はじまり

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はじまり

 月夜が美しい9月の空から、ザアアア…と大粒の雨がシャワーのように降り注ぐ。20分前までは綺麗な夜空だったのに。急に降り出した大雨に、夜22時の新宿を歩く人々は急いでコンビニに傘を買いに走ったり、居酒屋で雨宿りをしたり、ずぶ濡れのまま必死に家へ向かったり…と、予想外の事態に戸惑っていた。  そんな中、雨粒に輝きを滲ませるネオンの道を、傘も差さず、覚束ない足取りで歩くスーツ姿の男がいた。 「……」  天然パーマ風にセットした髪の毛は萎れ、男の暗い顔にベッタリと張り付いている。一張羅のスーツと革靴は雨水を吸い、ただでさえ怠い足取りを億劫にさせる。力なく丸まった背中には、ずぶ濡れの重たいリュック。普段はキャッチのお兄さん達で賑やかな道をフラフラと歩く男の表情は絶望に染まっていた。  今にも膝から崩れ落ちてしまいそうな男の名は、堂平(どうひら)あゆむ。43歳。芸歴22年のお笑いコンビ、バッシュルズのツッコミ担当だ――いや、担当だった。20分前までは。 「なんでやねん!」 「どーもー、ありがとうございましたー!」 「っしたー!」  3時間に渡る単独ライブを最高のネタで締めくくった2人は、両膝に手をつくと、客席に向かって汗まみれの頭を深々と下げた。キャパ50人の薄暗い小さな箱の中、ステージとの段差がほぼないフロアに置かれたパイプ椅子に座った観客達は、頭を下げ続ける2人に向かって、一斉に拍手をする。涙目で熱心に頷く人もいれば、欠伸をしながら適当に手を叩く人もいる。熱力がバラバラの拍手を笑顔で受け止めた2人は、大きく手を振りながら舞台袖にはけていった。  ステージのすぐ隣にある、決して広くはない楽屋。少し開きの悪い扉をグッと力強く押したあゆむは、中に入ると「はぁ~…」と深い息を吐いた。 「いやぁ…無事、ツアーの千秋楽が終えられて良かったわ~」  ざわついている会場に聞こえないように小声で言いながら、あゆむは開放感に満ちた表情で背伸びをする。  昔は「可愛い~!」と数多の女性達から言われた爽やかな塩顔に笑い皺を作って、クリクリの二重を嬉しそうに細める。 「…おお」  どこか色気のある吐息と共に頷いたのは、バッシュルズのボケ担当、徳山みのる45歳。あゆむの後ろから俯きがちに楽屋に入ってきたみのるは、キュッとしまった赤ネクタイを人差し指で緩める。  昔は「ワイルド~!」と数多の女性達から言われた気怠げな三白眼で、あゆむをチラリと見る。斜め上に尖った細眉を眉間に寄せると、白髪混じりのツーブロックをガリガリと掻いた。 「23年目を迎える、ええスタートが切れそうやな!」 「……」 「あ~、はよ来週のラジオで今日の話したいわ~!」 「……」 「?なぁ?徳山」  返事をしない相方を不思議に思い、あゆむは振り向きながら問いかける。明るい未来を信じてやまないその瞳は、まるで無垢な少年のようだ。みのるは自分に向けられるキラキラの視線からフッと視線を逸らすと、頭を掻いていた手を下ろし、髭の剃り跡が残る顎を意味もなく撫でた。 「…堂平」 「お?」  今まさに、1年かけて挑んだ全国47都道府県を回る単独ライブツアーを走り切ったばかりだというのに。全く喜んでいないどころか、何故か浮かない顔をするみのるに、あゆむはにこやかだった表情を崩し、戸惑い始める。 「…えっ、と…。ごめん…俺が3本目のコントでツッコミ間違えたの…怒って、る…?」  実際は3本目だけでなく、4本目も噛んだし7本目はネタが飛びかけたし、間のトークでは噛み倒したけど。その場の雰囲気を読んで笑いを作ろうとする感覚重視の自分と違い、精度の高いネタやトークを重視するみのるには、不満が多く残ったのかもしれない。  ――やば…説教3時間コースかもしれん…。  いつも舞台や収録がどんなに上手くいったと思っても、ちょっとでも変な空気を作ったりツッコミの間が悪かったりすると、楽屋に戻った瞬間、ネチネチネチネチとくどい説教が始まる。結成当初はあゆむも言い返していたのだが、みのるは悉く正論で返してくるので、いつしか「ごめん」とただ繰り返すようになってしまった。  とは言え、今日は千秋楽。めでたい日だし、少しの失敗は大目に見てくれるかな~…なんて思っていたが、この重たい空気。  「お前はいつになったらまともにお笑いできるようになんねん!」と、ヤクザみたいな迫力で今日も怒られるに違いない。  みのるの怒声に備え、あゆむの表情が固くなる。  しかし、みのるのカサついた唇から零れたのは、怒声ではなく大きな溜め息だった。 「…なぁ」 「お、おぉ…」     いつものダメ出しの時とは違う落ち着いた声音に、自然とあゆむの背筋が伸びる。  ――なんや…えらい深刻な雰囲気やな…。  まずい。想像以上に怒っているのかもしれない…と、不安と緊張で唇を舐める。その強張った顔をみのるは静かに見つめると、小さく息を吐き、顎を撫でていた手を下ろした。 「…もう、解散せえへん?」 「…へっ?」 「ここら辺で…いや、今日でバッシュルズは解散や」 「はっ、はぁっ!?」  予想だにしなかった言葉が飛び出し、あゆむはギョッと目を丸くする。  ――えっ、何!?解散!?さっき大拍手でライブ終わったばっかやのに!?  何故、このタイミングで?信じられない。意味が分からない――と、あゆむは口をアワアワさせて、ハッとする。  ――そうか…!これ、ドッキリやな…!?  あゆむは思わずテンションが上がってしまいそうになるのを我慢して、慌てた表情をキープする。「あ~…う~…」と唸りながら、目線だけをそろっ…と天井の隅に向ける。あそこにある小さな防犯カメラ…果たしてアレは、劇場のものなのだろうか…。もしかしたら、荷物の隙間や背後にも、隠しカメラがあるかもしれない。  ここ2年、「俺らもええ加減動画投稿したりしようや~」とみのるに言い続け、その度に「おー…考えてみるわ」と適当にあしらわれていたが。 ようやく重い腰を上げてくれる気になったのだと思うと、カッと燃え上がるような興奮で体が熱くなる。  ――「ツアー終了直後に解散ドッキリしてみた」なんて、最初の動画として最高やん!流石、徳山や!!  芸人として、ここのリアクションを間違えるわけには絶っっっ対にいかない。  あゆむは視線を彷徨わせたまま、ゴクッと喉を鳴らす。 「な、なんやねん急に~!冗談やろ?」  場繋ぎの言葉を言いながら、頭の中をフル回転させてリアクションの方向を考える。  純粋に引っかかったふりをするべきか、怒ってみるべきか、はたまた感動を誘って泣いてみるべきか。 「……」  瞳の奥で忙しなく思考を巡らせるあゆむを、みのるはジッと見つめる。そして呆れたように息を吐くと、右の眉毛をガリガリと掻いた。 「…冗談やない。もうずっと前から考えてたけど、言い出せなかってん」 「ず、ずっと前っていつからぁ?」 「4年くらい前や」 「…4年前?」  リアクションの事ばかり考えていたあゆむは、人懐っこい目を見開いて、一旦4年前まで記憶を遡る。みのると話を合わせないと。そう必死に試行錯誤するあゆむの脳裏に、今よりもちょっと若い二人の姿が浮かぶ。  4年前はあゆむが39歳の時。あの時の二人と言えば――。 「あっ…」  懐かしい光景を思い出し、あゆむの顔が僅かに強張る。  4年前――それは、2人が唯一地上波で持っていた、地方の深夜のレギュラー番組が終了した時。最終回収録後、寂しそうにセットを見つめていたみのるの横顔が、鮮明に頭の中に描かれる。  