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 インターホンが鳴ると怯える癖がついてしまった真里也は、夕食も風呂も済ませた午後九時。ビクビクしながら玄関へ向かった。  手にはスマホを持ち、緊急連絡先を表示させている。異変があればいつでも助けを呼べるように。  反対の手にはこれで戦えるのかわからないけれど、すりこぎを握り締めてすりガラスの向こう側を凝視した。  昼間と違って夜になると、外にいる人間の輪郭が分かりづらい。  なぜか中腰になって「どちら様ですか」と、注意深く聞いた。 「こんばんは。すいません、私、一軒隣に住んでいる、本多(ほんだ)と言います。ちょっとお話があって」  母より少し年上に感じる声の主を朧げに思い出すと、真里也はホッとして玄関の鍵を開けた。  家の鍵を勝手に作られたと推測され、水鳥の指示ですぐに家の鍵を交換した。それで安心が買えたわけではないけれど、学校に行っている間に、母や、同棲していたあの男が侵入してくることは一応防げていると思う。  扉を開けると、薄っすらと記憶にあるご近所の奥さんが立っていて胸を撫で下ろした。  あまり話すことのない相手でも、玉垣と違ってちゃんとしたご近所さんだと、緊張はしても何とか話せる。 「……こ、こんばんは……あの、どうかされました……か」 「夜分にごめんなさい。あのね、君、ウチのお隣の玉垣さんの息子さんと仲がいいでしょ? よく一緒にいるのを見かけたから」 「あ……ああ、はい……あの、羽琉がどうかしたんですか」  何だか胸騒ぎがした。  彼女の話を聞きたいような聞きたくないような、複雑な感情が心臓を脅かしてくる。 「実はね、さっきからお父さんと喧嘩? してるのか、大声で怒鳴り合ってるのよ。何だか物も壊れるような音もしてるし。警察を呼ぼうかと思ったんだけど、行き過ぎた親子喧嘩ってだけなら、警察の人が来ても気まずいでしょ? だから、先に君に見に行ってもらおうかと思って。あ、嫌ならいいのよ。警察の人に任せましょう」  本多と言った女性は、ずっと胸の前で自分の手をもう一方の手で労るように握り締めている。  怯える彼女の様子からして、相当派手な親子喧嘩をしているのだろうと思った。  羽琉のことが心配なのもあったけれど、玉垣から権利書を返してもらうチャンスだと思い、自分が見に行きますと、自然と本多に返事をしていた。 「水鳥さんは、何もするなって言ってたけど、おじさんが家に戻っているなら話をして返してもらおう」  一応、實川のスマホにメッセージを送信しておき、真里也は本多と羽琉の家に向かった。 「じゃ、あとはお願いね。何かあったらうちに来て。すぐ警察に連絡するから」  ありがとうございますと礼を言い、真里也は本多を見送った後、羽琉の家のドアに手をかけた。  鍵、開いてる……。  ゆっくりドアを開けると、まだ全開してもいないのに、玉垣の罵倒が聞こえてきた。対抗するように、羽琉の声もする。その声は別人のように荒々しく、いつも真里也に向けてくれる口調とはかなりかけ離れた声だった。 「クソ親父! じいちゃんの仏像をどこへやったっ! あんたが女の人から仏像を受け取ってるのを見たんだからなっ」 「仏像? んなもの知らねーよ。お前、夢でも見てたんじゃねーのか。ああ、わかったぞ。お前、あのガキの家に行ってないらしいな。出禁にでもなったか。だから俺に八つ当たりしてるんだな。おまけにずーっと人のこと見張りやがってっ! お前はストーカーか。それが親にする態度かっ!」 「親? あんたがこれまで親らしいことしたのかよ。してないだろ? 働きもしないくせに、借金ばっか作って。だからお袋も出て行った——」  羽琉の声が途中で途切れ、代わりに何かを叩く音がした。  もしかしてまたっ!  玄関にまで聞こえてくる、感情をぶつけ合う声や、音が、嫌な想像させた。  また玉垣に殴る蹴るの暴行を羽琉が受けているなら助けなければと靴を脱ぎ、廊下をゆっくり進んだ。  声のする部屋の襖が少し開いており、真里也はそこから覗き込むと、玉垣に胸ぐらを掴まれている羽琉が見えた。  玉垣の顔を見ると、真里也の元へ詫びに来た殊勝な表情はなく、愛情の欠片もない憎々しい顔がそこにあった。  おじさん、酷い……。やっぱり俺を騙したんだ……。  目の端で涙が堪えていると、羽琉が突き飛ばされ、床に転んだにも関わらず、機敏に起き上がると、ペン立てからカッターを取り出しているのが目に飛び込んできた。 「クソ親父っ! 真里也の仏像をどうやって盗んだっ。あの女は誰だっ。真里也の大切なもんを勝手に、あんたは……。くそぉ!」  刃先を伸ばしたカッターを羽琉が叫びながら玉垣に振り翳した。  