に乗せた。この時の試合開始のコールは山内が行っていた。緊迫の時。目を閉じる俺。  「始め!」  山内の声を聞くと同時に俺は目を見開き、コクワのケツを棒で押し出した。大きなキバを振り上げて威嚇するオオクワへとコクワはゆっくりと前進する。だが、その歩みは恐れを知らぬという風には見えず、どちらかと言うと嫌々進んでいるように見えた。そして互いのキバが触れ合った瞬間、ついに激突の時が来た。  コクワのキバの外側から覆いかぶさるようのオオクワのキバが頭を挟む。キバを噛み合わせた2体は互いに脚を地面から離さぬよう踏ん張って微動だにしない。「メキ……メキ……」と痛々しい音が聞こえてきた。  「いけー!」  「踏ん張れ!」  周りの奴らが口々に叫ぶ。松田は叫びこそしていなかったが、自身の勝利を確信しているようにニヤリとして戦いを見守っている。俺はただ無言で戦いを見つめることしか出来ない。少しだけ吹く風が汗ばんだ俺の体を段々と冷たくしていく。  開始してから一分程度。ここに来てついに戦況が動いた。噛み合ったまま動いていなかったオオクワが一歩ずつ前進していき、コクワが押され始めてきた。少しずつ後退していくことで土俵際が近づいてくる。状況としては明らかに不利だ。  「押し出せ!」  松田が周囲の声に乗じてついに叫んだ。この時、俺は考えた。ここで勝利を祈るべきか。それとも無事な生還を祈るべきか。その時だった。俺以外の全員が叫んだ。  「うわああああああ!」  「うおおおおおおお!」  コクワの体が軽く浮いた……そう、持ち上げられてしまったのだ。だが辛うじて脚はまだ木を捕えている。オオクワはあの時と同じように脚をもいででも完全に浮かせようとしていたが、コクワは変わらず踏ん張りを利かせていた。人間には感じ取れないぐらいの微細な駆け引きがそこで行われていた。  オオクワは何度も繰り返し頭を上げてコクワを木から引きはがそうとする。コクワも負けじと猛攻に耐えている。俺は上手く踏ん張って逆転して欲しいという感情と下手に踏ん張ったらまた脚がもげてしまうのではないかという心配の感情の狭間に立たされていた。耐えきった先からの華麗な逆転劇をもう一度俺たちに見せて欲しい、という感情が邪なものであるというのは分かりきっていた。分かりきってはいたが止められなかった。  葛藤の最中、コクワの脚が1本、また1本と木から離れていく。幸いなことにもげはしていない。だが、コクワの敗北は次第に近づいてきていた。中身のない祈りを俺はただ繰り返していた。  その時だった。組み合っていたオオクワがコクワから離れた。どうやら足場が良くなかったらしい。祈りが届いたのかは分からないが、お陰でコクワは命拾いすることが出来た。  そして再びのキバの組み直しが行われた。態勢自体はあまり変わっていないものの、先ほどよりもオオクワの攻めの勢いが強くなってきていた。じゃあコクワはもう駄目なのか、と言えばそうじゃない。コクワの脚も先ほど以上に強く土俵を掴んでいる。死にかけの昆虫とは思えないぐらいだ。それだけじゃない。オオクワの脚が少しではあるが後退していっている。俺のコクワが、ついにあのオオクワを押し返していた。  まだそんな力を残していたとは……感心しかけたところで「いや違う」と俺は思った。力を残していたんじゃない。力を根性で湧き出させたんだ。そうだ。コクワもコクワで負けたくないんだ。勝ちたいんだ。勝利への渇望から力をひり出しているんだ。コクワの勇姿を見た俺の胸の内に再び熱いものが込み上げてくる感覚が蘇ってきた。そうだ。こいつは最初から自分自身の勝利のために戦っていたんじゃないか。何も俺のために戦っているわけじゃない。何も相棒の顔色を窺う必要なんか無かったんだ。  「コクワいけーっ!」  俺はかつての熱気を思い出して叫んだ。相変わらず頭を上下させ持ち上げようと試みるオオクワ。だがその程度、今のコクワには通用しない。俺だけには分かる。理解している。今日のコクワは今まで以上に粘り強い。事実、以前なら持ち上げられていたであろう状況でも一切動じていない。最初こそ勢いのあったオオクワだったがじわじわと体力が奪われていったことで動きが鈍くなってきていた。見ている松田の顔も次第に陰ってきていた。俺は握りしめる拳の手汗を感じていた。  そして、恐らく10分近くが経過した頃だったか。激闘の末、ついに勝負は決した。体力に限界を感じたのだろうか。オオクワがコクワの体からキバを離し、背を向けて土俵の脇へ歩いていった。昆虫相撲において戦意喪失による試合放棄は敗北扱いとなる。  「コクワが勝った……?」  山内が呟く。リベンジマッチという大それた名には似つかわないような決着ではあったが、俺のコクワが勝ったということに変わりはない。静かな戦いの幕引きに何とも言えない微妙な空気が漂う中、俺が  「勝った! っしゃ!」  