解散ドッキリを想像し、ワクワクしていたあゆむの胸の中で、ざわっ…と気持ち悪い不安が広がった。  あゆむとみのるが出会ったのは、大手のお笑い事務所が育成する養成所だった。  “お見合い”という相方探しの授業で意気投合した2人は、お互い中学・高校とバスケ部に所属していた事を知り、バッシュルズというコンビ名にすることに決めた。  バッシュルズを結成してから、一年経った頃。  アイドル顔負けのキラキラ笑顔を持つあゆむと、20代とは思えぬ危なっかしい色気を持っていたみのるは、養成所卒業直後にも関わらず、すぐに若い女性たちを中心に人気が出た。たまたま養成所に取材にきていたテレビ局からインタビューを受けた事により、「あのイケメンコンビは何だ!?」と話題になったのだ。  一躍時の人として色んな番組に呼ばれるようになった2人は、あっという間に叶ったテレビデビューを飛び上がって喜んだ。しかし、いつまで経ってもネタではなく、ただただ外見を褒められるという状況が続いていく。芸人として評価してほしい2人の思いとは裏腹に、アイドル的人気はドンドン勢いを増していった。  劇場に出れば黄色い歓声が。テレビやラジオに出れば出待ちの列が。終いにはお笑いとは全く関係のないファッション雑誌に呼ばれることも増え、2人はとても困惑した。  こんなの、自分達が思い描いていた芸人じゃない。  これが芸人の仕事と言えるのか?こんな毎日を続ける意味があるのか?――と自問自答する日々の中、周りの芸人達からは「アイドルさんは忙しくて大変やな~」と馬鹿にされ、悔しくて悔しくて仕方なかった。  だけど、強烈な向かい風に心が折れそうになった、結成3年目を目前にした冬。バッシュルズのネタを見て「面白い」と言ってくれた人がいた。  それは、15年続く事になる2人の冠番組「駆けつけ!バッシュルズ」を作ってくれた、地方のテレビ局のプロデューサーだった。  “地元の人に・話題のスポットに・スクープに駆けつける!”をテーマに構成された番組は、2人にロケの仕方や食リポ、即興ミニコント、場を繋ぐテンポのいいトークを磨かせてくれた。おかげで、バッシュルズの面白さがじわじわと世間に伝わっていき、バラエティ番組に呼ばれる事が増えていった。視聴率は右肩上がりで伸びていき、首都圏や北海道でも番組が放送されるようになった。  側から見たら、とても順調に歩んでいた2人。  しかし、10年目に番組のピークを迎えてからは、段々と視聴率が下がっていき、放送局が減ってしまった。そして、番組終了と共に新しく始まったのは、次世代スターと名高い若手芸人の番組だった。  当時、あゆむは39歳。みのるは41歳。  若かりし頃の面影はあるものの、明らかに体型は中年太りをしていたし、白髪が出始め、顔には皺が増えていた。歳をとるにつれ、かつては歩けない程出待ちしてくれていた女性ファン達はどこかへ行ってしまった。  お笑いの賞レースでは、最終決戦までいけても優勝はできず。レギュラー番組はラジオ1本とBSに2本。人気がないわけじゃないけど、圧倒的な求心力はない。忙しくて出演できなかった芸人の穴埋めの穴埋めで番組に呼ばれる事ばかり。  気付けばデビュー当時の勢いが全くない、冴えない中堅芸人になってしまっていた。  番組の最終回収録後の打ち上げで。こんな状態なら、番組を打ち切られても仕方ない…と受け入れるあゆむに対して、みのるは何とも言えぬ苦しそうな表情で、帰っていくスタッフ達を見つめていた。  あの時、みのるが如何に番組を愛し、大切にしていたのかをあゆむは知った。  ――徳山、あの時期は明らかに覇気がなかったもんな…。  目に見えて落ち込んでいたのは数週間だけで、暫くしたらいつも通りの厳しいみのるに戻ったけど。  ああ、そう言えばあの時からかもしれない。みのるに何か言われても、言い返さなくなったのは。  切羽詰まった雰囲気を纏うみのるに強く言い返したら、1人でどこかへ行ってしまうのでは――そんな危うさがあったから、素直に頷くことにしたのだ。 「……」  視線を揺らし、黙って過去を振り返るあゆむを、みのるはジッと見つめる。  そして小さく喉を鳴らすと、冷静な声音と共に口を開いた。 「…俺らの番組が終わってから…どうやったらこの状況から、もっかいコンビで売れる事ができるんやろうってずっと考えてきた。…でも、もう無理や」 「!」 「バッシュルズは今日で解散する」  「じゃあな」と呟くと、みのるは白いテーブルに置いていた黒革のボストンバッグを取り、部屋から出て行こうとする。 「えっ!?なっ…ちょっ、待てって!!」  あゆむはハッと目を見開くと、ドアノブに手をかけたみのるの腕を慌てて掴んだ。ギュゥッ…と必死に漫才スーツを掴む指が、ドクドクと激しく脈打っているのが分かる。  何だ?どういう事だ?もしかして、本気なのか?本当に解散するつもりなのか?――と、一気に頭の中が混乱し始める。上手く感情を言葉にできないまま、戸惑った表情を向けるあゆむに、みのるは静かに溜め息を吐いた。 「冗談やない。ドッキリでもない」 「!!」 「俺は…お前とはもうコンビやりたないねん」  心底嫌そうに目を細め、突き放すように言うみのる。その瞬間、訳が分からずぐちゃぐちゃだったあゆむの胸中に、ポツッと怒りの火が灯った。 「……なんやねん、それ…」  震えるように零れ落ちた言葉。と同時に、あゆむの指にグッと力が入っていく。 「そんなん、急に言われて『はい、そうですか』って言える訳ないやろ…っ!」  グ、ググッ、と握り潰さんばかりの強さで腕を掴むあゆむに、みのるは「チッ!」と舌打ちすると、勢いよく手を振り払った。 「急にこんなこと言うて悪いとは思っとる!でもなぁ、さっきのライブで確信したんや!お前とはやってられへんって!」  吐き捨てるように声を荒げるみのる。その勢いにつられて、あゆむの怒りがカッと燃え上がる。 「はぁ!?何でや!47都道府県ツアーも箱満員にして回れて!大きな拍手ももらえて!この状況で何があかんねん!」  漫才やコントの時とも違う、腹の底から飛び出る大声。脚色のない怒声を出す自分に驚きつつも、あゆむは眉間に皺を寄せ、再びみのるの腕を掴もうとする。しかしみのるは「やめろや!」と叫ぶと、触れる寸前で指先を躱した。 「何が満員じゃ!どこもキャパ50くらいのちっさい箱やんけ!俺ら芸歴22年やで!?なのに50て…っ、そんなん埋めて喜ぶなんて、アホちゃう!?」 「!!」 「ちっさい箱」――みのるの言ったその言葉が、怒りで熱くなる体にグサッと突き刺さる。  本当は、あゆむも思っていた。  薄暗い狭い空間の中で漫才をしながら、もっと大きな劇場でもっともっとたくさんの人を笑顔にしたいなぁ、したかったなぁ…と、何度も思った。  だけど、これが今の自分達の実力。全国各地の劇場を満員にできたことは喜ぶべきことだし、何より悲観した言い方をしたら、来てくれたお客様達に失礼だ。  50代で急にブレイクした芸人もいる。自分達だって、また跳ねる時がくるかもしれない。  2人の可能性を絶対に諦めない――そんな意志の強さを感じるあゆむの目を、みのるは苛立たしげに見つめて、「そこが嫌やねん…」とボソッと呟く。 「は?」 「だから…お前のそういう現実見えてないところとか、夢見すぎなくせに腕を磨こうともせえへんとこが腹立つっちゅーねん…」  イライラをぶつけるように革靴の先で床を叩き続ける。面倒くさそうに舌打ちをするみのるにカチンときて、あゆむは「はぁぁああ!?」