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久し振りに降り立った海辺の町は、昔と変わらず潮の香りがした。
空気も雰囲気も、私が子供だった頃と何ら変わらない。
しかし、小さな私たちが園庭を走り回った保育園は疾うに廃園になって、今はぐるりと囲む塀しか残されていない。小学校は開かれてはいるが、使われていない教室の方が多い。中学校は、廃校になった。校門に貼り付けられた「災害避難場所」の看板に、それでも校舎は役目を与えられているのかと、胸に迫るものがある。
日の短くなった秋の日に私が帰省したのは、父の命日に墓前に手を合わせる為だ。
海と山に挟まれた漁村には、平たい土地が殆ど無い。僅かばかりの平地には家が建っていて、耕すべき土地は幾らも残されていない。
そこで先人たちは、山に畑を作ろうと考えた。
大きく削るのではない。細く細く山を削って石垣を積み、階段状の畑にした。その奥行きは狭く、子供が寝そべれば足が出そうなくらいしかない。
削っては積み、削っては積み……。如何ほどの労力だったろう。
以前連続ドラマの舞台になったので、じゃがいもを植えてある段畑は観光名所になっている。観光バスもやってくる。
耕して天に至る、の言葉通り、その「階段」は空に向かって山の天辺まで続き、海からの光を受けてきらきらと輝いている。
しかし、私の知っている段々畑にじゃがいもは植えられていない。
そこには蜜柑の木が植えられている。
風よけの杉の木に囲まれて、蜜柑がびっしり植えられている。
祖父が操るモノレールに乗って(本当は、人は乗ってはいけないモノらしい。どうか、時効ということでご勘弁いただきたい。)蜜柑の収穫に行くのが楽しみだった。
モノレールに空のキャリーを沢山積んで、うるさいモーター音を聞きながら山を登ってゆく。傾斜のきつい所もあり、柵も手摺も無ければ揺れもするので結構怖い。
小心者の私は肝を冷やしながら、弟たちははしゃぎながら、やがて一番上に辿り着く。
蜜柑の木は背が低いので、子供の手でも収穫に困らない。一段上の畑に立てば上の方の蜜柑もとれる。収穫用の袋を首から下げて黙々と鋏を使う。重たくなればモノレールのキャリーに中身を移して、また蜜柑に手を伸ばす。
段々畑を一段ずつ下りながら、その作業を繰り返す。
だから、帰りはモノレールに乗らない。
一番下まで辿り着いて、私はほっとしたような寂しいような複雑な気持ちになる。
苔むした石段とジャングルのような蜜柑の木が私の段々畑だ。
だから、じゃがいもが植えられた段畑がメジャーデビュー(?)したときには少々驚いた。すぐ近くの地域なのに、知らなかった。その辺りに行ったこともあったので目には入っていたのだろうが、認識していなかった。
だって、段々畑は蜜柑畑だもの。
さて、そんな土地の無い地域であるから、お墓ももちろん山肌に張りついている。日中小用があり実家に辿り着いたのは午後五時を回っていた。
「はよ行かんと日が暮れるよ」
母の言葉に押されるように、お仏壇に手だけ合わせて靴を履き替える。スーツにスニーカー。妙な取り合わせではあるが、ヒールで山は登れない。以前、うちよりも少々過酷な斜面にある母の実家のお墓にピンヒールのブーツで挑んで泣きを見たことがある。
下りがやばい。
スマホだけ握り締めて、ひとりぶらぶらと家を出た。ざっくりとコンクリートで固めただけの道を登って墓地を目指す。その道を両側から囲むのも蜜柑の段々畑だ。母の実家ほどではないが、こちらの傾斜もそこそこキツい。運動不足の身には堪える。よりによって、うちのお墓は一番上にある。
母が毎日参っているので、青々としたしきびが供えられていた。
水を差し、落葉を拾って、お線香を立てる。
目を閉じて手を合わせる。
私が父に語り掛けるのは、いつも子供のことだ。とても可愛がってくれていたものね。おじいちゃん。
山の上にあるお墓は、風が渡って気持ちがいい。
父の眠る場所が心地好いところでよかったと思う。
ここからは、うちの家が見える。失くなった保育園も、寂しくなった小学校も見渡せる。湾が入り組んでいる所為で中学校は見えない。うちの山も見えないが、段々畑の蜜柑に囲まれている。
夕凪の海が輝いているのが見える。
モノレールに乗せてくれた祖父はもういない。
蜜柑畑の多くは、継ぎ手がいなくて放棄された。今では、多くが蜜柑の木よりも背の高いセイタカアワダチソウに覆われている。
先人が開墾した畑が、山に戻ってゆく。
小さな田舎町からは失われてゆくものが多い。
商店も学校も、畑も人も。どんどん減っている。
独居老人が本当に多い、という弟の言葉に驚く。
昔は三世代揃っているのが当たり前だった。
生活は豊かになり、便利になり、人は動く。
忙しい毎日のなかで、旧いものは忘れ去られてゆく。
それが悪いことなのかどうかは分からない。
きっと私も、忘れてゆくひとりに違いない。
暮なずむ空は、淡い橙と紫が混じってとても美しい。
私が見ている空も、父や祖父が見た空も、段々畑を切り拓いた誰かが見た空も。
変わらず美しかった筈なのに、人は変わってゆく。時代は移ろってゆく。
そんなことにふと胸を締めつけられる、秋の一日だった。
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