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 教室の壁時計もスマホの時刻も、GPSが狂ってるんじゃないかと思うほど時間が経つのが遅い。  もうこの講義で今日は終わりなのに、バイトも休みなのに。早く進めと、真里也は時計の針を睨みつけた。  教授の声を聞く気にもなれず、内容が全く頭に入ってこない。  ホワイトボードに書かれた文字を、上の空の頭でなんとか書き写すことはできたけれど、自分で何を書いているのかわからない、意味不明なノートの出来上がりになってしまった。  落ち着かない空気を悟った土師が、「あと五分だよ」と、ノートの端っこに書いた文字を見せてくれるから、うんうん、と小刻みに頷いて返事をした。  定休日と知ってて行くのかと土師に再三言われたけれど、「でも、射邊君ならそうすると思った」と、あっさり上書きして言うから、一人漫才みたいでちょっと笑ってしまった。  付き合いが二年目になると、お互いの性格を少しは理解できているのかなと思う。  それなら羽琉のことは、どれだけ知ってるのかと聞かれたら、もしかすると土師のことよりもわかってなかったのかもしれない。  羽琉のことならなんでも知っていると思っていたのに、そうじゃなかったと思い知らされたのは高三の夏だった。  けれど羽琉を失ってから、真里也はずっと考えていた。  小さな頃からずっと一緒だったから、羽琉の一番の理解者になりたいと思っているし、なれる自信もある。  羽琉が許してくれるなら、ずっと側にいたいと思う熱意は誰にも負けない自信がある。  自分の中ではまだ決着がついてないけれど、羽琉の顔を見れば答えがわかる気がする。  自分がどんな気持ちで羽琉を探しているのか、どんな眸で羽琉を見つめるのか。  授業を終えるチャイムの音が鳴ると同時に真里也は席を立ち、まだ教壇にいる教授からひと睨みされてしまった。  さすがにあからさま過ぎたと思い、真里也は軽く会釈をすると、こっそりと土師に手を振って一目散に教室を飛び出した。  自転車置き場に向かい、ロック解除して颯爽と自転車に飛び乗る。  土師が送ってくれた地図が示す場所は、隣街だった。電車の方が早いと思い、最寄りの駅に停めると、都合よくホームに滑り込んできた快速に飛び込んだ。  土師の情報が正しければ、駅二つ先にある場所で羽琉は、働いているかもしれない。  今日は定休日だから会えるわけないけれど、それでも足が震えてくる。  店へ近づいているのを意識すると、なぜか歩みがペースダウンした。  土師が見たと教えてくれた店の名前は、『洋食屋カーム』と言って、カフェではなかった。  洋食屋を探す対象としていなかった真里也は、土師が教えてくれなかったら、永遠に知ることはなかったかもと、心から友人に感謝をした。  アパレルや飲食店などが連なっている、賑やかな通りに面して店があるらしいと、土師が落ち着かない真里也に教えてくれた。  今、真里也が歩いている通りは、まさに店の出現を予感させる雰囲気だった。  道路を挟んで向かいにはいくつものオフィスビルがあり、昼時には店が繁盛しそうなのがわかる。  平日の真っ昼間に尋ねたら、迷惑かもしれない。真里也は明日、大学が終わってバイトが始まるまでの時間に訪れることを迷った。  スマホの番号まで変えた羽琉の覚悟を考えると、よほど真里也に会いたくいと思っているのかもしれない。なのに混雑している時間になど行けば、余計に顔を背けられてしまう恐れがある。  やっぱり、閉店間際に寄れる日にしようか……。  浮かれていた心を宥めるよう、真里也は肩を落としつつ自分に言い聞かせた。  あれこれ考えて歩いていたら、ロッジ風の建物が目に入り、木製のドアを何気なく見ると、定休日の文字とカームと書かれた看板がかけてあった。  ここか……。  鼓動を逸らせながら、店の前に立ち竦んでいると、中からガチャリと鍵を開ける音が聞こえ、真里也は隣の店が外に飾ってある、開店一周年と書かれたのぼり旗に身を隠した。  もし、店のオーナーらしい人だったら、羽琉のことを聞いてみよう。  思わぬ展開に脈拍が半端なく騒ぐけれど、これはチャンスだと思った。  瞬きするのも堪えて、真里也はドアから出てくる人物を待った。  外側にドアが開き、人影と声が聞こえる。   真里也はその声に聞き覚えがあった。  固唾を飲んで見つめていると、真里也の眸に懐かしい横顔が映る。次第に目の奥が熱くなり、声を出そうとしても、喉が張り付いて声にならない。  それでも、目の前に現れた羽琉に声をかけようと、旗から顔を出し、「——は」と、口にしかけたけれど、音にする前に文字を飲み込んだ。  あれ……誰だろう。凄く、綺麗な女の人だ。それに、あの小さな女の子は……。  羽琉に続いて店から出てきたのは、長い黒髪をなびかせる女性だった。彼女の手には小さな女の子の手があり、無邪気に笑う紅葉のような反対の手は、羽琉の手を掴もうとしている。それに応えるよう、羽琉が微笑みを向けて女の子と手を繋いだ。  羽琉が店の鍵をかけると、真里也の存在にも気付かず、背中を向けて真里也のいる反対の方向へと歩いて行く。  女性、女の子、そして羽琉と三人で手を繋いで、去って行く……。  