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 母が帰った後、暫くして玉垣が権利書を受け取りに来た。  今日の玉垣はあっさりしたもので、居間でお茶でもと言う前に、意気揚々として帰ってしまった。  玉垣が嬉しそうにしていたから、きっと羽琉も喜んでいる。  ひとりぼっちの夕食を終え、真里也は片付けをしながら羽琉と一緒に暮らすことを想像していた。  小さい頃から守ってもらうのも、助けてくれたのも羽琉で、自分は何も返すことができていない。  だから、今回の玉垣の申し出は羽琉にお返しできる、真里也にとって願ってもないチャンスだ。  洗い物を終え、濡れた手を拭いていると、座卓に置いているスマホが鳴った。  画面には登録したばかりの、『母』と言う文字が表示されている。  メッセージを開くと、今日はありがとうのひと言に、真里也は既読をつけた。  突然の母の訪問に驚きはしたし、まだ許せない気持ちは残っている。けれど、母の話を聞いて、怯える気持ちは少し減少したように思う。  積極的に会いたいとは思わないけれど、例えば、大学を無事合格できた時には知らせたいとは思えるくらいにはなっていた。  返事をどうしようかと考えていると、實川から電話がかかってきた。普段なら一生徒に教師が連絡することは少ないけれど、真里也の場合、奨学金の手続きなどがあって、たまに電話で連絡を取ることがあった。  きっとこの電話もそうだろうと思って出ると、やっぱり大学費用の話だった。 『じゃあ、大学費用は奨学金の手続きはいいんだな』 「はい、父の残してくれた貯金と、保険金がありますからそれで大丈夫かと……。それに俺も、羽琉みたいにバイトするし」 『そうか。じゃ、気が変わったら早めに言ってくれ。けど、お前ら最近一緒に連んでないな。喧嘩でもしたのか」  實川の心配げな声に迷ったが、實川ならいいかと、かいつまんで玉垣の話をした。 「それで、俺の家の住所を居住地だって言えば、羽琉の父さんも仕事ができるらしく、で、羽琉は俺の家で一緒に暮らそうって話そうと思ってるんです」 『ちょ。ちょっと待て。居住地って、お前の家に玉垣親子が住むってことになったのか? 住民票を彼らはお前の家に移したってことか?』  實川の言っている意味がわからず、玉垣から権利書を貸して欲しいと言われた話をした。  すると、『権利書だって!』と、實川に大声で叫ばれてしまった。 「はい。羽琉の父ちゃんが、権利書を借りればここに住んでるってことにできて、就職口を探せるから——って、先生……。ち、違うんですかっ!」  妙な胸騒ぎがし、今度は真里也が叫んでいた。 『権利書なんて住所をお前の家にする時に必要ない。権利書って言うのはな、家や土地を売るときに必要な大切な書類なんだ』 「そ……んな。だって、おじさんはちょっと借りればすぐ返すって。これで仕事できるって、俺に、頭……下げて……くれて」  信じられない。こんなの嘘だと、真里也は頭の中で発狂した。 『射邊、今からそっちに行くから。俺が着くまで誰が来ても玄関を開けるなっ。誰も家に入れるんじゃないぞっ』  声だけでも實川が慌てているのがわかる。電話で相手の顔が見えないのに、真里也は半泣きになりながら、うんうんと何度も頷いていた。  通話を終えると全身の力が抜け、手の中からスマホが溢れ落ちた。足の甲に当たったけれど何も感じない。膝から崩れてしまった真里也は、畳の上に四つん這いになると、数日前にこの部屋で玉垣と交わした会話を思い出していた。  彼の言葉、言動に最初は訝しく思ったけれど、仕事の話を聞いて疑いは薄れた。おまけに羽琉との暮らしに自分は舞い上がり、早く蟠りを解消して前みたいに一緒にいたいと、それしか頭にはなかった。  畳の上に雫が落ちる。ポツポツとシミが出来ては畳に吸い込まれていく。  真里也はそのまま動けず、とうとう畳の上に突っ伏して大声で泣いてしまった。  