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 嬉しいことや悲しいことがあった時、いつも一番に伝えていたのは羽琉だった。  母に誘拐され、軟禁状態だった時のことを父にも博にも話したけれど、二人には詳しく話せなかった。きっと、無意識に心配させたくないと思ったからだと思う。  じゃあ、羽琉には心配かけるとは思わないのか。それは、父達と同じで、羽琉にだって迷惑をかけたくないし、言わなくて済むなら口にしない。  けれど、どうしたって真里也は羽琉に甘えてしまう。羽琉なら全てを受け止めてくれると、小さな頃からそう信じて疑わなかった。  だから母にされたことも、父が死んで悲しかった時も、真里也は羽琉を求めた。  今もこうして、羽琉のバイト先に向かって走っているのは、一番に彼へ伝えたいことがあるからだ。なのに、肩にかけた鞄が(かせ)のように真里也の動きを阻んでくる。  ああ、鞄が重い……。  今日に限って、教科書やら参考書の数が多い授業ばかりだったし、体育もあったから体操服もジャージもある。  それでも赤信号以外は止まらず、全力疾走した。荷物が多過ぎて走りづらくても、商店街を目指して脇目も降らなかった。  商店街の入り口を視界に捉えると、真里也は横っ腹の痛みで初めて足を止めた。  横隔膜が迫り上がり、全身が悲鳴を上げている。日頃の運動不足が祟ったんだと、羽琉に言えばきっと笑われるだろう。  でもいいんだ、今日は。  インドア派なのは今更だし、足が遅いのもきっと遺伝なのだ。たぶん。  短い息をどうにかこうにかして整えると、真里也はまた走り出した。  商店街に連なる、百店舗以上ある店を横目に、家に近い側の通りまでようやく辿り着くと、『ふかまち珈琲』と書かれた看板の前で真里也は再び呼吸を整えた。  まだ息は荒いし、額には汗をかいているけれど、羽琉の顔を早く見たい。早く、羽琉に伝えたい。真里也は逸る鼓動を(いさ)めつつ、店のドアを開けた。  ドアベルが軽やかな音を奏でると、珈琲の香ばしい香りが全身を包んでくれる。  いつ来てもいい匂い。アロマのような香りを鼻腔に取り込んでいると、「真里也、どうした」と言ってくれる、エプロン姿の羽琉を見つけた。 「羽琉っ」  顔を見た途端、感極まって目の奥が熱くなってきた。眸を潤ませている真里也に気付いたのか、青ざめた顔になった羽琉が慌てて側にき来てくれた。  違う、悲しいことじゃなくて嬉しい報告なんだ。  頭の中では言葉を紡いでいるのに、文字達が口腔内で渋滞して上手く進ませることができない。  陸に上がった魚みたいに、口をパクパクさせていると、羽琉が水の入ったコップを手に握らせてくれた。 「ほら、これ飲んでから話せ。ゆっくりでいいからな」  真里也はコクコクと頷き、言われた通り少しずつ嚥下(えんげ)させると、深呼吸をした。  ようやく落ち着いてきた真里也を心配顔の羽琉が、カウンターの端っこの席に居場所を作ってくれた。 「もう平気か? 話せるなら言ってみな。お客さんが今は少ない時間だし、マスターもいいって言ってくれたから気にしなくていい」  ちゃんと話を聞いてくれる体制に抜かりない。おまけに背中を撫でてくれるから、我慢していた涙が溢れそうになる。 「あ、あのさ……。俺、出しただろ? あの、ほら。彫刻のコンクールに」 「ああ、お前が夏休みに必死で作ってた、じいちゃんとおじさんの顔だろ。確かタイトルがえっと——あ、呵呵だ。で、それがどうしたん——」  羽琉が途中で言葉を止めた。  それは、きっと、真里也の表情が泣き顔半分、興奮顔半分になっていたからだと思う。  嬉しくて、嬉しくて仕方ない時の真里也の顔を、羽琉は知っている。最後まで言わなくても、真里也が何を伝えたいのか、羽琉にはお見通しなのだ。 「ま……りや。もしかして……お前、じいちゃん達の顔が……お前の作品が優勝したのか。そうだろ、絶対そうだ。すげぇ、真里也すご……。え、あれ? ち……がうのか?」  泣き笑いのような顔を、曇らせたものだから、羽琉が焦っている。自分の勘違いに気付いて、それをどう修復しようかと必死な顔をしている。  自分のことで一喜一憂してくれる幼馴染が愛おしく、真里也は耐えきれなくなって笑ってしまった。 