と顔を歪めた。 「ふざけんなよ!俺かてちゃんと勉強してるわ!」 「ほ~、勉強してんのにあんなに噛むんか?」 「!!」 「テンポもわっるいし、急な返しもうまくできひんし…勉強の仕方が悪いんとちゃう~?」 「なっ…!お前っ、」 「あ~~~違うかぁ!お前がどうしよ――もない馬鹿やから、勉強しても意味ないんかぁ!」  腕を組み、見下すように鼻で笑うみのる。 「なんやとコラァ!」  侮辱された。  その屈辱と悲しみで、動揺していたあゆむの表情が一瞬で怒りに変わった。  一番、自分の事を理解してくれている人だと思っていたのに。一番、理解して欲しい人なのに。こんな風に思われていたなんて…こんなに馬鹿にされるなんて、腹が立ってしょうがない。  ――好き勝手言いやがって…!  ブワッと湧き上がる憤りが、あゆむに拳を握らせ、みのるの頬に向かわせる。しかし、想いを頬にぶつける前に、みのるに手首を掴まれてしまう。  ギリッと悔しそうに鳴る奥歯。殺意さえ感じる様なヒリつく眼差しを、みのるは「フンッ」と鼻を鳴らして一蹴する。 「俺はな…4年前に番組が終わった時…お前が『しょうがない』みたいな雰囲気出してるのを見た瞬間、俺らはもう終わりやと思った」  昂る感情のまま肩で息をするあゆむを冷めた目で見ながら、みのるは続ける。 「地上波唯一の冠番組が終わっても、のほほんとしてるお前が信じられへんかった。悔しがる事もなく、現状に満足して、俺が言ったことにただ頷くだけのロボットみたいになって…」 「別に満足なんかしてへんわ!俺はただ俺らの力を…」 「今日の千秋楽!」 「!」 「最終日くらい、バチッと決めてくれって思ってたのに、噛んでもスベってもヘラヘラヘラヘラしやがって…っ!!」  みのるはグッと言葉を飲み込み、強く目を瞑る。冷静に淡々と伝えようと思うのに、長年溜め込んでいた不満がどんどん溢れ出ようとする。  何であの時こうしてくれなかった?何でそんな態度でいられる?何でもっと貪欲じゃないんだ?――そんな、今まで我慢してきた瞬間がとめどなく脳裏に浮かび、僅かな理性を搔き消していく。 「別にヘラヘラなんか」 「してるやろ!あんなん笑われてるだけのクセに、ウケた気になりやがって!」 「なっ…!?俺だってちゃんと笑わせてっ」 「うるせえ!」 「ぅおっ!?」  唾を飛ばしながら食ってかかるあゆむの胸ぐらを、みのるは強引に掴む。そして、勢いに負けて足を縺れさせるあゆむを壁際に押し付けた。ゴンッ!と鈍い音が出る。壁に頭を打ち、顔を歪めるあゆむの鼻先にみのるは鼻先を寄せて睨みつけた。 「ぃった…!」 「俺はなぁ!あんなん本当のお笑いなんて認めへん!俺はっ!こんな中途半端な芸人のままで居たくない!」 「っ、」 「俺は嫌や…絶対嫌や!もっと売れたんねん!こんなちっさい箱やなくて、もっとでっかい箱でお笑いやりたいねん!」 「!」 「もっと観客沸かしたいし、もっともっとテレビに出たいねん!何本もレギュラー番組持てるような!皆んなが誰でも知ってるような芸人になりたいねん!」  あゆむの襟を掴む手にグッと力が入る。執着を滲ませる狂気の眼差しと、切望と悲しみが混ざり合ったような鬼気迫る声に、あゆむは思わずたじろいだ。  ――こんな徳山、見たことない…。  お笑いに取り憑かれた、人のようで人ではないもの。まるで、執念の塊。みのるの悍ましい雰囲気に、あゆむの体がブルッと勝手に震えた。  呼吸をするのも躊躇う圧迫感の中、あゆむは振り絞るように声を出す。 「…それ、は…2人で叶えればええやん」  「2人で叶えようや」と、伝える声が微かに震える。  みのるの中ではもう、辞める選択肢しかないのだろうか。いや、例えそうだとしても、「はい、分かりました」とすぐに頷けるわけがない。だって、22年も一緒にやってきたのだ。お互いに合わない部分はたくさんある。それでも…人気がなくなっても辞めなかったのは、みのるが書くネタが好きだったから。一番近くでみのるが作る笑いを見られる事が嬉しかったし、隣に立てる自分が誇らしかったから。だから、ずっと続けてきたのだ。  みのると漫才している時が一番楽しい。他の誰でもなく、みのるだから楽しい。  辞めたくない。まだ2人で舞台に立ちたい――そう訴える揺れる瞳を、みのるは瞬きをして受け止める。  そして静かに深呼吸をすると、あゆむに言い聞かせるように口を開いた。 「…お互い目指してる場所も、熱量も違うのに…これ以上続けても意味ないやろ」 「……」 「たまたま結成してすぐに売れたから続けてきただけや。ただそれだけや。…売れてなかったら、きっとすぐ解散してたって、お前も思うやろ」 「そんな事ない!俺はちゃう!」  宥めるみのるに、あゆむは駄々っ子のように首を振る。その瞬間、あゆむを見つめる三白眼が僅かに瞠った。目尻から一筋の涙を流す――そんなあゆむの姿を見て、みのるはギュウッと胸の奥を絞られるような感覚になる。  ――こいつ、ほんまに俺とお笑いが…。  惰性でやっているのだと思っていたが、違うのか?でも、もう…と、葛藤が芽生えた瞬間、足元がぐにゃりと歪むような不快感を覚える。  ――このまま流されたらダメや…。今まで何度も注意してきたけどダメやったんやから、これ以上続けたって、変わるわけない…!  さっきのライブだって、明らかに席を埋めるために連れてこられた観客が居た。千秋楽なのに、だ。自分達は所詮、そんなレベルなのだ。ここから成功する未来なんて、自分には描けない。  みのるは小皺の目立つ眉間に皺を寄せると「俺はお前の書くネタが好きやから…」と必死に告げるあゆむの言葉を「すまん」と言って遮った。 「すまん、堂平…もう俺、頑張れへんねん」  足元から絡みついてくる蔦のような未練が、「次は分かってくれるかもよ?」と、みのるをこの場に留めようとしてくる。だけど、こんなものに屈しちゃいけない。昨日今日の悩みじゃないのだ。ずっとずっと悩んできたのだ。  捨てられた犬のような顔で泣き続けるあゆむの胸ぐらから、みのるはそっと手を離す。 「本当にすまん…今までありがとな」  決心が揺らいでしまいそうな悲痛な視線に耐えきれず、みのるは体を翻す。ボストンバッグを手に取り、静かに楽屋を出ていく。振り返る事なく去ってしまった背中と、少し引っかかってからガチャンと音を立てて閉まった扉を、あゆむはただただ泣きながら見つめる。  本当は「待ってくれ」と言って止めたかった。  だけど、みのるが言った    「頑張れへん」  その言葉がショックすぎて、全く体が動かない。  ――…俺は、ずっと徳山に無理させてたんか?…やりたくもないのに、ずっとコンビを…。  そんな考えが頭の中をグルグルと巡り、涙がブワッと溢れ出す。 「う、っ、うぅ」  ――信じられへん。信じたくない。  だって、2人で漫才している時、あんなに楽しそうだったじゃないか。コントだってそうだ。めちゃくちゃウケて地響きのような観客の笑い声を聞けた時、舞台袖で2人でハイタッチしたじゃないか。  あれが惰性の延長でできた瞬間だなんて、絶対に信じたくない。 「ひぐっ、うぁっ」  涙も鼻水も垂れ流しながら、みっともなく泣き続ける。みのるが去ってから5分経ち、10分が経ち。いつの間にかしゃがみこみ、立てた膝に顔を伏せて泣くあゆむに声をかけたのは、廊下でずっと2人の話を聞いていた現場マネージャーだった。 「堂平さん、もう出なきゃいけない時間なので…」  気まずそうに告げるマネージャーは、半年前に担当に付いたばかりの26歳の若手女性社員――大山香穂だ。