實川の切羽詰まった声、今から行くと言うほど重要なことなのだと、浅はかな自分を恥じた。  どうして信じたのか。小さな羽琉を殴る蹴るしてきた男の言葉を。  だって、頭を下げてくれたから。何度も何度も、謝ってくれたから。だからもう、彼は普通の父親になったのだと。これからなるのだと思った。  どうしよう、どうしよう。大切なじいちゃんの家を取られたら。俺は、俺は……。  嗚咽が止まらず、涙を流していると、スマホが鳴って實川が家の前に来たことを知らせた。  玄関までダッシュし、引き戸を思いっきり開けると、實川と一緒に水鳥の姿もあった。 「せん……せい」 「射邊、平気か。勝手に水鳥さんを連れて来たけど、よかったか——」  實川の言葉を最後まで聞くことができず、真里也はその場に座り込むと、泣き顔で大きく、深く頷いて見せた。  涙声で居間に案内すると、続けて玄関の開く音がし、遅れて家に入って来たのは、桐生だった。 「たまたま桐生と今日飯を食う約束してたから、ここまで連れて来てもらったんだ。車をすぐ出せるって言うからさ。勝手に呼んで悪かったな」 「い……え、すいま……せん。俺……が馬鹿で……すぐ信じちゃったから……だから」  さっきより幾分か落ち着くと、お茶を淹れてきますと言って台所に向かった。  すぐ後ろを實川が追ってきてくれて、手伝うとよと、ヤカンを火にかけてくれる。 「先生、水鳥さんもすいません。俺、迷惑かけてばっかで……」  人数分の湯呑みを座卓に並べ終えると、盆を抱えたまま真里也は小さくなって座った。 「渡してしまったものは仕方ない。それに、家の名義を変えたり、売る時には権利書だけじゃ無理なんだよ。他にも必要な書類がある。その、玉垣? さんとやらが他の書類まで手にしてないなら、権利書を取り返すだけだからね」  眼鏡をクイっと持ち上げながら、水鳥が優しく声をかけてくれた。けれど今はその優しさが辛い。せっかくこの家に住めるように手続きをしてくれたのに、自分は何をやってるんだと、何度も何度も自分を責めた。 「他に何の書類がいるんだ」  桐生が真里也の聞きたいことを先に質問してくれたから、目頭を拭って水鳥の回答を待った。 「そうだな、まず物件の間取り図だろ、それから固定資産税の写しに、固定資産評価証明書など、まだ他にもある。住民票とかな。役所に行けば他人でも取得できるものもあるが、実印と本人確認書類は真里也君が家で保管してるんだろ?」  実印……は、確か博が亡くなる少し前に、作ってもらった。本人確認は、何だろう。保険証? 「水鳥さん、あの、本人確認書類って何ですか」  真里也が尋ねると、運転免許証や個人番号カードのことだと教えてくれた。 「ってか、権利書が手元にないのはまずいだろ。トリ、どうすんだ、不動産売買のために名義変更されちゃ——て、そっか。射邊の実印が手元にあるんなら、そいつは何もできないってことか」 「……真里也君から無理やり奪いでもしない限りは——ね」  水鳥の言葉で、なぜか母の顔がよぎった。  母さんは、俺の鞄を触ってなかったか……。いや、母さんと玉垣は全然関係ない。  動揺して頭が混乱してしまった。  母と玉垣に繋がりなんてない。たまたま、彼女は真里也の鞄を触って—— 「どうした、射邊。青い顔をして」  バチっと映像がフラッシュバックして、真里也の頭にひとりの男の姿が浮上した。  玉垣が家に来て、権利書の話をする前、坊主頭とサングラスの男と一緒だったあの日、玉垣が押し込まれた後部座席に座っていた、もうひとりの男。  あの男の人……俺は知っている……。あいつは——。  再度、實川に大丈夫かと声をかけられ、体を揺さぶられていると、反対に真里也が實川の腕を掴んで叫んだ。 「せ、先生っ! あの男がっ! 俺の母と一緒に……。あ、いや、そうじゃなくて、俺のことを誘拐して——あ、いや、違う——」 「落ち着け、射邊。ゆっくりでいいから話してくれ。ちゃんと待っているから」  實川に背中を撫でられると、真里也は深く息を吐き、三人の大人へと視線を向けた。  