ヴィクトル・アラニエ

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ヴィクトル・アラニエ

 勇者は自分の想い人を取り戻すや、一陣の風が舞うようにしてその姿を消した。  ヴィクトルは消えて何もなくなった床から目線を動かすと、自分の王だった男、ジョージ・ダンドールを見返した。  弛んだ体は弟王子であるカールが叛乱してからも鍛えられる事はなく、常に誰かに自分の責任を背負って欲しいだけの矮小な男だと、ヴィクトルは心の中でジョージに対して唾を吐いた。  しかしながら弟王子のような溌溂とした男では、綻びかけたダンドール国を立て直す可能性があり、そこでヴィクトルは目の前の男を持ち上げたのだ。 「脅威は去りましたよ?」  自分の側近の一人が無造作に殺された事で、ジョージは腰を抜かしたどころか失禁までもしており、そこでヴィクトルはさらに苦い気持ちが湧いた。  アキが存在していた異世界は安全で素晴らしい世界だった。  そんな場所から連れて来られたアキは、脅えながらも全てを受けいれ、この世界で生きていく覚悟さえも決めたのだ。  ヴィクトルがアキに出会って残念だと何度も思ったのは、自分が描いた不幸に彼を引き込んだだけでなく、自分の目的さえも見失う程にアキに対して優しい感情しか湧かなくなった事である。  これでは復讐など完遂できない。 「どうしようかな」 「隊長? 考える事ですか? 計画通りに参りましょう」  ヴィクトルの横に彼よりも大柄な男が立ち、ヴィクトルの次の指令を待っているという風に方眉を上げてヴィクトルを窺った。  否、部下が上官にそんな素振りをするものではない。  これは友人として、落ち込む気持ちはわかるがとにかく動きましょうと、ヴィクトルに無言の圧力をかけているだけだ。  汚泥の中で一緒に育った親友は全て見透かしているようだと、ヴィクトルは鬱陶しく感じもしたが、確かに彼は永遠に失ってしまった人物に対しての喪失感をかなり抱えていた。  友人からの慰めが欲しいぐらいに。 「あんな幼い子供に骨抜きにされるとは、情けないね」 「幼くとも優しい良い子でしたから。あの子に付いた者は全員が全員、絶対に守りますと恋した様にして戻ってきたぐらいですよ。あなたぐらい簡単に虜にするでしょう」 「君は! さて、目論見通りと喜ぶ事にしよう。勇者から恋人を奪えば、勇者が喜んでダンドールを壊しに来る、か。その通りで、我々が勇者を誘導する前にコルカスの正規兵を焼いてくれたんだ。この好機を逃す手は無いな」 「お、お前らが! 我が国を!」  ヴィクトルはワハハハと笑いながら、目の前の汚物でしかない男を蹴った。  二十年前のファルカス人がされた事と比べれば、この程度は上品すぎる仕返しだが、ウジと同じところに堕ちても仕方が無いとヴィクトルは心の中で嘯いた。  復讐への意欲が彼の中で渦巻いてはいるのに、大きな黒い瞳が彼を見つめて彼を宥めてしまうのだ。 「畜生。あのちびはどこまでも俺を操りやがる!」 「隊長?」  ヴィクトルは大きく息を吐きだすと、腹心の部下で親友に号令をかけた。 「スキュラベイク隊全隊員に伝令! これより我が隊はコルカスに向かう。勇者様のお陰でキドラもダンドールも動けやしない。今こそ、我らが宿願、我らが領土を奪還するぞ!」  烏色をしたスキュラベイク隊は大声を上げてヴィクトルの号令に呼応し、ヴィクトルは部下達を見回しながら、その中にいるはずのない少年の姿を探してしまった自分に舌打ちをした。  復讐を完遂する誓いとして、人並みの幸せを捨て去った彼である。  不幸を背負った自分の傍にあの少年を置いてはいけないと、彼は自分に言い聞かせた。  たとえアキが、彼が望む世界の破滅を行える邪神イスラーフェルの化身であったとしても、と。  ヴィクトルは昴輝を勇者を操るための餌として召喚させたが、昴輝という少年の心根の素晴らしさや、彼が勇者と対を成す邪神であることなど全く計算外のことだったのだ。 「俺の当たりの大きさは何だろうな」 「当たる前に玉砕している人が、何を言っているんですか?」  ヴィクトルは親友に不貞腐れた顔を見せつけると、怒鳴り返す代わりに一歩を踏み出した。  この憤懣を全てコルカス奪還にぶつけようと。
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