トレードマークのポニーテールを揺らしながら床に膝をついた彼女は、魚のようなギョロっとした大きな目を悲し気に伏せている。 「お、大山ぁっ、とく、徳山がっ、コンビ解散するってっ」  瞼をパンパンに腫らしたあゆむが、しゃくりをあげながら香穂に伝える。すると、香穂は静かに「はい…」と頷く。既に心の整理をつけたような。割り切った香穂の表情を見て、あゆむは垂れてくる鼻水を啜るのをやめた。 「…大山…もしかして、徳山が辞めるの知ってたん?」  重たい瞼をこじ開けて、あゆむは呆然と香穂を見つめる。その眼差しから逃れるように視線を彷徨わせると、香穂は躊躇いながらも小さく頷いた。 「なんや、それ…」  ポツリと溢れた声が、怒りで微かに震える。香穂はハッとすると、慌ててあゆむを見つめた。 「徳山さんから相談はされてました!でも、まだ決めかねてるみたいだったのでっ」 「何でだよ!何で俺だけ知らないんだよ!」 「堂平さん、すみません!徳山さんにまだ言わないでくれって言われて」 「俺たちってチームじゃねぇのかよ!俺はみんなの事、家族みたいに…っ」  と言いかけると、あゆむは顔をくしゃりと歪め、勢いよく立ち上がった。 「堂平さん!」  テーブルの上から黒いリュックを乱暴に掴むと、あゆむはドスドスと足音をたてて楽屋を出た。  すれ違う劇場スタッフ達が、あゆむの泣き腫らした顔を見てギョッとする。しかし、突き刺さる視線を気にせず、薄暗く狭い通路を足早に歩くあゆむは、そのまま外に出ようとして、ピタリと足を止めた。  中と外を隔てるガラス扉一枚先の世界に、強いシャワーが降り注いでいる。 「……」  スコールのように地面を叩く強烈な雨音に、早くこの場を去りたいと思っていたあゆむも流石に怯んでしまう。  ――どうしよ…。  凄い雨だ。傘なんて持ってきていない。いや、傘があったとしても、この中を帰るのは…と狼狽えていると、リュックの脇のポケットに入れていたスマートフォンがブーブーと鳴り出した。  今は誰とも連絡を取りたくない。  そう思うのに、何故かひっきりなしに通知が止まらない。 「…んやねんクソッ!」  苛立たし気に舌打ちをすると、あゆむはポケットに手を伸ばし、スマートフォンを取り出した。  画面にポンポンと通知されていく友人・知人達からのメッセージ。そこには「大丈夫か?」や「何があったん?」と書かれている。 「?」  暫し眉間に皺を寄せ、まさか…と目を見開いたあゆむは、急いでパスワードをタップすると、SNSアプリを開いた。みのるのアカウントを探し、タップする。ページの一番上に載っている最新の投稿メッセージ。長々と書かれた文章の中には、今回のツアーが無事終えられた事への感謝と―― 「…本日をもって…バッシュルズは、解散…します。もう、十分…コンビでできることはやり切りました…」  “22年走り続けてきたので、少しだけ充電期間に入りたいと思います”“これからも進化し続ける徳山にご期待ください”という締めくくりの言葉。そして、タバコを咥え、意味あり気な表情で斜め上を見る横顔の写真が添えられている。 「…キッショ…」  過去を美化した文章とアーティスト気取りな言い回し。そして、自分が俳優だと思ってるのか?とツッコみたくなるような、勘違いも甚だしいカッコつけた写真。  ――マジでなんなん?コイツ…。  勝手に解散を決めて、勝手に発表して、勝手に1人だけ未来を見て。  こっちはこんなに感情がぐちゃぐちゃで、現実を受け止めたくても受け止め切れていないでいるのに。何で、1人だけ先に進んでいるんだろう。  ――ああ、めっちゃ腹立ってきた…!  さっきまで、悲しくて辛くて仕方なかったのに。自分勝手すぎるみのるの行動に、腹の底から沸々と怒りが湧き上がってくる。  あゆむはスマートフォンをリュックの中にしまうと、強風でガタガタと揺れる扉を力いっぱい押して、大荒れの豪雨の中に飛び入った。  その瞬間、ザアアアア…と雨が勢い良く頭の上から降り注ぐ。  自分しかこの世界にいないような、周りの音全てを遮る雨音。たかが雨粒なのに、当たるだけでも地肌が痛い。呼吸をするのも一苦労。目を開けるのも大変だ。でも、今はこれが丁度いい。 「うあ――――――!!」  体に広がる澱んだ靄を吐き出すように、全力で哮る。近くに通行人が居たってかまわない。どうせ雨に気を取られているし、この雨音の中じゃ大して聴こえていないだろう。  あゆむは下を向いて大きく深呼吸をすると、目を瞑って叫び出す。 「俺かてお前のナルシストな所が大っ嫌いやわ!」 「ダラダラダラダラおんっっなじ説教ばっかりしやがってよぉ!お前は姑か!」 「気ぃ強そうに振る舞うくせに、ちっさい事でネチネチ文句言うなんて、器の小さい奴やなぁ!」  湯水のように溢れ出す不満を、嘲笑いながら叫び続ける。 しかし、少しは心がスッキリするかと思ったのに、どんどん虚しさで埋まっていく。 「……アホらし」  雨のせいなのか、涙のせいなのか。ぼやける視界で足元を見つめて、あゆむはポツリと呟く。叫んだところで、時間は巻き戻らない。そんな分かり切った事に傷つく自分が、とても惨めで滑稽だ。  あゆむは力なく溜息を吐くと、のそのそと土砂降りの街を歩き始めた。  いつもは賑やかな新宿が、別な世界線に来てしまったのかと思う程、人が居なくなっている。  雨粒がネオンの光で輝く幻想的な空間を、あゆむは足元を見ながら歩き続ける。このペースで高円寺にある自宅まで歩いたら、2時間はかかるだろう。でも、もう良い。どうなっても良い。風邪をひいても、このまま事故にあっても。みのるとお笑いができなくなった自分なんて、どうなっても良いんだ。  自暴自棄になるあゆむの思考に同調するように、雨音がさらに強くなっていく――と、思ったら、急に右耳だけが何も聴こえなくなった。 「?」  水に潜って聴こえにくくなった…等ではない、完全なる静寂。  もしかして、急激なストレスのせいか?と、さして慌てる様子もなく顔を上げる。すると、視界の右端に人影がある事に気がついた。 「ヒェッ!?」  ビクッ!と飛び跳ねたあゆむは、恐る恐る顔を右に向ける。古びたビルとビルの間。身を縮こまらせないと入れないくらい細い真っ暗な路地に、真っ黒なフードを被った人が真っ黒な布を敷いた小さなテーブルに手を置き座っている。傘を差していないのにも関わらず、微動だにしないその人を見ながら、あゆむは跳ねる鼓動に手を当てた。  ――びっ、くりしたぁ…。幽霊かと思った…。  ホッと胸を撫で下ろしながら、少し体を屈め、フードの中を覗いてみる。  ――えっ…お婆さん!?  鼻から下しか見えないが、こけた頬に目立つほうれい線…そして、口元に深い縦皺が何本も刻まれているのが分かる。  不躾だとは思いながらも、まじまじと老婆の姿を見る。この格好はあれだ…よく夜の路上に現れる、占い師みたいだ。  ――こんな大雨なのに、こんな場所で…?  急に降り出した雨が酷すぎて、身動きが取れなくなってしまったのだろうか。  正直、見なかった事にして通り過ぎてしまいたいが…雨に打たれるご老人をこのまま放っておくのは、良心が痛む。  ――本当は、人に構ってる余裕なんてないけど…。  あゆむは「はぁ…」と肩を落とすと、重たい革靴を持ち上げ、老婆の元へ歩いていく。 「あの~…」  膝に手をつき、視線を合わせるように前屈みになる。「大丈夫ですか」と声をかけようとして、あゆむは異変に気づいた。 「え…」  ――このお婆さん…全然濡れてないやん…。  ビルの隙間に居たとしても、屋根がある訳ではないのに。