と叫ぶと周囲もそれに流されて  「勝った!」  とはしゃいでいた。山内なんかは「リベンジ成功じゃん。」と俺の背を叩いていた。一方の松田も、納得いってなさそうな浮かない顔をしていたが  「負けた負けた。」  と今回は受け入れていたようだった。再戦は無かった。  戦いに勝利しコクワも無事。安心を得た俺の心は満足感で満たされた。コクワを虫かごに入れた頃には俺の顔にすっかり元の笑顔が戻っていた。その後もいくつか戦いが行われたが奇跡的にこれ以降コクワを戦わせることは無かった。悩みの種が消え去り、俺は機嫌良く家に帰ることが出来た。  そして帰宅後。自室に戻った時だった。移動用の虫かごを机に置き、飼育用虫かごに戻そうとコクワに手を伸ばした際。俺は気づいた。  「あれ……?」  コクワが動かない。普段なら俺の手が見えた瞬間に移動するなり触覚を動かすなり何かしらのリアクションを取っていたコクワが一切動かなかった。異変に気付いた俺は急いでコクワを外へと出した。嫌なソワソワ感がぶり返してきた。掌に乗せて何度もコクワを指でつついた。だが反応はない。更につついたり様々な角度からコクワを見てみたりした。何分か粘った後、俺は現実を理解した。コクワは死んだ。俺の中から全てが抜け落ちたような感じがした。夕日と共に悲壮に響くヒグラシの鳴き声が耳にこびりついた。それから俺は何日間か誰とも口を利かなくなった。両親から「どうした?」と聞かれても「いやなんでも。」としか言わなかった。頭の中に情報を入れたくなかったし、吐き出したくもなかった。  口を利かなくなった間、俺は考えた。最期の戦いの時、本当にコクワは勝ちたがっていたのだろうか。本当は勝ちたいんじゃなくてただ生きたいだけだったんじゃないだろうか。だとすれば、コクワの感情を理解したふりをして勝手なストーリーを作って、それで勝手に熱くなっていた俺は相当な馬鹿だ。自責の念を涙に変えたいと願うも出てはくれない。随分とマセた考えではあるが、それを俺はコクワからのバチだということにした。こうして最高と最悪の合わさった夏休みは終わった。  それから昆虫相撲のブームはデータカードダスブームの終焉と同時に自然と消えていった。少しでも昆虫相撲とかデータカードダスとかの話題を出せば「お前まだそんなのやってんの?」と馬鹿にされていた。山内もギラファの飼育を最後にブームから身を引いていた。小学生とは残酷なものである。  じゃあ俺は? というと、昆虫関連の話題からは真っ先に身を引いていたがコクワの遺体の入った飼育ケースをそのまま押し入れの中に放置していた。捨てようにも捨てられなかったのだ。標本にしてもよかったかもしれないがそれはそれで英雄を自分のための作品として、自己満足のためだけに消費しているみたいで嫌だった。小学生の頃の段階で明確にそういった思考を持っていた訳では無いが、成長して今になって当時の感情を言語化するとすればこんなところだと思う。  捨てられずに隅へと押しこまれた虫かごの化石はそのまま冬を越え春を通り過ぎ再びの夏を迎えても放置されていた。埃が貯まってカビが生え始めても俺は捨てられなかった。そして結局、虫かごを見つけた母が汚いからといつの間にか捨てていた。俺は憧れの英雄にして最愛の相棒に綺麗な最期を与えてやることすら出来なかった。いや、英雄の最期なんてのは美しくもなく意外とそういうものなのかもしれない。せめて中途半端に扱わず、すっきりと決別させられることが出来ればコクワも俺も苦しまずに済んだのに。こうして話をまとめてみると思う。俺は最低だ、て。  という訳で話はここまで。あえてこの話に教訓を付けるとするなら『命を粗末にするな!』、『中途半端に扱うな!』といったところになるだろう。これでこの話はおしまい……教訓を無理につけた上に強引にしめようとしている時点でまだ俺はコクワのことを物語のパーツとして消費したがっているな。消費したがっている時点で俺の心はまだ小学生の時から何も変わっていない。あの頃に置き去られたままだ。だから俺はこのまま一生コクワに縛られて生きていくんだ。そんな確信がある。俺は呪われてしまったんだ。  じゃあどうすればその呪縛から解き放たれるのか。それは分からない。分かってたらここまで語らない。というか、そもそもこうして語って物語にしてしまっている時点で罪を更に重ねてしまっている。最低より下ってなんて言うんだ?  ……つまり、うん、そうだな。この話をした上で俺から言うことがあるとすれば、「命はキャラクターじゃない」ってことだな。けどまぁ、大衆というのはそんなことに気づかないか、どうでもいいと思って生きていくんだろうけど、な。はははは。
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