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 羽琉のいない初めての夏休みも中盤にさしかかり、小指のリハビリから帰ってくると、玄関の前で誰かが座り込んでいた。  一瞬、坊主頭の如何わしい連中のことがよぎったけれど、キャップ姿は奴らに似合わない。すぐに誰かがわかると、真里也は飛び跳ねるように駆け寄った。 「羽琉っ!」  地面に座り込んでいた羽琉が顔を上げると、キャップのつばから眩しそうに目を(すが)めながら微笑みをくれた。 「よお、久しぶり」 「うん、羽琉。元気だった」  元気だよと、落ち着いたトーンで言われた。  半月ほど離れていただけなのに、随分大人っぽくなったなと、斜め下から凛々しい顎のラインを見上げて思った。  居間に入ってすぐクーラーをつけて、冷たい麦茶を出すと、よっぽど暑かったのか、羽琉は一気に飲み干した。 「飲みっぷりいいね、まま、もう一杯」なんて、酒を勧めるように麦茶を注いだ。  久しぶりに見る羽琉の顔。キャップを取って髪をかき上げる仕草に、こめかみを伝う汗は、男の真里也でもドキッとしてしまう。  こんな姿、女子が見たら卒倒するだろうな。  無粋なことを考えたり、ふざけたりしてしまうのは、羽琉に会えて嬉しいからだ。 「なあ、さっきはどこに行ってたんだ」  博の仏壇に線香をあげたあと、羽琉が真顔で聞いてきたから、返事に困った。  病院でリハビリしてきたなんて言えば、きっと羽琉は気にする。でも嘘はつきたくない。  ぐるぐると思考を巡らせていると、羽琉の視線が自分の右手にあるのに気付いた。  咄嗟に背中側に隠したけれど、これが失敗で、「病院か……」と、すぐ羽琉にはバレてしまった。 「そ、そうだけど。もうこんなの、ほとんど治ってる。ほら、ちゃんと握れるだろ」  手のひらを開いては閉じて、羽琉に披露して見せたけれど、眸には翳がさしたままだ。  実際、字を書いたり箸を持つのは平気だけれど、彫刻刀のように力加減が必要なものを握る時は思うように力が入らなかった。リハビリで少しはマシにはなったけれど、持ち方がおかしいと實川にも言われた。  完全なこぶしにはならない真里也の右手は、羽琉に嫌なことばかりを思い出させる。 「平気……だよ、羽琉。あ、なあ。今日ってゆっくりできる? 一緒に晩ごはん食おうよ。俺、腕によりをかけて作るからさ」  話を逸らすためと、願望を叫んだ。  羽琉が、いいよと、頷いてくれることを願って。 「……そうだな。うん、食ってく」  やった。やった、やったっ。これで夜まで一緒にいられる。さあ、何しよう。  表情筋がだらしなく緩んでいる自覚はある。取り敢えず、先にメニューを決めておこう。それから、ちょっと遅れたけれど、羽琉の誕生日を祝うことにする。でもこれはサプライズだ。 「なあ、羽琉何が食いたい? 唐揚げ? ハンバーグ? それとも渋いとこで豚汁とか? 羽琉好きだろ。あ、そうだ。生姜焼きとのセットでもいいよな」  ひとりでベラベラ喋っていると、羽琉に笑われた。  羽琉、笑った。よかった。最高だっ! 「じゃ、お言葉に甘えて、ハンバーグと豚汁のセットがいいな」 「わかったっ! じゃ、俺、買い物行ってくるよ」 「じゃ、俺も一緒に——」 「だーめ。羽琉は留守番な。暑い中で待っててくれたんだ、熱中症にでもなったら困る」  ついでにケーキも買ってくるんだ。羽琉が一緒だと驚かせない。 「お前こそ、出かけてたのに。暑いのはお互い様だろ」 「いいんだ、羽琉はじいちゃんとでも話しててよ。久しぶりなんだし」  強引に家に留まらせ、じゃダッシュで行ってくると言い残し、真里也は玄関を飛び出して自転車に跨った。  商店街で肉と野菜を買い、最後にケーキ屋に寄って羽琉の好きなチーズケーキを買った。  甘いのが苦手な羽琉は、チーズケーキと深町の作るアップルパイだけは食べる。  行きは自転車で立ち漕ぎをしたけれど、帰りはケーキがあるからそうもいかない。  カゴに入れて段差を避け、真里也は自転車を押して帰った。  玄関を開ける前、ふと、羽琉がもういなかったらどうしようとよぎった。  出かける時は浮かれて気が回らなかったけれど、急に不安になってきた。その理由は、真里也の小指だ。  第一関節だけが曲がらず、ジャンケンでグーを出すときも、変な形になる。それを羽琉はじっと見ていた。  責任を感じてやっぱり帰ろう——なんて思って、いなくなってないだろうかと、引き戸をそっと開けると羽琉の靴があった。  よかった、羽琉いてくれたんだ。 「ただいまー」と、普段より高い声を出しながら居間に行くと、羽琉が寝転がってスマホを触っていた。 