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 霜冷えする風が吹き募るある日、真里也は学校を早退して病院にいた。  四人部屋の窓側のベッドで静かに眠る博の顔を見ていると、点滴の針が刺さった腕が目に入る。一緒に暮らしていて、博の腕をまじまじと見ることなどなかったから、こんなにも細くて、血管が透けて見えているとは知らなかった。  泣きそうになる気持ちを紛らわそうと、真里也は窓の外へ視線を置いた。  健康診断の結果を見てホッとした。なのに、博は買い物の途中で意識消失してしまった。  商店街を歩いているときでよかった……。  もし、家にひとりでいた時に倒れていたら、真里也が学校から戻るまで博の異変に気付く人間はいない。考えただけでゾッとした。  家族は高校生の真里也だけだから、医師から症状を聞くのも当然、真里也しかいない。  消化器内科の先生って、手術はしないんだ。そっか、内科って言うくらいだもんな……。  そんな当たり前のことを考えて、恐怖を断ち切ろうとしても、結果も、受けたショックも変わらない。  酒は程々。煙草は吸わない。父から聞いた限り、若い頃から博の嗜好の幅は変わっていない。七十も超えれば暴飲暴食することもないし、日課の散歩は雨の日以外は毎日欠かさずしていた。なのに……。  膵臓癌ってなんだよ。そもそも、膵臓ってどこにあるんだ。  担当医は、高校生の真里也でも理解できるよう、わかりやすく説明してくれたが、ショックが大き過ぎて、全てを頭に入れることは無理だった。  初期の膵臓癌は自覚症状がほとんどないこと。膵臓癌が進行すると、背中の痛みが出現し、とくに左側が痛くなること。その他にも、皮膚が黄色くなる黄疸や、体重減少、食欲不振などが見られることもあると、医者は言っていた気がする。  確かに博の食欲は落ちていた。けれど、全く食べないってわけじゃない。  ふと、仏像を掘る博の後ろ姿を思い出した。彫刻刀を持つ手を置き、時々背中をさすっていたような気がする。  もし、それが予兆だったとしても、医療に詳しくない十代の真里也に気付くわけがない。  膝に置いていたこぶしを更にきつく握り、博の顔にもう一度視線を落とした。 「じい……ちゃん」  呟くと、耐えていた涙が溢れた。  頬を伝う雫が手の甲に落ちても、拭うこともせず、声を殺して泣いた。  部屋は満床で、他のベッドからは眠っているのか、何も聞こえない。  迷惑になるから、早く泣き止まなければならないのに、涙は後から後から溢れてくる。  どれくらいの時間が経ったのか、ベッドを仕切っているカーテンが開かれ、看護師が点滴を交換し、眠る博の様子を診ている。脈を測ったり、指先で酸素を測ったりしていた。  同室の患者が運ばれてきた食事をしているのか、食器に触れる音や咀嚼音が聞こえ、もうそんな時間だったのかと、真里也はスマホで時間を確認した。  すると、仕切りのカーテンが揺れ、隙間から見慣れた指先が見えた。 「真里也……」  遠慮がちに布が開かれると、羽琉が小さな声で名前を呼んできた。 「は……る……」  ダメだ。羽琉の顔を見ると、大声で泣き叫びそうになる。  真里也の気持ちを察したのか、博の顔を見た後、「ちょっと外に行くか」と、誘ってくれた。  二人して病院の中庭までやって来ると、山茶花(さざんか)が植栽されている、すぐ側のベンチに座った。  夕食どきなことと、面会時間終了が押し迫っているからか、外には二人意外誰もいない。  冷たい風が木の葉を揺らしているけれど、枝ぶりが立派な木々が二人を囲むように植えられていたから、風が直接当たらず寒さはマシだった。 「……羽琉、バイトは?」  沈黙を先に破ったのは真里也だった。  この時間に病院へ来てくれたってことは、バイトを休まないと無理だ。  また、迷惑をかけたんだなと、溜息を吐いて肩を落とした。 「店長がな、行ってこいって休ませてくれたんだ。じいちゃんが腰を押さえて倒れたとこも見てたんだよ。救急車呼んだのも店長だからな」  そう言えば、学校に電話をしてくれたのも深町だったなと、今更ながらに思い出した。 「……そっか。またおじさんにお礼を言わないとな……」 「そうだな。でも、それは今度でいい。店長もわかってくれてるからさ。な、真里也」  いつもの何倍もの優しい声で労るように言うから、引っ込んでいた涙がまた溢れてきた。 「……なあ、羽琉。知ってる……か? 血液検査……ってさ、いっぱい項目があるんだ……」  真里也の言っている意味がピンと来てないのか、どう言う意味? と聞いているように眸を数回瞬かせている。 「じいちゃんの食欲が減ってたからさ、病院へ行けって言ったんだ。じいちゃんはちゃんと行ったんだよ。でも、行ったのはさ、区がやってる? 健康診断だった」 「うん、それで?」  羽琉が前のめりになって、真里也の話を聞いてくれる。体を前に倒しているから、木々の隙間から侵入してくる風は、真里也に直接当たらない。  優しい羽琉だからこその気遣いだった。 「区の健康診断ってさ、なんて言うか、俺も詳しくは知らないけど、生活習慣病? ってのに重点を置いてて、癌かどうかがわかる項目はないんだって。おまけに、じい……ちゃんの病気の場所って、サイレントキラーって呼ばれてるんだ。なんか怖そうな名前だよな」  戦隊モノだと絶対悪者だよなと、笑って言ったら羽琉に肩を抱かれていた。 「無理して明るくしなくていい。俺の前だけは、泣いたっていいんだ」  言葉を紡ぐ音に合わせて、羽琉の大きな手が背中を撫でてくれる。それがスイッチとなって、また涙が溢れた。  しとどに頬を濡らしていると、羽琉の指が涙を掬ってくれる。涙が冷えると凍えて風邪ひくじゃん、なんて言って。  泣いたっていいって言ってくれたのに、どっちだよって言いたかったけれど、今の真里也にその元気はない。  真里也は担当の医者から聞いた話を、ゆっくり、全部を羽琉に話した。  病期は四期。その中でも、悪い方らしいことを。羽琉が四期って? と聞いてきたから、発生した場所だけではなく、他の臓器やリンパ節に癌が転移している状態だと伝えた。 「だから、手術はできないって言われた。抗がん剤? って薬も効果が出るかどうかわからないんだって……。全身に癌が広がっているから治療できても、転移した場所くらいしか効果がでない……かもって……。それに高齢だから治療に耐えられ……るかどう——」  最後まで言えず、真里也は嗚咽した。  途切れ途切れの声で、余命は数ヶ月だってと、付け足して。 「……そうか」  羽琉はひと言だけ口にすると、その後はずっと、真里也の背中を撫でてくれていた。  肌を刺すような寒風の中、羽琉から伝わる体温だけが温かった。
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