落ち着きを幾分か取り戻すと、真里也は居間の隅に置いてあった通学鞄を引き寄せ、中から財布を取り出した。そして、入っているはずのものがないことに気づくと、肩を落とし、涙を頬に滑らせた。 「……先生、水鳥さん。俺の、母親と一緒にいた男が、羽琉のお父さんと一緒にいたのを、俺……見ました。それで、実は今日、その母が俺を訪ねてきたんです」 「お母さんが? 確か離婚した後は音信不通だって言ってたのに、どうして急に──」 「どう言うことだ。順を追って話せ。何のことかさっぱりわからん」  桐生に言われて、そうだなと思った。  實川は担任だったし、学年主任だから真里也に母親がいないことは知っているけれど、詳しい事情は知らない。  真里也は誘拐されたことから、今日までの出来事全てを三人に話した。 「じゃ、お前が誘拐された時、お袋さんと一緒に暮らしてた男ってのが、玉垣の父親と一緒にいたってことか」  真里也は頷くと、財布を座卓に置き、「個人番号カードが無くなってました」と、畳に視線を置いて呟いた。 「マジか……」  桐生の声に、真里也は頷いた。  ただ、頷くことしかできなかった。  何か話そうとすれば、母への怒りをぶちまけそうになるから。 「真里也君、ちょっと鞄を見せてくれないか。他に異変がないか見たい」  水鳥に言われ、無言で鞄を差し出す。  真里也の中の気力は、ひと欠片も残っていなかった。  横で水鳥が鞄をチェックしている様子を一瞥すると、彼が家の鍵を入念に見ている。不思議に思い、鍵がどうかしましたかと、消え入りそうな声で尋ねた。 「あ、いや。この鍵、変なものが付いて汚れてる。まさかとは思うけどこれ——」 「おい、トリ。それって型を取られてるんじゃないのか」  桐生の声で真里也と實川も、水鳥の手の中にある鍵をまじまじと見た。 「本当だ。でも、学校から帰ってきた時は普通に開いたし、こんな粘土みたいな塊はついてませんでした」  真里也の家の鍵は、ディンプルキーなどの不正開錠が困難な防犯性の高い鍵とは違い、ごく普通の古いタイプのピンシリンダーで、ピッキングも可能とされる防犯性の低い鍵だ。  要するに、簡単にスペアキーを作成されてしまうものだった。 「射邊、今日おふくろさんが家に来た時、彼女がひとりっきりになった時間ってあったのか」  ずっと二人で居間で話しをしていた、そう言いかけたけれど、母をひとりにした瞬間があったことを思い出した。  制服を着替えに行った時、それと、写真が欲しいと言われ、部屋に取りに行った時だ。  思い当たる節を浮かべていると、「あったんだな」と、桐生の声を遠くで聞いた。 「他になくなっているものはないか。通帳とか印鑑、それにお爺さんの形見とか他にも大切な——」  實川の言葉でハッとし、真里也は自分の部屋に行って、印鑑や通帳を入れている引き出しを開けた。それらはちゃんと所定の場所にあって無事だった。  よく考えれば、写真を取りに来たのは自分の部屋だ。  母が入れるとすれば、他の部屋——。  嫌な予感がして真里也は立ち上がると、今度は博の部屋に向かった。  真っ先に仏像を飾っていた棚に目を向けると、そこにあるはずの仏像が一体も残っていない。  追いかけてきた實川を振り返って目が合った途端、真里也は無言で首を左右に振ると、その場に座り込んでしまった。  もう誰を信じていいかわからない。  母と写真を撮った自分までが憎らしく思える。 「せんせ……俺、もうどうしていいかわかんないや……。俺はただ、羽琉の助けになりたかった。あいつと一緒にいたかった……ただ、それだけなのに」  情けないことに自分の過去、失態、羽琉への執着をぶちまけた挙げ句、また泣いてしまった。  實川を始め、あの桐生までが黙ったまま、泣き止むまで側にいてくれた。  その間に水鳥がどこかへ連絡しているのを、ぼんやりとした頭で聞いていた。
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