「おかえり、暑かっただろ」 「全然大丈夫。買った材料冷蔵庫に入れてくるな」  羽琉がスマホに夢中になっている隙に、ケーキの箱を冷蔵庫に入れ、隠すように肉の包みを手前に置いた。  よし、これでいい。絶対に見つからない。  夕食を作るまでの間、二人でアイスを食べながら、たくさん話をした。  お母さんとの生活の話から、宿題の話まで。  あっという間に窓から西陽が濃く差し込み、ちょっと早いけどと言って、真里也は夕食の準備に取り掛かった。  毎日ひとりで食べる夕食は味気ないけれど、今日は羽琉がいる。  とびきり美味しくしようと張り切ったからか、ハンバーグの端っこを焦がしてしまった。   それでも羽琉は美味い美味いと言って、ご飯をおかわりしてくれた。 「ジャジャーンッ」  座卓の上を片付けると、真里也はケーキの入った箱を羽琉に差し出した。 「何、これ」 「なんと、チーズケーキです」 「ケーキ? なんで」 「今から羽琉君の、十八歳の誕生日を祝う会を始めまーす」  精一杯明るい声を意識し、これでもかと言うほどの笑顔で羽琉を見つめた。 「誕生日って、もう過ぎて——」 「だって、当日はメールでおめでとうしか言えてないもん。だから今日、羽琉が来てくれてよかった。夏休み中にお祝いしたかったからさ」  皿にケーキを乗せながら言うと、目の前に申し訳なさそうにする顔があった。  まだ沈んでいる羽琉をなんとか喜ばせようと、真里也はちょっと待っててと、自分の部屋に行った。急いで戻ると、呆然とした顔で羽琉がこっちを見ている。 「はい、これ。誕生日おめでとう」  祝いの言葉と一緒に、真里也はキーホルダーを渡した。 「……真里也、これって——」 「そう、俺の手作り。でも、小さいもの作るのに慣れてなくて、ちょっと歪になったけど、よかったら貰ってくれるか」  羽琉の手のひらに乗せたのは、木彫りの珈琲カップと、ワンカットサイズのケーキだった。 「こ……れ、もしかしてアップルパイ?」  カップの横に並んで揺れているケーキを指差し、羽琉が正解を言ってくれる。 「正解! 羽琉ならわかってくれると思ってた。これさ、お揃いで自分のも作ったんだ。だからしまってあったサコッシュを引っ張り出して、ほら、こうやって付けると、両方ともが羽琉とお揃いになるだろ。離れていても、これ見たら俺のこと思い出してくれるかなーなんて思ってさ。あ、嫌ならつけ——」  最後まで言い終える前に、羽琉に抱き締められた。 「……嫌なわけ……あるか。嬉しいに……決まってる」  抱き締められたまま、羽琉の声が耳に落ちてきた。蜜が滴るように甘い声は、真里也の腹の奥をズキンと刺激してくる声音だ。 「……よかった、喜んでくれて……」 「お前がくれるもんで、要らないものなんて……ないよ。ありがとう、大切にする」  外国人みたいな喜び方をされ、よっぽど嬉しかったのかなぁと、羽琉の背中を撫でながら思った。  ありがとう、ありがとうと、何度も言葉を重ねられる度に、抱き締めてくる腕の力が増している。苦しさと恥ずかしさから、羽琉の腕の中でもがいていると、ようやく解放してくれた。 「は、羽琉。カップの底、見てみて」  抱き締められたことに戸惑い、それを隠すように真里也は言った。  羽琉が木彫りのカップをひっくり返していると、あっと声を張って、真里也の方を凝視してくる。 「これ——お前の名前彫ってある」 「そう。俺のには『HARU』って彫ったんだ。羽琉の生まれた日もケーキに彫ってあるよ。で、そっちは俺の誕生日ね。世界にひと組しかない、貴重なキーホルダーだぞ」  どうだ、頑張って作ったろと、胸を張って言っているのに、羽琉は俯いたままだ。  キーホルダーを見ているのかと顔を覗き込むと、羽琉の目に涙が光っているのを見つけた。 「は……る。どうしたん……だよ。何で泣いて——」  言いかけた言葉を遮るように、羽琉の顔が近付いてキスされた。  触れた羽琉の唇は一瞬離れ、また重ねてくる。頬を両手で挟まれ、深い口付けをされたまま、真里也の体は、いつの間にか畳に寝かされていた。  真里也の胸と羽琉の胸が合わさると、水音を立てながら唇を貪られた。  息継ぎができず、苦しくて羽琉の胸を押し除けようとしたけれど、逞しい体はびくともせず、口付けも止まらない。 「は……る」  何が何だかわからず、何とか名前を口にした唇の、僅かな隙間を使って羽琉の舌が差し込まれると、口腔内を番を求めるように彷徨っている。  真里也の舌を見つけると、意思を持った生き物のように、真里也の舌を絡め取り、口の中が蜜熟した液体で溢れてくる。  