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1 初夜
「モアーナ」
穏やかでずっしりとした声がドアを開けて入ってくる。
暗い寝室で、壁のランプの光は彼の表情がわかるくらいに彼を明るく照らした。
彼も緊張しているのか、いつも見る険しそうな表情がさらに固く感じた。
わたくしはベッドの上で長いブロンドの髪を指先でいじりながら待っていた。
男はゆっくりと足を踏み入れたが、境界線がそこにあるかのように、それ以上足を踏み出すことはない。
「オセロー、もっと近くにきて」
優しく、だが凛とした声で彼の名を呼んだ。
わたくしも十分に緊張していたが、それでもはやく彼を近くに感じたかった。
「悪いがこれ以上はやめておこう」
「どうして?」
なぜそんなことを言うのかわからない。
心底不思議になって、わたくしはオセローに聞き返した。
「……私が君とベッドを共にすることは永遠にないだろう」
それは、素敵な初夜になるかと、どきどきと胸を高鳴らせて期待しながら待っていたわたくしに落とされた言葉だった。
夫となったオセローが無表情でわたくしを見下ろす。
その目は、何か嫌なものを見るように細められていて、目が合いそうになるとすぐに逸らされた。
「……いきなり……なんですの?」
感情のまま叫びたいのを必死で我慢して捻り出したわたくしの声は、最初少しだけ震えた。
それでも、気品と威厳を意地でも保った。
「言わなくてもわかるだろう?」
「わかりませんわ」
何を言わんとしているのか、わかりたくもない。
わたくしは突っぱねたように突き返した。
貴族の令嬢たるもの、どんな時でも背筋を伸ばし、隙を見せてはならない。例え、それが最愛の人の前であっても。
「君を愛することはない、そう言ったんだ」
やはりそういうことなの。けれど、わたくしたちの結婚は政略結婚。元々愛などというものは彼とわたくしの間にはない。
それでも、期待することは止められなかった。
「これから一緒にいれば、普通の恋愛結婚とはいかないでも、それなりに愛を育てていけますわ」
「君とでは到底むりだろう」
「そんなこと……、夫婦生活をしていけば」
「モアーナ」
いずれ育んでいける……、そう続けたかったわたくしの言葉を強く遮るように、夫のオセローはわたくしの名を呼んだ。
「離婚は政略的にできないから、君とは白い結婚を続けたい」
「なにを言って……」
「こちらも好きにするから、君も好きにしたらいい」
「白い結婚だなんて……認められませんわ! あ、跡継ぎは! 跡継ぎはどうするのです!」
「跡継ぎは庶子の中から選んだらいいだろう。私と愛人の子でも、君と愛人の子でも、優秀な子に跡を継がせればいいさ」
「そんなの……そんなこと認められませんわ! わたくしたちの間に生まれた子でなければブランバンティオ伯爵家の跡継ぎとは認められない! 認めません!」
わたくしの実家のキャシオン伯爵家だって、そんなことは納得しないだろう。
「モアーナ」
まただ。
また名前を呼ばれた。
静かで低く、落ち着いた声。
ずっと聞いていたいほどにセクシーで、その声で名前を呼ばれるたびにわたくしは黙ってしまう。
「私は……君では勃たないよ」
わたくしは夫のオセロー・ブランバンティオに嫌われている。
幼い頃から決められた政略結婚ではあったが、昔からオセローが好きだった。
わたくしはキャシオン伯爵家に生まれた長女で、彼もわたくしと同じ伯爵家の生まれ。
二歳年上の美しい顔に似合わぬほど剣術に富んでいた彼は、年々体格も良くなっていった。
そんな彼の成長をわたくしはずっと見ていた。
わたくしの淡い初恋は年を追うごとに色濃く、強い色を放つようになる。
真っ赤な薔薇のように、わたくしの中で赤々と咲き誇っていった。
お互いを知るために、わたくしたちの両親は、誕生日やお茶会を開き、定期的に会わせるようにしていた。
彼は凛としていて、物静かで、並外れて美しい人だった。