今にも刃先が玉垣の顔に振り下ろされそうになった時、「羽琉っ! だめだっ」と制止の声をあげ、真里也は玉垣の目の前にめいいっぱい腕を伸ばした。  右の手のひらに痛みが走り、足元に血がポタポタと流れ落ちている。 「真里也っ! 真里也、真里也っお前、どうして——」 「クソガキが、俺のせいじゃねーぞ。こいつが勝手に飛び出してきやがったんだ」  玉垣が椅子に荒々しく座ると、ふんぞり返って煙草に火をつけようとする。  真里也は流れる血を止めるために、反対の手で傷口を押さえながら、玉垣に近付いた。 「お……じさん。俺の家の……権利書、返して」 「はあ? 何のことだ。権利書なんて知らねーよ」 「う、嘘つくなよっ! 俺の家に来て、権利書貸してくれって言っただろ。この家を追い出されるから、住所がなくなる。だから働きたくても働けないって、俺に頼みに来たじゃないか」 「だから知らねーって言ってるだろ。しつこいガキだな。だからこいつも寄りつかねーんじゃないのか? お前は羽琉に嫌われてんだよ。わかったらとっとと帰れっ! 親子の話に他人が首突っ込んでくるんじゃねーよ」  しっしと、虫を追い払う仕草をされた。  あまりの理不尽な言い草に、真里也は手のひらから流血しているのも忘れ、それをこぶしに変えると、側にあったテーブルへ叩きつけて怒りを形にして見せた。 「いいから返してよっ! 権利書も、母さんに頼んで盗ませた仏像も、全部、全部返せっ」  必死で玉垣に訴えていると、羽琉の体がわなわなと震えているのが見えた。  羽琉の足が、一歩一步、玉垣に近付こうとしているから、真里也は争いが悪化することを恐れ、羽琉の腕を掴もうとした。けれど、焦点を父親に向けたままの羽琉に押し除けられてしまった。 「お……おい。親父、権利書ってなんだ……。あんた、真里也の家を、じいちゃんが大切にしていたあの家をどうする気だったんだっ。盗んだのは仏像だけじゃなかったのかよっ」  床に落ちていたカッターを拾い、玉垣に刃先を向けている羽琉の手首を掴んで止めようとしたけれど、力で羽琉に敵うわけもなく、簡単に振り払われて真里也は床に尻餅をついてしまった。 「痛って——。羽琉、羽琉、こんな人のためにお前がそんなモノを握らなくていい。一緒に俺の、じいちゃんの家に帰ろう」  必死で嘆願していると、羽琉の視線が真里也に戻ってきた。そのまま、真里也が掴んでいる手首を見つめていると、羽琉の顔がみるみる苦痛に歪んでいく。 「ま……りや。ごめ、ごめん。痛かっただろ、血が、こんなにいっぱい出て……」 「俺は平気……。羽琉、帰ろう俺らの家に」  真里也は羽琉の手からカッターを引き受けると、刃先をしまってテーブルの上に置いた。 「よお、ガキ。お前、誰に入れ知恵された」  放心状態の羽琉の手を握って、廊下へ出ようとした時、玉垣が背中に言葉をぶつけて来た。 「何のこと……ですか」 「トボけんな。てめえ、家の鍵を付け替えやがっただろ。しかも、俺がお前の家に行って直ぐだ。それに最近ずっとオマワリがこの辺をウロチョロしてやがる。お前の家に入れねーから、印鑑も何も盗めなくなっちまったじゃねーか。お陰でこっちの借金は返せずじまいだ。どー落とし前つけんだ、ああ、こらぁ」  むちゃくちゃな八つ当たりは、いつかの坊主頭の男と同じような言葉使いだ。  玉垣はやっぱり噂通りの人種なんだと、こんな男の話を鵜呑みにした自分を恥じた。  大の男が目の前でしおらしく懇願する姿に、絆された自分が情けない。 「もう、おじさんと話すことはありません。羽琉の側には俺がいますから、もう関わらないでください」  これほど自信に溢れた物言いをしている自分を不思議に思う。  この、足元からじわじわと湧き上がる強さは、玉垣に騙された悔しさと、羽琉を守りたい気持ちから生まれたように思える。  真里也はキッパリ言い切ると、羽琉と一緒に玄関へ向かった。だが、すぐ後ろを玉垣が追いかけて来た。手にはカッターが握られている。 「偉そうな口聞きやがって、殺すぞ。いや、先にお前のその女みたいな顔、ぐちゃぐちゃにしてやんよっ」  玉垣がカッターを振り翳したその時、玄関が開いて警官と一緒に實川が飛び込んできた。 「射邊、玉垣っ!」 「おい、取り押さえろっ」  三人の警官が家の中に傾れ込み、カッターを持つ玉垣に飛び掛かると、あっという間に床へと捩じ伏せられている。 「玉垣洋介、暴行、傷害罪、殺人未遂罪で逮捕するっ!」  警官に馬乗りされ、身動きの取れなくなった玉垣を、真里也と羽琉は涙を流しながら見下ろしていた。
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