「もう、羽琉。早とちりするなよ。しかも優勝って、野球やバスケじゃないんだから。それを言うなら入賞だよ。しかも、俺は佳作だったし」  サラッと結果報告した真里也の言葉を、羽琉はちゃんと拾ってくれる。その証拠に、凛とした奥二重が限界まで見開いていた。 「か……さ……く。それって、凄いことなんじゃないのか? なあ、優勝じゃなくても、二等? いや、三等? それとも審査員特別賞みたいなもんか? あー、何でもいい。とにかく、お前のあの作品が偉い先生方に認めれたんだな。そうなんだなっ」  両肩を力強く掴まれると、真里也は激しく体を揺さぶられた。  遊園地のバイキングを高速で動かされたみたいで、酔いそうになる。 「は、羽琉。そんなに、揺らすと、吐く……」  真里也の訴えに気付き、ごめん、ごめんと、謝りながら体を気遣ってくれる。  羽琉が自分のことのように喜んでくれて、それがたまらなく嬉しい。 「で、佳作ってなんだ?」  改めて聞かれると恥ずかしい。佳作は入選漏れなのだから。 「えっと、入選されなかったけど、それの次に優れた作品? みたいな意味かな」 「凄いっ! 真里也、お前は凄いなっ。それって、次は入選できるかも知れない、例えるなら、野球のベンチ入りだろ? 少なくとも、応援席じゃなくって、チャンスがあれば代打で出られるってことだ。なあ、違うか?」  どうしてスポーツに例えたがるんだ。まあ、本人が理解しやすいなら、それでいいか。敢えて否定せず、そんなもんかなと、真里也は頷いてみせた。 「ヤバい、真里也お前、ヤバいぞ。どーすんだよ、スカウト来たら。どっかの学校に推薦入学とか出来るんじゃないのか」 「いや、だから運動部じゃないって——」 「店長ーっ。聞いてくださいよ、真里也が賞を取ったんですよ、彫刻の。佳作、佳作ですよ。すっごいって思いません?」  恥ずい……。ああ、ほら。店長だけじゃなくて、常連さんまで聞こえてるし。 「凄いじゃないか。さすが、博さんの孫だな」  ふかまち珈琲の店主、深町(ふかまち)が、珈琲の粉を挽きながら、カウンターの向こうから微笑んでいた。  真里也は、ありがとうございますと礼を言うと、佳作なんだけどなと、誰にも聞こえないように呟いた。  深町は真里也の亡き父の旧友だ。  ずっと、この町で暮らしているから、博のことは勿論、真里也のことも羽琉のこともよく知っている。  店を訪れる客も大半が近所の昔馴染みで、名前は知らなくても、お互いの顔は認識している。そんな彼らも、羽琉の雄叫びを聞いて口々に、よかったなぁとか、おめでとうと言ってくれた。  穴があったら入りたいほど恥ずかしかったけれど、それ以上に嬉しさが優った。 「なあ、お前の作品ってどっかに展示したりするのか。一般人も見に行けるのか」  満面の笑顔で羽琉が聞いてくれたけれど、そこからの情報を真里也は知らない。 「どう……だろ。先生に聞けばわかるかも。佳作に選ばれたってのも、先生が教えてくれたし」 「ちょっと待て。俺より先に實川のが知ってたってことか」 「だ、だって結果は学校に届くようにしろって先生が……」  ムッとした顔をされたけれど仕方ないことだ。高校に在籍している以上、教師の指示には従わなければならない。 「っんだよそれ。あいつが一番かよ。あ、でもどっかに展示されるなら、俺が一番に見に行くからな、絶対に」  なぜ實川に張り合っているのか不明だけれど、展示されるか聞いておくよと言い、 「じゃあ、俺帰るよ。バイトの邪魔になるし、ここは食事も美味いから夕方になると混んでくるだろ」  カウンター席から降りて店を出ようとしたら、羽琉に手首を掴まれた。 「バイト終わったら速攻、お前んち行くからさ。じいちゃんも一緒にお祝いしようぜ」 「え、そんな。いいよ。それに明日も学校だし……」 「大したことしないから大丈夫だ。お前の好きなアップルパイ買って帰るよ。店長、まだパイって残ってましたよね」  カウンターの向こうで珈琲を淹れる深町が、眼鏡をクイっと上げると、冷蔵庫を開けて確認してくれる。 「もうワンホール残ってるよ。おじさんからのお祝いだ、全部羽琉に持って帰らせるよ。博さんと一緒に食べな。それと、父ちゃんの仏壇にもな」  深町が眼鏡越しに笑ってくれると、羽琉が、さすが店長と言って、あざーすと頭を下げている。