ますますわたくしの恋心はくすぐられてしまう。
わたくしは伯爵家に生まれて、貴族の娘として恥じぬよう育てられた。
家にも両親にも恵まれ、豊かな富と名声に似合う美貌を持って生まれてきた。
蝶よ華よと言われてきたが、それに満足することなく美しさを磨いた。
『もっときつく締めて』
『はい、お嬢様』
メイドにコルセットをきつく締め上げられて体が悲鳴を上げる。
それでも美しいドレスに似合う体型を維持するため、食事も小鳥の餌ほどしか食べずに過ごしてきた。
貴族の娘はみんなわたくしのようにか細い腰を目指して体型を作る。
スラリとした細すぎる腰と華奢な体を手に入れて美しいドレスを着込むのだ。
『高位貴族の娘といえども、侮られてはならない』
これは厳格なお祖父様の言葉だった。
わたくしはただ、このお祖父様の教えを守り、貴族として誇り高く、美しくあるために努力してきた。
両親は、そんなに努力をしなくても今のままで十分美しいよ、と言ってくれが、わたくしはその言葉に満足できなかった。
努力して手に入れた磨き上げた美しい体型に美貌。高位貴族として誇り高きプライドを持ち合わせて、わたくしはずっと生きてきた。
『きみではたたないよ……?』
言われたことの意味を理解できるまでに相当の時間を要した。
唖然とするわたくしを気にした様子もなくさらに言葉を重ねる。
「きみの細すぎる腰にはそそられないな」
「…………なんですって……?」
「そのつり上がった強気で隙のない目にもほとほと嫌気が差すよ」
「……っ! これは、生まれつきなのです。仕方ないではありませんか」
「そうだろうね。君と私とでは、違いすぎて合うはずもない。君は気性が激しすぎるんだよ」
気性が激しいだなんて、真正面から言われたのは初めてのことだった。
いままで物静かであまり喋らない方だと思っていたのに、今夜は口が回るようだ。お酒でも煽ってきたのだろう。よく見ると顔が真っ赤で目も充血ぎみだった。
お酒の力を借りての口だとしても、わたくしの心に強く衝撃が走った。
動揺してしまい、次の言葉が出てこない。
ひどい言葉で心をずたずたに引き裂かれた。だけど、わたくしは彼の前では涙も見せずに振る舞った。
それが貴族の娘として当然の態度だったからだ。
一貫して毅然とした態度を徹し、相手に弱味を見せてはならない。
ふるふると体が震え出すのを両手で抑え、彼を睨みつけて怒りで悲しみを誤魔化した。
そんなわたくしの様子に落胆したかのように彼は大きく肩を落とた。
ふう、とため息を吐いてドアの方に向く。そのままわたくしの方を振り返りもせずに颯爽と部屋から出ていってしまった。
白い結婚。
高位貴族の妻としての務めでもある後継を残す、ということを拒否されたのだ。
それはわたくしにとって侮辱に等しかった。売女め! と罵られるのと同じくらいに、心に重くのしかかる。
今まで十六年間生きてきて味わった屈辱。
彼がいなくなった夫婦の寝室で、やっと一人寂しく寝具を濡らした。次々と溢れる涙を、肌触りのいいシーツが受け止めていく。
弱気なところを見せるのは自分自身の前だけだ。
こんな仕打ちを受けてもわたくしの彼を想う心は止まらなかった。
自分は意地にでもなっているのだろうか?
振り向いて貰えないからこそ、強く欲しがってしまう。この気持ちは子どもがするような、ないものねだりにも似ている気がする。
だが、彼に強く心惹かれてやまないのは事実だ。
彼を想う気持ちに嘘はない。
どれだけ彼のことを想っても、彼はわたくしのことなど見向きもしないのに。
ああ、オセロー。
愛している。
この想いがあなたに届き、少しでもあなたが振り向いてくれればいい。
愛しそうにわたくしを見つめ、そしてわたくしもあなたの瞳を見つめ返す。
そんな夢物語を願わずにはいられなかった。
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