老婆のフードにもテーブルにも、雨一粒の染みもできていない。それどころか、老婆の周りに薄い膜があるかのように、吹き付ける雨が老婆に当たることなく弾かれている。  ――えっ、なっ、なにこれ?  あゆむは前屈みで固まったまま、目だけを忙しなく動かす。どういうこと?えっ、お婆さん防水仕様なん?と狼狽えていると、ずっと微動だにしなかった老婆が僅かに顔を上げた。 「うおっ!!」  動いた!と驚き、咄嗟に仰け反る。お化け屋敷で、急に蝋人形が動いた時の、あの恐怖。あゆむはドギマギしながら老婆を凝視していると、老婆はフードの下から少しだけ覗く円な瞳で、あゆむをジッと見つめた。お互いの間に沈黙が流れる。辺りが暗いので、老婆がどんな表情をしているのかはよく分からない。  ――ど、どうしよ…。  何故か、一触即発みたいな雰囲気が流れている…気がする。 仰け反ったまま何もできずにいるあゆむを観察するように見ながら、老婆は口をもごもごと動かした。 「おぬし…」 「!?は、はいっ!?」  嗄れた低い声が、何も聞こえなかったはずの右耳の鼓膜を震わせる。ビックリして大騒ぎしたいところだが、老婆の声が、しつけが厳しかった祖母の雰囲気にとても似ていて、自然と背筋がピン!と伸びてしまう。ピシッと気をつけをし、やたらと脳に響く不思議な声に耳を傾ける。すると、老婆はテーブルの下から何かを取り出し、あゆむの目の前にコトッと置いた。 「これを持っていきなさい」  テーブルの上に置かれた、闇夜の中で銀色の輝きを放つ物。それは―― 「ランプ…?」  御伽話に出てくる、魔神が入ったランプ…もしくは、インドカレー屋さんで出てくる、カレーが入ったグレイビーボートにしか見えない。何でランプ?と思いながらも、細やかなアジアンの装飾が施された姿がやたらと美しく思えて、あゆむの手が勝手にランプへ伸びていく。自分のお給料じゃ到底買えなさそうな、煌びやかなランプを落とさないよう、優しく手に取る。  ――意外とずっしりしてるんやなぁ…。  もしかしたら、本物の銀でできているのかもしれない。  「ほぁ~…」と感嘆の息を吐き、ランプを目の前に近づける。  何故だろう。何故か分からないけど、物凄くこれが欲しい。  目を輝かせ、ゴクリと唾を飲み込んだあゆむは値段を聞こうと老婆へ顔を向ける。しかし―― 「…へっ!?」  さっきまで居たはずの老婆が、居なくなっている。  ――ど、どういう事や…!?  老婆もテーブルも、まるで最初からなかったかのように消えている。  あゆむは「えっ、あっ、んん!?」と慌てふためきながら周りを見る。だけど、どこにも居ない。座っていた路地の奥にもいない。 「も、もしかして、本物の幽霊やったんじゃ…!」  いきなり現れていきなり消えるなんて、そうとしか考えられない。動揺で震える手を口元に当てる。その瞬間、右耳の傍で「ああ、伝えるのを忘れとった…」と老婆の声が聞こえた。 「!?!?」  あゆむは咄嗟に右耳を抑えて、キョロキョロと辺りを見回す。だが、やはり誰も居ない。  ――おいおいおい!!まじでヤバいやつやんこれ!!  背筋にゾワゾワッと悪寒が走る。得体の知れない恐怖で半泣きになっていると、また耳元で声が聞こえ初める。 「叶えたい願いを唱えながら、ランプの蓋を3回撫でるのじゃ。…そうしたら、お主の願いは叶うだろう」  水面に広がる波紋のように揺蕩う声音が、鼓膜から脳内へと流れ込んでくる。勝手に脳みそを弄られているような、気持ち悪い感覚。あまりの恐怖に、全身の毛が逆立つのが分かる程、ブワッと鳥肌が立った。 「あっ、ひっ、ひぃっ…!」  やばい。怖い。怖すぎる。意味が分からない。  あゆむは口をパクつかせたまま、ギュッとランプを抱える。そして、気を抜いたらへたり込んでしまいそうな足に何とか力を入れると、「うわ――――!!」と叫びながら全力で走りだした。  ――なんやねん、なんやねん、なんやねん…!  何なんだ、この状況。  今まで幽霊なんて一度も見た事ない。ホラー番組のロケに行った時も、みのるや周りのスタッフが「何か聞こえた!」「何か光った!」とキャアキャア騒ぐ中、あゆむだけキョトンとしていたくらいだ。  心霊現象って、こんなに怖いのか。 「はぁっ、ひぃっ、へぇっ」  通り慣れた道とはいえ、大雨で視界不良の中を走るのはとてもきつい。乾いた喉は水を求めて痛み、目には何度も雨が入り込む。  途中で足を縺れさせたり、力尽きて歩いたり、また走ったり。プールを着衣のまま何往復もするような、とてつもない疲労感に襲われても、あゆむはこの不気味なランプを手放さなかった。  それは、芸人としての直感。  怖いけど。持っていたら呪われそうだけど。正直捨てたいけど。  今、自分はとんでもない体験をしている。芸人たちがトークのネタを探す為にいくら街に繰り出したって手にできないような、物凄いエピソードを自分は手に入れた。この、堂平あゆむの人生史上特大級のネタを、絶対に手放してはいけない――そう、自分の勘が言っている。  ラジオのトークのネタにしたいな。どうやって話したら面白くなるかな。一回家で1人で喋ってみようかな。  そんな想像をすればする程、恐怖よりもワクワク心が芽生えていく。  夢中で街を駆けるあゆむ。足取りが軽快になるにつれ、いつの間にか雨は小降りになり、綺麗な月が顔を出していた。   「はぁ…はぁ…」  高円寺にある築33年のグレーの9階建てのマンション。1時間30分かけ、漸く我が家に辿り着いたあゆむは、入り口の左側にあるオートロックを急いで開けると、徐々に開いていく扉と壁の隙間に、もどかしそうに体を滑り込ませた。  ポタポタと沢山の丸い染みを地面に描きながら、薄暗い階段を登り、2階へ上がる。そして、登った先にある真っ黒な扉に向かって歩いていくと、ビッチャビチャのリュックの中から、チワワのキーホルダーが付いた家の鍵を取り出した。   「うぅわ…」  濡れた鍵が蛍光灯の光を浴びて、艶やかに光っている。バッグの中まで雨でビッチャビチャになってしまったようだ。  最悪やん…スマホ死んだかもしれん…と心の中で悪態を吐きながら、逸る手つきで鍵を回す。  住み始めて15年になる1LDKの重たい扉を開くと、左手にある下駄箱の上に鍵を置き、雨を含みキツくなってしまった革靴を強引に脱いだ。靴擦れして痛む踵に眉を顰めながら、雨と泥でベチョベチョの靴下で廊下を歩く。お風呂場へ直行したあゆむは、小さな出窓にソッとランプを置くと、スーツを脱ぎ、どんどん浴槽に放り込んでいった。  サアァァァ…と降り注ぐシャワーは、先程の大雨と違って繊細で優しい。  雨臭い頭をシャンプーでガシガシと洗いながらも、あゆむの目は真剣にランプを見つめていた。  「だから…お前のそういう現実見えてないところとか、夢見すぎなくせに腕を磨こうともせえへんところが腹立つっちゅーねん…」  「テンポもわっるいし、急な返しもうまくできひんし…勉強の仕方が悪いんとちゃう~?」  「あ~~~違うかぁ!お前がどうしよ――もない馬鹿やから、勉強しても意味ないんかぁ!」  頭の中で、みのるの罵倒が繰り返される。あの時の、心底馬鹿にしたようなみのるの顔。軽蔑するような、見下したような腹が立つ表情を思い出し、あゆむはギュッと眉間に皺を寄せた。  ――クソッ…!絶対、おもろい話にしてやる!  みのるに言われっぱなしのままで居たくない。世間からも「解散して終わったな」なんて言われたくない。このまま終わらない。絶対、終わってやるものか。  フン!