なに、これ。……前のキスと違う……。  以前、真里也を嵌めようとした浜崎の前でしたモノとは比べものにならないほど頭の芯が痺れてくる。  掻き乱されていく心と頭を必死で冷静にしようとした時、羽琉の唇から解放されたけれど、今度は耳朶に口付けをされた。 「……真里也。好きだ……ずっと、好きだった。ずっと、こうして……お前に触れたかった。大好き……なんだ、真里也」  極上の声で羽琉が気持ちを伝えてくれる。わかっている、俺だって羽琉が好きだ。 「好き……だけど、は……る、友達とは……こんなこと……しない……よ。 羽琉、こんなのおかしい──」 「そうだ、その好きじゃない」と、耳元で否定された。 「真里也の好きと俺の『好き』は違う。俺のは……俺は……」  苦しそうな顔をする羽琉が近付いてくると、また唇を奪われた。  チュッチュと音を奏でながら、羽琉の手は真里也のTシャツの裾にあった。  布をたくし上げられ、羽琉の長い指が真里也の胸を彷徨っている。    優しく肌に触れられる度に下腹部が疼き、自分のモノが固くなっているのがわかった。  胸や臍に唇を押し当てられる度に、羽琉の吐息が見えない触手のように触れてくる。  唇が真里也の肌に触れてない時間を埋めるように、好きだ、大好きだと、何度も囁かれた。  真里也とは違う──その好きの意味を理解し、告白の意味がわかった途端、心が勝手にパニックを起こした。  好き……羽琉が……俺を……?  考えがまとまらないのに、羽琉の手も唇も止まらず、どんどん真里也の下半身へと近付いてくる。布越しにでもわかる真里也のモノが反応していると、羽琉の指先が熱をもった先端を撫でるように触れて来た。  思わず「ああっ」と、声を上げてしまい、それがあまりにも淫らだったことに自分でも驚いていると、羽琉の腕が伸びてきて真里也は思わず自分の頭を守るように手で覆って、体をくの字に曲げて、頭と身を縮める仕草をした。  はあ、はあと二人分の艶かしい息遣いが居間に広がると、行き場のなくなった羽琉の手は、もう一方の彼の手で隠され、悲しげな顔を向けられた。  何か言いたげに動いた唇から、絞り出すように「真里也……」と、名前を呼ばれた。  ……羽琉が俺を……好きって——。それって……。  混乱していると、Tシャツの裾が捲れ、そのすぐ側で硬く唆り立った自分のモノが布を押し上げているのに気付く。  男の証が反応していることに羞恥を覚え、真里也はシャツの裾を思いっきり下へ引っ張って股間を隠した。 「……ごめん、怖がらせて。でも俺は……ずっと、親友のフリしてお前を欲しがっていた。初めてお前と出会った時から、俺はずっと……。けど、こんなの裏切りだよな。自分の気持ち偽って、友達の顔してお前の側にいた。ずっと触れたくて、自分だけのもんにしたくて——」  最後の言葉を飲み込んだように、羽琉の唇は左右に引結ばれている。  何も言えずにずっとTシャツの裾を掴んで下を向いていると、羽琉が立ち上がる気配がして、真里也は慌てて顔を上げた。  視線を向けた先には、サコッシュを肩にかけ、キャップを被った羽琉がいた。 「これ……さんきゅな。一生、大事にする」  木彫りのキーホルダーを手にした羽琉が、悲しげに微笑んで真里也を見下ろしていた。  躊躇したような足取りで真里也の前を通り過ぎると、玄関へと向かってしまった。  追いかけなきゃ、もう羽琉に会えないかもしれない。  咄嗟にそう思ったのに、体は動かず、畳の上に根を張ったように座り込んだままだった。  じゃあな……と、羽琉の声が聞こえた気がした。  羽琉、待って、行かないでくれっ。  叫んでいるのに、声が出ない。  引き戸がカラカラと音を奏でると、蝉の鳴き声が濃くなった。叫び声が聞こえなくなると、引き戸が閉まったんだなと頭の隅でぼんやり思った。  草いきれの混ざった夏の風がふわっと廊下をかけてくると、羽琉の残り香を一緒に運んで来る。  ——もう、会えないのかもしれない。  そんな言葉が過ぎると、涙が次から次へと溢れて、頬を、手の甲、畳へとポタポタと落ちては消えた。  体が震えているのは冷房のせいではなく、大切な温もりを失ったからだ。  わかっているのに、今、全力で走れば追いつくのに、それができない。  ただ、羽琉と二度と会えない予感だけが心に警報を鳴らしている。  どうすればいいかわからないまま、時は過ぎ、長くて辛い夏休みは終わった。  羽琉が学校をやめたと真里也が知ったのは、夏休みの明けた二学期の始業式の日だった。
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