真里也も慌てて頭を下げてお礼を言った。  その日の夜、約束通り羽琉はいつもより早く帰って来てくれた。  夕食を三人で食べて、食後のデザートは深町お手製のアップルパイだ。勿論、仏壇にもワンカット供えて。  佳作に選ばれたことを、博も喜んでくれて、幸せだなぁとしみじみ思った。 「真里也、お祝いに何か買ってやるよ。何がいい?」  パイと一緒に、羽琉が淹れてくれた珈琲を飲んでいると、唐突に聞かれた。 「い、いいよ。お祝いなんて。それに、このアップルパイと珈琲で十分んだ」 「アップルパイは店長からだし、珈琲だって店の豆を譲ってもらったやつだ。俺は何もしてやれてない。なあ、だからリクエスト言ってくれよ。して欲しいことでもいいからさ」  流しで皿を洗っていると、すぐ後ろまで羽琉が来て立っていた。 「いらないって。一緒に喜んでくれただけで十分——」  洗い物の続きをしていると、すぐ、耳元で羽琉の声がした。 「なあ、何でもいいから言ってくれよ」  耳に息がかかるからくすぐったいと訴えたら、左右に唇を引き結んだ羽琉の目と合った。  ジッと見てくるから、恥ずかしくなって視線を逸らそうとしたけれど、羽琉が気を悪くするかも知れないと注がれてくる視線に耐えた。   何でそんなに見てくるんだ、顔に何かついてるのか? と、アレコレ考えていたら、ふいに、薄くて上下均等の取れた羽琉の唇が目に入った。  真里也の頭の中で、映像が再生されるように美術室で羽琉にキスをされたことを思い出してしまった。  浜崎に嵌められかけた時、咄嗟に羽琉が取った打開策。  嘘の行為なのに、あの時感じた胸の鼓動の速さが鮮明に蘇る。  触れ合った感触が、真里也の全身を熱くし、心臓に穴でも空いたんじゃないかと思うほど息が苦しくなった。  どうしたんだ、俺は……。これまで羽琉の顔を見ても、何ともなかったのに、心臓が痛い。血管の中で血液が暴れてるみたいに、ドクドク蠢いている。 「どうした、真里也。腹でも痛いのか」  心配顔で頬を撫でてくるから、パッと顔を背けて洗いかけの皿を手に取った。  逸る心音が体の外に漏れ出て、羽琉に聞こえるかも知れない。真里也は慌てて、水道の蛇口を捻って水音で誤魔化した。 「真里也?」  また耳元で呼ばれたから、「腹は痛くないっ」と水音に混ぜて返事をした。 「……ならいいけど。それより、欲しいものか何か、考えておけよ」  居間に戻りながら言ってくれたけれど、真里也は振り返ることができず、うんと、小さな声で返事をした。  羽琉に聞こえたかどうかわからないほどの、小さな声で。  ついさっきまで普通だったのに、羽琉の顔を直視できない。自分でもわからない、得体の知れない感情に翻弄されながらも、真里也は気のせいだと自分に言い聞かせた。  きっと佳作に選ばれたことが嬉しくて、身体中が興奮しているんだ。うん、そうだ。気のせいだ──と。  洗い物を終えて手を拭きながら居間に戻ると、羽琉の姿はなかった。  視線が勝手に羽琉を探していたことに気付いたのか、博が風呂に入ったことを教えてくれた。 「ふーん」と返事をした自分がつまらなさそうにしているのに気付き、真里也はかぶりを振った。  羽琉の姿が見えないだけで、寂しさを感じているなんて、今までなかったのに……。  ちょっと冷静になろう、そう思った時、ニュース番組から『の釣りに最適な季節ですね』なんて、アナウンサーが言うから、またドキッとした。  画面を見ると、どこかの海で中継している女性が、釣竿を持って意気込んでいる。  なんだ、魚のキスか……。  安堵したものの、たった二文字の言葉に敏感になりすぎているのではと、自分んで自分の頭をこぶしでこついた。  すぐ横で番茶を啜っている博に変な顔をされたけれど、真里也の視線は、さっきまで羽琉が座っていた座布団に向いていた。  自然とそこに手が伸びると、表面にそっと触れてみる。  羽琉の温もりがまだそこに残っていた。  体の奥の方から、洞窟で鉱石を採取するような音が聞こえた気がする。  煌めく何かを掘り起こすよう、心臓をコツコツと小さな金槌で打つような、そんなくすぐったい振動が真里也の中でゆっくり響いていた。
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