と鼻息を荒げながら、シャワーの水圧を一気に強める。ベッタリとへばりつく汚れを綺麗さっぱり流したあゆむは、ランプを大切そうに抱えると、浴室の扉を開け、敷きっぱなしのヘタレたバスマットの上に仁王立ちした。タオルラックに昨日からかけられているブラウンのバスタオルを掴み、適当に体を拭く。それをポイッとドラム式の洗濯機へ投げ入れると、全裸のままリビングを通り過ぎ、寝室に向かった。白い壁に3列並べられたプラスチックの衣装棚から新しいボクサーパンツを取りだして履き、これまた敷きっぱなしの布団の上に投げられている黒のヨレたスウェットを着る。やっと一息つける状態が整ったあゆむは、布団の上に優しくランプを置くと、犬柄のカラフルなラグの上で胡座をかき、腕を組んでランプを見つめた。  「……」  ムッと口を一文字に結び、今日の出来事を整理してみる。特大面白エピソード爆誕への脳内会議スタートだ。  ――そや、そもそも今日はツアーの千秋楽やったんや。  無事満員御礼でツアーを回れて…と考え始めた途端、「何が満員じゃ!どこもキャパ50くらいのちっさい箱やんけ!」とみのるに言われた言葉が頭に浮かぶ。あゆむは「う゛っ!」と頬を引き攣らせると、ブンブンと頭を振った。  ――あかんあかん!余計なことは考えないようにせえへんと!  気を抜くと、あっという間に怒りに飲み込まれてしまいそうだ。雑念をしっかり振り払って、もう一度冷静に思い出していく。  今日はツアーの最終日だった。そして、楽屋に戻ったら22年連れ添った相方から解散を告げられた。しかも、前から解散したいと思っていた上に、それを知らなかったのは自分だけだった。…はぁ、思い出したらやっぱり腹が立ってくる。まぁ…今は一旦、置いておこう。ふざけんじゃねぇと思って劇場から帰ろうと思ったら、外が信じられないくらいの土砂降りで。それに加えて、みのるが勝手にクソキモ解散ツイートをするから、そりゃあもう腸が煮えくり返って仕方なくて…って、あぁ、ダメだ。個人的な感情が入りすぎて、思考が脱線してしまう。    ――……こんなんやから、みのるに「どうしようもないバカ」って言われるんやろうなぁ…。  あゆむは「はぁぁぁぁ~…」と深いため息を吐くと、濡れてトイプードルみたいになった髪の毛をわしゃわしゃと掻き、ゴロンと床に寝転んだ。  不貞腐れた顔で体を横向きにする。その瞬間、布団の上のランプが視界に入り、すぐさまシャキッとした表情に切り替えた。 「あかん…俺は絶対にこのチャンスをモノにするんや」  心が折れそうになる自分に言い聞かせるように、あゆむは口にする。  所帯染みた布団には似つかわしくない、美しいランプ。その輝きに手を伸ばし、あゆむは細やかな装飾を指でなぞった。 「そういや、願いが叶うって言ってたなぁ…」  パニック状態だったので、ちゃんと聞き取れていたかは不明だが。確か、老婆がそう言っていた気がする。あの人――いや、あの幽霊は、一体何だったのだろう。ランプだけ残して消えるなんて、何がしたかったのだろう。 「願い事、かぁ…」  ランプを見つめるあゆむの目が、眠気に誘われ、とろん…と半眼になる。体を横にしたことで張り詰めていた気持ちが途切れ、一気に疲れが襲いかかってきたようだ。  あゆむはぼんやりとランプを見ながら、老婆の言葉を思い出す。 「ふた、を…3、回…」  撫でて、願い事を言うと叶うと言っていた。  今にも閉じそうな目を何とか瞬かせて、あゆむは蓋を3回撫でてみる。 「……もう、一度…2人で、漫才…やりたい…」  脳裏に浮かぶ、みのるの顔。  別に、本当に願いが叶うと思っているわけではないけど、願わずにはいられない。だって、あまりにも急すぎたから。せめて、もう一度。気持ちの整理をつける為にも、2人で漫才がしたい。  ジワッ…と涙が浮かんでくる。  悲しい。いや、負けない。こんな所で終わらない。でも、ずっと2人が良かった。終わり方が一方的すぎる。これは逆にチャンスだ。やっぱり寂しい。  いろんな感情でぐちゃぐちゃになりながら、あゆむは静かに目を閉じる。  ――めっちゃ疲れた…。  心も、体も。今日は人生で一番酷使した。  あゆむは意識を引っ張られるような睡魔に促されるまま、静かに深呼吸をする。目尻からツ…と一筋の涙が流れた頃。吐き出された息は寝息に変わり、あゆむは深い眠りについた。  あゆむが目を覚ましたのは、晴れやかな明るい朝日が瞼を刺激した時だった。 「ん~~~…」  卍の体勢で寝ていたあゆむは、日光から逃れる為に寝返りを打とうとする――が。 「!?い゛っ!」  ビギッ!と体中の関節に電流のような痛みが走る。悲しいかな。若い頃は床で寝ても「イテテ…」くらいで済んだのに、アラフォーを過ぎると、全身が「こんな所で寝られたら、動けるわけないよ!」と悲鳴をあげてしまう。  ――はぁ…昔は「関西のプリンス」なんて持ち上げられたけど…今ではただのオッサンや…。  思わず溢れる呻き声は、単純に痛いからなのか、はたまた、悲哀からなのか。 「はぁ…」  あゆむは落胆の息を吐くと、眉間に皺を寄せ、寝違えたように痛い首を動かし始めた。 「イテテ…」  朝日が眩しいという事は、6時を過ぎているはず。今の時間を確認しようと、歯を食いしばりながら何とか顔を横にする。窓の横に付けられた丸い壁掛け時計を見るつもりだったあゆむ。しかし、苦悶の表情で窓の方を見たあゆむは、視界に飛び込んできた光景に、ギョッと目を見開いた。 「う、うわああああああ!!!」  慌てて飛び起きたあゆむは、体の痛みもお構いなしに壁際まで後退りする。 「えっ、えっ……えぇっ?」  ピタリと壁に背をつけて、化け物を見るような目で口をアワアワとさせるあゆむ。激しく動揺する視線の先。そこには、昨夜受け取ったランプ――ではなく、40代くらいの見知らぬ男性がスヤスヤと眠っていた。  ――おっ、俺、昨日ちゃんと鍵閉めたよな!?  もしかして、窓から入ってきたのか!?と窓を見るも、鍵はちゃんと閉まっている。何故だ?何故この不審者は、侵入した後に帰らず、ご丁寧に鍵を閉めて寝ているんだ?  あゆむは戸惑う顔を両手で挟んで、色んな可能性を考えてみる。泥棒目的で入ったが、部屋を物色しているうちに疲れて寝てしまったのかもしれない。もしくは、玄関の鍵が開いていて、自分の家だと勘違いした住人が入ってしまったのかもしれない。  「えぇ?…おぉん?」と気の抜けた声を出しながら、あゆむは混乱した視線を男に向ける。心臓をバクバクさせたまま、くりくりおめめを細めてみる。すると、ある説が頭に浮かんだ。    ――はっ!…この人、実はマジシャンなんやないか!?  瞬間移動に失敗した…または、寝ている間に瞬間移動をしてしまったのではないだろうか。  一見、突拍子もないあゆむの説だが、この説が浮かんだのには理由があった。それは、寝ている男の服装。それが、あまりにも奇抜だったのだ。  ――こんな派手な見た目、絶対そうやん!  パッと見は自分と同じ日本人。しかし、朝日で透ける綺麗なブロンドを韓流アイドルのようにセンターパートにしたマッシュ頭。意志が強そうな、キリッとした眉。スッと通った鼻筋。控えめな口。あまり身長は高くなさそうだが、スラッと伸びた手足。そして、身を包む煌びやかな服――そう、この服が、まるで御伽話に出てくる王子様が着るような、襟が高く、肩や胸元に金色のモサモサの糸があしらわれた真っ白なコスチュームだったので、あゆむはマジシャンかと思ったのだ。  とは言え、普通、マジックにはタネがある訳で。  