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   この時期の裏山は若い竹の葉が生い茂っていて、日陰が多くて明るい。きらきらとした木漏れ日が細かいスポットライトみたいで綺麗だった。中腹辺りには来夢の膝くらいの高さの小さな滝がある。湧き出る水が冷たく澄んでいて、来夢のお気に入りの場所だ。  1度遊び始めれば機嫌が直るのも早いものだ。2匹重なった蛙の下あごをのぞき込んだり、藤の花のトンネルをくぐったり、珍しい色の蝶を追いかけたりをしているうちに、あっという間に真上にあった太陽は沈みかけていた。 「あ、やっべ」  遠くで6時を知らせる鐘がなっている。錆びたスピーカーが奏でる、どこかもの寂しい『ななつのこ』。烏が鳴いたから、家に帰らなくっちゃいけない。やっとこさ捕まえた大きな蝶を空へと放し、慌てて山道を駆け下り始めた。  異変に気が付いたのは、まさにその帰り道での事だ。 (……あれ?)  人が居る、怪訝そうに首を傾げた。  駆け足で下る獣道の先に、覚えのない人影が見える。  光の加減で顔の造形まではわからないが、恐ろしく足が長くてスーツを着ていた。チェーリップを逆さにしたような、古めかしい形の帽子を被った男だった。  思わず足が止まる。人見知りをする方ではなかったが、この山が祖父のものである事くらいは理解している。それに近所の人間は殆ど顔見知りだ。目の前の男は無断で他人の土地にやってきた侵入者でないか、という予感が働いたのだ。    男は切り倒された竹の根元をのぞき込んでいた。針金のような長躯を折り曲げて、地面の上に生え残った竹の空洞に目を押し当てて、一心不乱に中をのぞき込んでいる。 「おーい」  男が声を出した。あまりの声量に肩が跳ねる。竹藪に音が反響しているのだろうか。まるで頭上から声が降ってきたような気がした。 「おーい、おいおいおいおいおぉ~い」  彼は竹の空洞に向かって呼びかけ続けた。うわんうわんと音が反響する。竹藪が怯えるように震えていた。誰もいないはずの穴に呼びかける様は、男を一層異形めいて見せる。 (もしかして、おばけ……なんじゃないか)  怖ろしくなって近くの岩陰に隠れた。どきどきと心臓が鳴る。岩の向こうからも呼びかける声は暫く続いていたが、やがてぴたりと止んだ。  おそるおそる顔を覗かせて、ほっと息をついた。もう男の姿はない。 (早くばあちゃんに知らせないと……)  そう思って駆け出そうとした時、ふと、なんとなく、男が何に呼びかけていたのかが気になった。  緊張が解けたせいだ。好奇心がむくむくと膨れあがる。止しておけよ、なんて警鐘を鳴らす自分もいるが、結局抗えなかった。来夢は男がのぞき込んでいた竹の根元の前で足を止める。  通行の妨げになるからと根本から切られてしまった大きな竹。地面に突き刺さる筒のような姿になっても存在感があった。 (ただの竹、だよな?)  中を覗いて「あっ!?」思わず声が出た。  そこにいたのは自分だった。竹の空洞をのぞき込む自分の後頭部を、来夢は覗き込んでいた。こんな事があるのか。摩訶不思議な現象に胸が高鳴る。そして冷静な部分が、同時にある予感に思い至った。 (あの人はここで竹を覗く自分に呼び掛けていたのかな? ……だとしたら凄く間抜けだけど)  もしかして、あの人が見ていたのは。  ぞわ、と嫌な予感が背筋を駆け抜けた。じわじわと嫌な予感に侵食されていく脳がガンガンと揺れ、下腹のあたりがきゅっとしめつけられるような気分になる。  音を立てないようにして、ゆっくり、ゆっくりと振り返った。  先ほどまで来夢がいた岩陰に男が立っている。今度はその顔立ちが良く見えた。  一言で表すと異様だった。真っ白な瞼も真っ赤な唇も、太い麻紐で縫い留められている。  縫われた口でどうやった声を出していたのだろう。  縫われた目で何を見ようとしていたのだろう。 「おーい」  男が呼ぶ。  縫われた目と目が合う。見つかった。縫われた口が大きく歪む。笑っている。そこにいたのかと、笑っている。  彼は最初から、来夢を呼んでいたのだ。
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