真里也はその場を動けず、旗の布を無意識に掴んで三人を見つめていた。  ふと、女の子が肩から下げているバックを見ると、そこには真里也とお揃いで作った、珈琲とアップルパイの木彫りのキーホルダーがぶら下がっていた。 「は……る、はる、羽琉……。もう、俺のことは……忘れたんだ……」 ──一生、大切にするな。  そう言ってくれたのに、簡単に手放されてしまった。  まるで親子みたいだった。  綺麗で優しそうな女性は、羽琉にお似合いだと思った。小さな女の子も嬉しそうに羽琉を見ていた。  遠ざかっていく三人の姿がだんだんぼやけてくる。気付くと、涙が頬を伝っていた。  手の甲で拭っても涙はすぐに生まれ、冬の冷気で頬が凍りそうに冷たくなる。  寒くて、悲しくて、苦しくて、耐えきれず真里也はその場に蹲ってしまった。  やっとわかった。俺は羽琉が好きなんだ、大好きなんだ……。  この好きは幼馴染でもなく、親友でもない。それ以上の、愛しさが溢れて溺れそうな程の感情なのだ。  羽琉が気持ちを伝えてくれた高校最後の夏。ようやくそこに真里也も追いついたのに、もう遅かった。今更なんだと、目の前を去って行った三人の後ろ姿が突きつけていた。  唯一の繋がりだったキーホルダーも手放せるほど、羽琉の気持ちはもう、自分にはないのだとわかった。  大好きだと、羽琉の特別になりたいと追いかけて叫んでも、それは叶わぬことなのだ。  この思いは胸に秘めて、自分の中だけでもがき苦しむしかない。  伝えたい思いは伝えられないまま、心の奥に住み着いているだけに終わる。  切ない感情は体を離れず、痛みに耐えて生きていくしかない。  いつか、平気になるまでは。  答えに辿り着いたのに、真里也は遅すぎたのだ。  通行人がチラチラ見るだけだったり、大丈夫ですかと、声をかけてくれる人がいた。  多分、真里也はその都度、大丈夫ですと、答えられていたと思う。でも、記憶は曖昧で、今この瞬間、自分だけの世界になれば大声で泣けたのにと思った。  嗚咽をこぼしたまま動けずにいると、サコッシュの中でスマホが鳴った。  電話に出る気力もなく、折り曲げた膝に顔を突っ伏していると、道路の方からクラクションが聞こえた。  自分に向けて鳴っているとは思えず、蹲ったままでいると、ドアが開く音がして、その後、苛立ったような足音も聞こえてきた。  すぐ側で人の気配を感じ、顔を上げると桐生が目を釣り上げてこちらを見下ろしている。 「……せんせ……」  泣いている真里也に一瞬、瞠目していた素振りを見せた桐生だったが、すぐにいつもの上から目線に変わり、「課題もせず、こんなところで何をしている」と、叱責が降ってきた。  涙でぐしゃぐしゃのまま、のそりと立ち上がり、すいませんと頭を下げて来た道へ帰ろうとした。なのに体が後ろへ引っ張られ、振り返ると、桐生に腕を掴まれていることに気付く。  頼りなげに反対の手で振り払おうとしたけれど、桐生の力は強くて解けない。 「特別に送ってやる。乗れ」  路肩に停めてあった車まで引きずられるよう、体を運ばれると、助手席に乗っていた實川が心配そうに見ていた。 「せん……せ」  實川の顔を見ると、もうダメだった。  桐生の出現で一旦は引っ込んでいた涙が、堰を切ったように溢れ出す。  桐生が呆れたように大きな溜息を吐くと、そのままの勢いで後部座席に押し込まれてしまった。 「何があったんだ、射邊。あ、もしかして、あの男達にでも会ったかっ」  助手席から振り返り、心配そうに實川が聞いてくる。  声を出せば大泣きしそうだったから、首を左右に振るだけに留めた。 「じゃ、なんで泣いてる。大学生にもなって、道端で大泣きしてるなんて、お前は成長してないな」  桐生の言葉が心臓に突き刺さり、まだ大泣きはしてないと、力なく反論した。 「だろ? よかったな、大声で泣く前に俺に発見されて。感謝しろよ」 「真人、お前はほんっとにひと言多い。可愛い自分の生徒があんなとこで泣いてたんだ、よっぽどのことだって思わないのか」  運転席に戻って悪態を吐く桐生が、實川に後頭部を叩かれている。  二人の見慣れたかけ合いに心は少し落ち着き、ありがとうございますと、二人の背中に頭を下げた。 「あー、もう七時か。どーりで腹が減ったと思ったわ。な、ジツ、焼肉食いたい」  運転しながら桐生が言うと、俺も肉の気分だなと、實川が振り返って、射邊も肉でいいだろと、言われた。  二人の夕食の話だと思っていた真里也は、勢いに押されて、はいと、答えていた。  本当は何も食べたくないし、話しをする気力もない。  家に帰って風呂で泣き叫ぶか、布団に潜って、無理やりにでも眠りたい。 「じゃ、決まりだな。高級焼肉店へ出発だ、真人の奢りで」  なんだそれ、と口では言っているけれど、ルームミラーに映る桐生の顔は笑っていた。  そうか、二人は俺を慰めようとしてくれてるんだ……。  泣いている理由も聞かず、他のことで気を紛らわそうとしてくれる二人の優しさに泣きそうになる。  高校の頃、真里也が馬鹿なことをしても、彼らは見捨てず、ここまで導いてくれたのだ。   改めて思い出すと、真里也は小さな声で、ありがとうございますと、二人に呟いた。
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