進軍せし者

1/1
前へ
/31ページ
次へ

進軍せし者

 初めて聞いた、ヴィクの汚い言葉。  しかし意味が分からないと彼を見つめていると、彼はおもむろにスプーンでシチューをすくい、ぐいっと俺の口元に運んだ。  喜んでそのスプーンをぱくりと口にしてたが、口にシチューを含んだ数秒後に、今までのスープよりは食べられる代物でしか無いとわかった。  そうだよな。  この世界にはコンソメもブイヨンも無いよな。  テンションが駄々下がった俺はそうやって自分を慰めながら、自分のスープ皿をスプーンですくってかきまぜた。  すると、俺の天敵とも思えるあの初日の臭い肉らしき切り身が、ごろっと、クリーム色の液体の中からコンニチワと出てきたのだ。 「わあ、何のお肉なんだろう、これ」 「ぶはっ。その喋り方。期待してた割には美味しくなかったってことか!」  ヴィクはクスクス笑いながら、自分もシチューをすくって口に入れ、再び自分の目元を今度は左手で覆った。 「俺の作った不味いスープと大して変わらないとは!」 「あれはあなたの手作りだったの?」 「そう。不味いスープはね」  ニコッと笑みを見せたヴィクの顔で、俺は頭の中で「毒」という単語が浮かんでしまった。  自分で食事を作るのは、過去を忘れないことと、過去の復讐が終わるまでは絶対に死なないという意志によるものでは無いだろうか。  中世は毒殺も多く、また、食あたりによる死亡も多かったと、俺が世界史を勉強している時に看護師の母が余計な茶々を入れて来たじゃないか、と。 「あなたは俺をどこまでも守ろうとしてくれていたんだね?」 「どうかな。アキに逃げられたのは飯が不味かったせいだと、俺が言い訳に使いたかったかもしれないよ?」 「どこに逃げるの?」 「元の世界に」  俺は言葉を失った。  それどころか、失ったあの日々に想いを寄せてしまったのだ。  ほだか。  気が付けば頬には涙が伝っており、けれども、ヴィクは俺の頬の涙は拭ってはくれなかった。  昨日までは俺が自分で泣いていた事さえ気が付かないぐらいに早く、彼が俺の涙を拭ってくれていたのに。 「頼む、俺を誘うのは止めてくれ」 「ヴィク?」  彼は、はっと鼻で嗤うと、再びスプーンでシチューをすくい、俺の口へと差し出した。 「まずは、こいつらをどうにかしよう。ミートパイはきっとうまいはずだ」 「そうだね。ミートパイまで不味かったら俺は泣いちゃうよ」 「俺の粗末な飯には一度も泣かなかったのにね」 「不味いけれど、不味いとはあんまり感じなくなってた。だって、最初からヴィクと一緒だったし」  バアアアン。  ヴィクの手の平が真っ赤になるんじゃ無いのか、そのぐらいに強く大きく彼は机を叩き、叩かれた机が大きく揺れた。  そして、叩いた男は両手で自分の目元を覆っていた。 「俺を煽るのは止めてくれ」  この人はどうしてしまったのだろうか。  俺はほんの少しだけ身を乗り出して、ヴィクに呼びかけた。 「ヴィク? って、むぐぐ」  ヴィクは俺が彼を窺っているのを知るや、ミートパイを俺の口に突っ込んで来たのである。  なんたる暴挙!  そして、一口食べて、ミートパイはミートパイだったな、という感想を持った。 「これもか? これは普通だぞ。そういえばアキはトーガシャが好きだったな。ちっちゃな子供が大好きなお菓子だ」  俺の頭にヴィクの手が乗り、ぐしゃぐしゃと頭を撫で始めた。 「よしよし。子供だ。子供でいろ。君自身の為に」 「もう! 俺は大人になりたいよ」  これは本心だった。  この世界から逃げられないのなら、自分で自分を守って、自分の足で立って居られるよな大人になりたい。  守られる事は嬉しいけれど、無力だからこそ、俺はいつもびくびく脅えてヴィクに縋りついていなければならないのだ。  それは俺にはとても楽で簡単なことだけれど、ヴィクの負担にしかならないのではと、俺はとても不安なのだ。 「だから、そういう誘う事は言うんじゃない。アキは俺を選んだのか?」 「え?」  俺はまじまじとヴィクを見返して、どういう意味かと聞き返そうと口を開いた一瞬、身を乗り出したヴィクによって引っ張り上げられ、口を塞がれていた。  俺はヴィクに両腕を伸ばしたが、それは彼を引き剥がすどころか彼の肩を掴んでしまう有様で、だから俺はヴィクに完全に拘束されていた。  彼の左腕は俺の腰に回され、俺の頭はヴィクから逃れられないようにして右手にがっしりと掴まれている。  そして俺は、ヴィクの舌に口の中を探られるたびに足から力を失い、肩を掴んでいた手は彼から滑り落ちないように彼の首に腕を回していた。 「いいのか? 俺は最後までするぞ」 「最後?」  聞き返した俺にヴィクはふうと大きな吐息を吹きかけ、俺はその吐息に吹き飛んだようにして、いつの間にかベッドに倒されていた。  俺を見つめるヴィクの双眸は輝き、口元はニヤリと微笑んでいる。 「止めねば俺はこのまま進軍するぞ。ここが俺が撤退できる最後のチャンスだ。さあ、どうする?」  耳にかすれ声で囁き、その上彼は耳のすぐ下に軽いキスをした。  全身がビクンと震え、俺は窮地に立たされた。  このまま抱かれていたい自分の体と、穂高を諦める事になるんだと叫ぶ俺の心が、俺にこのまま進めと唆すのだ。  そう、穂高に二度と会えず、元の世界に戻れないのならば、穂高への想いを断ち切るのは早い方がいい。  それでも自分の意思が体と心を押さえつけるのは、そんな考えでヴィクの腕に飛び込んだらいけないと必死に窘めるからである。  俺の葛藤を知ったようにして、ヴィクの唇は俺の首筋に吸い付き、俺の体が彼を求めていると俺に知らしめるために俺の下腹部に手を伸ばした。  このまま、このまま、彼に翻弄されてしまえば! 「隊長! 開けてください! コルカスの国境線にキドラの進軍です! 勇者ホダカを先頭に我が国にキドラが攻め込んできました!!」 「穂高がここに!」  俺はヴィクに抱きしめられて口を塞がれた。  今度は彼の手の平だ。  そうだ、俺は自分がホダカだと振舞わねば殺される死刑囚そのものだった。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加