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 俺は走っていた。  どこに行くわけでもなく、明るい昼のさなかに、子供達は学校に行っている時間に一人だけで走っていた。  叶刑事の言う通りに、穂高に頼めば俺が召喚されるその場に戻ることはできる。  そして、今の穂高ならば、確実に人を殺せる。 「あっ」  俺は思いっきり転んでおり、思いっきり体を固いアスファルトにぶつけたことで、痛みにぎゅうと目を瞑っていた。  世界は真っ暗だ。  俺の未来のように。 「俺はあの日に召喚されなければ幸せだったのかな?」  立ち上がれなくなった俺は、ごろっと仰向けになり、そっと目を開けた。  薄い青色の空が広がっており、そこには飛行機雲がたなびいている。 「君に青い空を貰ったよ」 「ばか、ヴィク。俺をいたたまれない風にしないでくれよ。あんな、あんな、高価なブローチと俺の買った安物を取り換えやがって」  俺こそいたたまれなくなって、右腕を自分の目元に当てた。  あのブローチは確かに衝動買いのものであったが、綺麗でしょ? それぐらいのものであったのだ。  ヴィクがマントを羽織った姿を見たことが無かったから見たかった、そんな悪戯心もあっただけの軽いプレゼントだったのだ。 「ああ、ちくしょう! 俺こそ重く受け取り過ぎだ! どうしてヴィクのブローチを俺は大事にしすぎたんだろうな。いつも持ち歩いていれば、こっちの世界でもヴィクのものを持っていられたというのに!」  自分が不幸な理由。  それはここにヴィクがいないからだ。  世界を元通りにしたくない理由は、ヴィクの元に俺が戻りたいからだ。  あの不味いスープだって、毎日風呂に入れない生活だって、ヴィクが隣にいるならば何の問題も俺には無いのだ。  俺は再び両目を閉じた。  あの日、召喚された日に見た魔法陣を思い浮かべた。  すると俺が思い浮かべたそれは、俺の思考の中で銀色に輝きだした。 「ターゲットを捕捉しました。詠唱をお願いします」  ヴィクの言葉に続いて詠唱が為されたが、あの詠唱はヴィクの声では無かった。あれは誰の声だったのだろうか。ダンドール国の魔術師だった? 「……イルバトオル、ルツ、ダロウガ、ルツ、コルメントス、クエ、イルバトオル、ルツ……」  あの日の詠唱を思い出しながら、あの調べと意味不明の言葉を唱えると、急にその言葉が俺の言葉に変換されていった。 「千年円、回る、永遠に、回る。生命環は千年円と成り代わり、回り」 「やめるんだ!」 「ヴィク!」  俺は反射的に身をがばっと起こして、それからすぐに頭の中の銀色の円陣も俺が先程まで呟いていたものも全部消え去ってしまった時が付いた。 「どうして!」  そうしてあの一か月を思い出し、ヴィクが俺に全く魔法を教えようとしなかった事に思い当たったのである。  俺は魔法力が無いと思い込んでいたが、遅咲きの勇者という設定ならば俺に魔法の呪文を一つくらいは覚えさせるものでは無いのか?  あの世界の文字を読めないという問題はあっただろうが、それならばなぜ簡単な文字を教える事も無かったのだろうか?  魔法書の一つぐらい読ませてくれれば、俺はあの長い時間を無為に過ごしていき事もなかっただろうに。 「どうして? いいや。もう一度やってやる。あの円を思い出して、思い出して。あの円を」  しかし、俺の脳みその中には、あの魔法陣の痕跡が全て消えていた。  あの懐かしい声は俺の頭の中に響いて俺を喜ばせたくせに、俺から完全に全てを奪い去っていたのか。 「ちくしょう! ヴィク!」  俺は両手で顔を覆い、消えてしまった円の代りに、ヴィクのブローチを思い浮かべた。  蛇が尻尾を咥えて円形になっているブローチ。  何もすることが無い俺はブローチを眺めて何をしていた? 「円周率の暗唱をしていた。学校で百桁覚える競争をしていた。それで、それで俺はあの異世界で忘れないようにって暗唱していたんだ。他にする事が無いからって」  それが何の意味を為さないことはわかっていたが、俺はそれの語呂合わせを口ずさんでいた。  だって無理数の永遠に続く数字は、何もなくなった俺にはヴィクの元へと続く道となるような気がしたのだもの。 「|産、医師異国に向こう(3.14159265)、……虫さんざん、……仲よくせしこの国さりなば、医務用務に……不意惨事に言いなれむな」  瞑った真っ暗の視界の中で銀色の円がぐるっと描かれ、それが二重の円となり、そこに次々と俺を召喚したあの魔法陣になるべくどんどんと古代文字や記号が書き込まれて行った。  !!  すると、俺の頭の中にあの詠唱のメロディが流れて来た。  メロディが再生されたのならば、俺の頭の中にはあの呪文の言葉が蘇る。 「千年円、回る、永遠に、回る。生命環は千年円と成り代わり、回り、ふるいにかけられし魂を導き、ここに――」 「まだ待ってくれ。今は戦闘中だ」 「ど、どれだけ?」 「二刻ぐらいかな。汚れも落としたいし」 「わかった!」  俺は立ち上がって、再び駆け出していた。  ヴィクの元に帰れるんだ!  そのための準備は必要だ。
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