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「ほら、権利書だよ。それと、個人カードと家の鍵——は、もう要らないか」  事件の翌日、報告に家を訪れてくれた水鳥と桐生にお茶を出していると、警察から返ってきた全てのものを水鳥から受け取った。 「すいません、水鳥さん。俺が、簡単に信用したからこんなことになって……」 「本当だよな、お子様はこれだから厄介だ。ったく、俺らを心配させんじゃないよ」 「うるさいぞ、真人。こんな奴の言うことはほっといていいからね。それより怪我したんだろ、大丈夫かい」  包帯の巻かれた右手を心配げに見てくる水鳥に、平気ですよと、手を握っては閉じて見せた。けれど、まだ傷が塞がってなかったせいで、ズキっとした痛みはある。  玉垣が逮捕され、芋づる式で坊主頭達や、母と暮らしていた男にも調査が入ったと、水鳥が教えてくれた。彼が余りにも淡々と話すから、事件のことは夢だったんじゃないかと思ってしまう。手の痛みで現実だと知るけれど、羽琉が玉垣を刺さずに済んだことは不幸中の幸いだった。  事件の後、三人でうどんを食べ、日付が変わる前に実川は帰り、現場になった家に帰ることもできないから、羽琉は久しぶりに真里也の家に泊まった。  以前のように真里也の部屋に、布団を並べて二人で眠った。  真里也はうとうとしていたけれど、羽琉はずっと起きていた。多分、朝方まで。  羽琉が先に起きていたから、これは真里也の推測だけれど。  昨夜からずっと羽琉は手の傷を気にしてくれるけれど、羽琉が玉垣を傷つけて警察に捕まってしまうことを思えば、こんな怪我くらいなんでもない。  朝食は羽琉が作ってくれた。トーストと、目玉焼き、ベーコンも焼いてくれた。そして何よりも美味しかったのは、羽琉の淹れてくれた珈琲だ。  ブラックなんて飲めなかったのに、いつの間にかそれを美味いと感じるようになったのは、羽琉が煎れてくれる珈琲が美味いからだ。 「あの、水鳥さん。羽琉はどうなるんですか。その、おじさんが警察に……その」  とは口にしたくなくて、言葉をモゴモゴさせていると、心配しなくてもいいよと、水鳥が微笑んでくれる。  丁度、朝食を食べ終え、羽琉が一旦家に帰ると言って出たのと入れ違いに、水鳥が家を尋ねてくれた。友人兼、運転手と共に。 「真里也君の学校は来週から、夏休みになるだろ? ちょうどいいって言うわけじゃないけれど、羽琉君は隣町に住んでいる、お母さんの家に行くみたいだよ。警察にお母さんが来てたから」 「えっ! 羽琉、この街から離れるんですかっ。じゃ、学校は? バイトもあるし、俺と一緒にこの家で暮らすのはダメなんですか」  胸がザワザワして、どこか焦っている自分がいる。すぐ側にいた羽琉がいなくなることが、見えない不安を突きつけてくる。 「うーん、それはダメかな。君には身元保証人の僕がいるでしょ? で、彼には離れているとはいえ、保護者であるお母さんがいる。離婚はしていないみたいだしね。いわゆる、別居状態だったわけだ。真里也君は保護者がいないから、僕って存在が必要だけれど、彼にはちゃんと家族がいるからね」  噛み砕いて言ってくれるから、高校生の真里也でも理解はできる。でも、心が無理だった。  羽琉とこの家で暮らして、羽琉の夢を自分が支える。きっと、これが自分のしたいことなんだと思っていたのに、叶える前に離れ離れになってしまうのは想定外だ。 「……じゃあ、もう羽琉はいなくなるんだ」 「違うよ。羽琉君が隣町で暮らすのは、少なくても夏休みの間だけだよ」 「え、ほ、本当に!」 「ああ。警察署で僕も羽琉君のお母さんと話したけれど、彼には今まで負担ばかりかけてきたからって、罪滅ぼしに羽琉君のしたいようにさせてやりたい。そう言ってたよ。だから、彼は今の学校もバイトも辞めないで済むってことだよ」  夏休み中に、お母さんの仕事も家もこっちで探すんじゃないのかなぁと、水鳥が言ってくれたから、凹んでいた気持ちが一気に上昇した。  そっか、夏休みの間だけなんだ。そりゃそうだよな、羽琉がバイトを辞めるわけないもんな。 「よかったな、射邊。これでお前も集中して受験勉強できるってもんだろ」  嫌なことを言う。桐生はいっつもひと言多い。けれど、それは事実だから仕方ない。 「まあ、頑張りますよってか、桐生さんは何しに来たんですか」 「お前も酷いこと言うね、心配して来てやったのに。その怪我、彫刻すんのに差し支えないんだろうな」  顎で傷を指され、真里也は左手で包帯の上から右手に蓋をすると、「多分、平気」と嘘を吐いた。  小指の付け根から手のひら中央に向かって、裂傷受傷してしまった。  結構深い傷口で、小指の付け根の腱は断裂してしまい、自然に繋がることはないからと、夕べ緊急手術をした。  指を曲げる屈筋腱(くっきんけん)が切れていたらしく、指が曲がらなくなる、屈筋腱損傷と言う診断に至った。  真里也の場合、小指の深指屈筋腱だけが切断されていたから、指先だけが曲がらない。リハビリをすれば多少は戻るらしいけれど、個人差があると言われた。  治るのに時間はかかると言われた時、大学受験用に作成する彫刻の提出期限はいつだったかなと考えた。  治療が終わるまで羽琉は一緒にいてくれたけれど、そのことが真里也の中で引っ掛かっている。  ずっと眉間にシワを寄せて心配そうに傷を見ていた羽琉。  きっと怪我が自分のせいだって思っているのだ。そんな心配は必要ないのに。  刃物の前に勝手に飛び出したのは自分だし、羽琉が責任を感じることはない。  傷口を眺めながら、羽琉のことを考えていたら、どうなんだと、再び桐生に聞かれた。 「はい、大丈夫です。もう、半分以上は作っているし、ちゃんと間に合わせますので」  笑って答えてみたけれど、ひきつった顔になってなかったかが心配だ。 「だったらいいけどさ。まあ、無理ない程度に頑張れ」  お、大学の先生っぽい。って思ったけれど、もし、今の言葉を声に出して言っていれば、桐生は何倍にも返してくる。だから、ほくそ笑むだけに留めた。  桐生と水鳥が事件のことで難しい話をしている側で、真里也は全く関係のないことを考えていた。  もうすぐ羽琉の誕生日だ。夏休み中に同じ年になる羽琉に、毎年恒例の贈り物は欠かせない。去年は抱き枕が欲しいと言われた。その前の年は、えっと何だっけかな。  そうだ、アウトドアブランドのサコッシュにしたんだっけ。  ネイビーの色は落ち着いて見え、羽琉によく似合っていた。今でも私服で出かける時は必ずと言っていいほど、サコッシュを基準に服装を選んでいる。  あまりにも羽琉がカッコよく身に付けていたから、真里也も欲しくなって色違いを買ったけれど、身につけた姿を博が見て、幼稚園児のカバンかと、爆笑されたから押し入れの奥に埋葬した。  カッコいい羽琉は夏休みの間はいない。きっと深町にも事情を話して、バイトを休ませてもらうのだろうな。 「夏休みって、長いですね……」  心からの本音を言っただけなのに、桐生に睨まれた。 「何、贅沢なことを言ってる。この夏休み中、お前は實川を独り占めすんだろーが。お陰で俺の相手はできないって言われたぞ。変わって欲しいくらいだ」  自然と口から溢れた言葉を、桐生が最強のリベロのように拾う。ただ、桐生の発言に、水鳥が笑いを堪えているように見えたのは、気のせいだろうか。  桐生先生はそんなに面白いこと言ってないけどな……。  水鳥は笑い上戸なんだと勝手に決め付け、真里也も一緒になって大笑いした。けれど、この日以降、真里也が腹の底から笑うことは二度となくなった。
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