準備もしていないのに、知らない人の家に瞬間移動できる訳が無いのだが、大混乱中のあゆむはそこまでの考えに至らない。  ――え、まじでどうすればええん?  あゆむは口元に手を当てて、神妙な顔で男を見つめる。  不審者には変わりないので、警察に電話した方が良いと思うのだが…本当に瞬間移動のせいだったら、警察を呼んだら可哀想だよな…と、本気で考える。 「……」  四つん這いで近寄り、そろっと男の顔を窺い見る。芸人…特にピン芸人には変わった格好をする人が多いから、こういう衣装は見慣れているけれど。  ――いやぁ、俺と同い年くらいなのに、この格好…いっったいオッサンやなぁ~…。 芸人たちが着る衣装よりは、ツルツルした上質な生地を使っているような気もするが…それにしても、こんな昭和のコントで着ていたようなコテコテなデザインではなくて、もう少しマシなやつにすれば良いのに…なんて小言を心の中で呟きながら、あゆむはジロジロと男を見る。上から、横から、斜めから。気持ち良さそうに眠り続ける男を観察していたあゆむは、「あっ」と言って眉毛を上げた。  ――そう言えば…ランプ、どこやろ。  布団の上にあったはずなのに、枕元にも男の周りにもない。 「えっ…あれっ?」  あゆむは男と壁の隙間を覗いてみたり、這いつくばって床の上を探してみる。だけど、どこにも見当たらない。  ――ちょっ、何で何で何で!?  「あれぇ?」「えぇ?」と言いながら、ドタバタと音を立てて部屋を探し回る。折角手に入れた最高のネタなのに。無くなったり壊れたりしていたら、堪ったもんじゃない。頭をぐしゃぐしゃに搔きながら、「やばいやばいやばい…」と呟いて部屋をグルグルと歩く。すると、眠っていた男の眉間にギュッと皺が寄った。 「うぅ…」 「!!」  掠れた声に、あゆむはピタリと動きを止める。  ――やばい…警察呼ぶ前に起きてまう…!  もう一回寝てくれ!と祈りながら、物音を立てないように静かにしゃがむ。が、男はピクピクと瞼を震わせると、凛々しい二重の目を静かに開けた。  ――ああ!マズイ!起きてもうた!  悲鳴を上げたい気持ちを抑えて、あゆむは息を顰める。顔を手で隠し、指の隙間らから男の様子を覗くあゆむ。ドッドッドッと激しく鼓動が騒ぐ中、男はぼんやりと天井を見つめる。そして、穏やかな表情を段々と険しいものに変えていくと、床に肘をつき、勢いよく体を起こした。 「どっ、どこだ!?ここは!」 「うおっ!」  まるでミュージカルでもしているかのような。部屋がビリビリと振動するような通った声に、あゆむはビクッと体を震わせる。すると、あゆむに気づいた男の表情がさらに険しくなった。 「何だ!?貴様は!」 「は?きさ…?」 「何故、貴様のような人間がここに居るのだ!?」 「……」 「答えろ!無礼者!」 「ぶ、……」  さながら汚物を見るような眼差しで、男はあゆむを睨み付ける。初対面にしては非常識すぎる視線を全身に向けられ、あゆむの騒いでいた心臓がスッ…と落ち着く。  ――いや、「何故ここに居るのか」って…こっちのセリフなんやけど。  勝手に部屋に現れたのはそっちなのに。何故、自分がこんなに気持ちの良くない態度を取られなければならないのだろう。それに、男が当たり前のように口にする「貴様」という言葉。何故、初対面にも関わらず、そんな呼び方をされなければいけないのか。  思わず「ああん!?」と食って掛かってしまいそうな衝動を堪えて、あゆむは「ふ~…」と息を吐く。そして、しゃがんでいた体勢から胡座に変えると、あえてニコッと作り笑いをした。 「あのぉ~、ここ俺んちなんでぇ…どちらかと言うと、あなたがここに居る方が謎なんですが」  「もしかして、泥棒ですか?」とジャブを打ってやろうとした瞬間、男が「何っ!?」と目を丸くした。咄嗟に口元に手を当てた男は、驚愕の表情で部屋をキョロキョロと見渡し始める。  ――この反応…やっぱりこいつ、不審者だったんか!?  明らかに男は狼狽えまくっている。その挙動不審な様子を見て、あゆむの顔が強張った。 男は任務失敗を、相当焦っているように見える。だとしたら、次はどうなる?逃げようとするだろうか。はたまた、殴りかかってくるだろうか。  あゆむはゴクリと喉を鳴らし、男の一挙手一投足を見つめる。すると、忙しなく彷徨っていた男の視線とあゆむの視線が重なった。男は数秒躊躇って、意を決したように口を開く。 「…貴様が…ここに住んでいると言うのか…?」 「…そうやけど?」  それが何か?と片眉を上げて問うあゆむ。  何が起こっても対処できるように、自然と拳に力が入る。男は「信じられない…」と息を呑むと、バッ!と勢いよく両手を広げた。 「うおっ!ビックリした!」 「こ、こんな古びた狭い部屋…ワソーワソーの部屋より酷いじゃないかっ!!」 「ワ…なんて?」  愛する人との別れのように、大袈裟に悲しみを表現する男を見て、あゆむは眉間に皺を寄せる。  ――今、「ワソーワソー」って言うた?えっ…「ワソーワソー」て…なんや?  瞬きを繰り替えし、頭上にクエスチョンマークを浮かべるあゆむに、男はもどかしそうに辺りを見回す。そして、ウォールシェルフに飾ってある置物を見つけると、必死に人差し指で指した。 「あれだ、あれ!貴様も知っているだろう!」 「いや、ワソーワソーなんて聞いたことも……ん!?犬ぅ…?」  男の指の先を辿ったあゆむは、その指がゴールデンレトリバーの置物を指していることに気づく。昔、ファンの子からプレゼントされた、リアルで可愛い陶器の置物だ。 「あれはどう見ても犬やろ!あ、もしかしてゴールデンレトリバーの別称が『ワソーワソー』?…いや、んな訳あるかい!」  ツッコんで、首を傾げて、またツッコむ。「ワソーワソー」に翻弄されすぎて、感情が大忙しだ。あゆむはムッ…と口を尖らせる。しかし、「あっ!」と言って手を叩くと、動揺している男に掌を向けた。 「もしかして、外国の方ですか?」  自分が「ワソーワソー」という言葉を知らないだけで、どこかの国では犬のことをそう呼ぶのかもしれない――と、あゆむは思ったのだが。男は思いっきり顔を顰めると、膝の上をドン!と拳で叩いた。 「無礼者!我が国民でありながら、私が誰だかわからぬと言うのか!」 「…へっ?」  まるでこの国の――日本の王だと言うかのような口ぶりに、あゆむはポカンと口を開く。全身から怒りを放つ男と、間抜けな顔をするあゆむ。二人が纏う真逆の空気が、混ざる事なく部屋に流れている。  ――こいつ、一体何者なんや…?  泥棒だと思っていたが、あの戸惑いっぷり…何故ここに居るのか、本当に分かっていなさそうに見えた。それに、やたらと喋り方が演劇調だし、聞いた事もない単語を当たり前のように話してくるし、「我が国民」とか言ってるし。  何なんだ?どこからやってきたんだ?――そんな疑問で頭を埋め尽くしているあゆむを、男は目を見開いて見つめる。 「なっ、何故分からぬのだ…私はこの国の王、パッシ・リュミエンプール101世であるぞ!?」 「…この国の王?ひゃくいっせい…?」 「!?…もしかして、本当に知らぬのか…?」  腕を組み、怪訝な顔をするあゆむにショックを受け、男――リュミエンプールは両手で目を覆って項垂れる。  自称「王様」の話なんて嘘くさい…と思うものの、この世の終わりのように落ち込む姿を目にして、あゆむも動揺し始める。  正直、まだ泥棒の線もあると思っている。夜中に侵入したものの、何らかの理由で寝てしまい、家主に見つかったので変人のフリをしている可能性も、少なからずあると思う。  ――でもなぁ…嘘ついてるようには見えへんのよなぁ…。  仮に、本当にどこかの国の王だとして。こんなに流暢に日本語を喋れる国なんて、あるのだろうか。リュミエンプールは髪こそ綺麗なブロンドだが、顔立ちは完全にアジア寄り。日本語が公用語のアジアの国なんてあるのか?と首を傾げつつ、あゆむは口を開く。 「あのぉ…」 「…何だ?」 「どこの国の王様…?なんですか?」 「!?なっ…!」    あゆむの質問に、「愚問だろう!」と怒りを垣間見せるが、あゆむが自分を知らないことを思い出し、力なく肩を沈ませる。 「私は…グリビーン国の王だ」 「え?グリーンピース?」 「違う!グリビーンだ!」  キョトンとするあゆむに、リュミエンプールは声に怒気を含ませる。あゆむの言う「グリーンピース」が何かは分からないけど、茶化された気がして。しかし、あゆむは至って真剣。腕を組み、指先で唇をつまみながら目を細める。  ――グリビーンなんて国、あったか…?  10年くらい前に、とある番組で「誰が一番早く世界の国名を全部覚えられるか選手権」という企画をやった。国名を動きや食べ物に例えて覚えたので、「グリーンピース」に似た名前なら、記憶に残っていると思うのだが。  ――「聞いたことがない国」「急に現れた王様」か…。なんや、御伽話みたいやな…。  と考えて、頭の中に昨日の老婆が浮かぶ。  そう言えばあの出会いも、恐怖体験も、見方を変えれば御伽話のようだ。  ――あれ…俺、そういえば昨日の夜…ランプに何願ったっけ?  あゆむはムムム…とアヒルのように唇を突き出して、さらに瞳を細める。  確か…眠くて眠くて仕方なくて、意識が朦朧とする中、ランプを3回撫でて願ったのは――。 「……あっ」  細めていた目がパッと開く。  あの時確か、「もう一度2人で漫才がしたい」と口にした。  ――えっ…だから、この人が出てき、た…?  自分が願ったから、漫才をする為にリュミエンプールが現れた――そんな仮説が頭に浮かび、「いやいやいや…」と頭を振る。急に変な緊張感が湧いてきて、心臓がドクッドクッと騒ぎ出す。  あゆむには霊感がないし、お化け屋敷に一人で入れない程怖がりだ。でも、都市伝説を聞いたり、夏の心霊特番を見るのは嫌いじゃない。だから、消えた老婆や手元に残ったランプはまだ、不思議な体験として何とか飲み込めた。美味しい体験だとも思えた。でも、「ランプを撫でたら願いが叶い、人が現れた」――流石にこれは、異次元すぎる。  ――それに、俺はみのると漫才がしたかった訳で、誰でも良い訳じゃ…。  ドクンドクン、と、まるで耳元に心臓があるような鼓動を感じながら、戸惑う視線をリュミエンプールに向ける。すると、こちらの様子を窺っている凛々しい瞳と視線がぶつかった。 「…なぁ」 「何だ」 「もしかして…昨日、ランプ持ったり、触ったりせえへんかった?」  とりあえず、何でも良いからこの状況を解明する手掛かりが欲しくて。自分にとってのランプのような、変わった出来事はなかったかと尋ねると、リュミエンプールは「…ランプ?」と言って首を傾げた。腕を組み、難しい顔をするリュミエンプールを見て、あっ、「ランプ」じゃ伝わらないか…と、あゆむは気づく。 「えーっと、ランプって言うのは…」 「いや、ランプは触らなかったな…」 「ランプは伝わるんかい」  何で?と咄嗟にツッコむあゆむ。しかし、もしかしたら「ランプ」という呼び名が同じだけで、違う物の事かもしれない――と思い、もう一度説明しようとしたのだが。 「?水を入れて注いだり、ティティーンを飲むために使う物だろう?」 「ん~~~~、ティティーンはよう分からんけど、何となくあってそうな気がするぅ…」  身振り手振りでランプを表す仕草は、ランプでお茶を入れているように見えなくもない。おでこを掻きながら、「合ってんのかな…」と悩むあゆむ。リュミエンプールも「うぅん…」と唸りながら考えていたのだが、ハッ!と思い出したように片眉だけを持ち上げる。 「そうだ!」 「ん!?」 「いつも寝る時に、喉が渇いたらすぐにティティーンを飲めるように、ランプを近くに置いて寝るのだが」 「…おお」  だからティティーンって何やねん。と心の中でツッコミつつも、あゆむはとりあえず相槌を打つ。 「昨日の晩に、勝手に光った気がするな」 「!!」 「月の光に照らされたのかと思ったが…あの眩しさは、月の光を浴びたにしては、輝き過ぎていたように思えるな」 「…どんな風に光ったん?」 「そうだな…例えるなら、ファワッファーが光ったみたいな輝きだったな」 「うわ、また知らん単語出てきた」  あゆむは目を瞑ると、お手上げだと言うように天を仰いだ。  ゴールが近づいたと思ったら、急に遠くなったような…そんなモヤモヤした何かが胸に広がっていく。  ――頭使うん、苦手やのに…。謎解きしてるみたいで、嫌やなぁ~…。  あゆむは大きな溜め息を吐きながら遠い目をするが、リュミエンプールは気にせず話を続ける。 「ランプが光った後、急に眠くなったから寝たのだが…その時に、ランプに吸い込まれる夢を見たのだ」 「ほお!」  予想外の進展に、あゆむの目が丸くなる。しかし、興味津々のあゆむとは反対に、リュミエンプールの表情が少しずつ曇り始めていく。 「そして、目を覚ましたらここに居たのだが…」  「もしかして…本当に吸い込まれたのだろうか…」と呟くと、リュミエンプールは神妙な面持ちで口を噤んだ。さっきまでは堂々たる態度でこちらを威圧していたのに。段々と自分の状況が分かってきたのか、リュミエンプールは戸惑いながら部屋をキョロキョロと見渡している。  ――あんな文字、見た事がないな…。  リュミエンプールの目に留まった文字。それは「バッシュルズ」と書かれた、ライブに出演する人が貰える、舞台の裏と表を行き来できるスタッフパスシールだ。家の柱にベタベタと貼られた沢山のパスシールを、リュミエンプールはジッと見つめる。やはりこんな文字は、見た事がない。それに、部屋の隅に無造作に置かれている、二つ折りの真っ黒な四角い薄い箱も見た事がない。生を受けてから44年。数々の国を訪れてきたが、こんな文明に一度も出会ったことがない。  ――この者は我が国の事も、私の事も知らなかった…。やはり、私は別な国へ来てしまったのだろうか…。  あゆむはリュミエンプールの事を不審者だと思っていたが、リュミエンプールもまた、あゆむの事を不審者だと思っていた。グリビーン国は争いの少ない平和で豊かな国なのだが、大国であるが故に命を狙われることが多々ある。だから、寝ている間に刺客に連れ去らわれてしまったのだと思っていた。  だけど、あゆむから敵意や殺意は感じない。  それに、別な国に来たというよりは、これは――。 「まるで、異世界に来たみたいだな…」  自分の常識が通用しない、全く別の世界。  ポツッと溢したリュミエンプールの言葉に、あゆむは「確かに…」と目を丸くした。住んでいる国が違うのではなく、世界が違う。それなら、聞いた事がない国名が出てくるのも納得だ。  ――まじで御伽話やん…。  信じられない話だけど。でも、そう考えるのが一番しっくりくる。 「…ちなみに、ここは日本っていう国なんやけど…知ってる?」 「…いや、知らない…聞いた事もない」  ゆっくりと頭を振るリュミエンプールの声音は、明らかに落ちている。  ――…異世界から来たなんて、よう信じられへんけど…。  でも、もしそうだとしたら、目の前にいる王様は、今とても心細いのではないだろうか。  ある日突然、起きたら全く知らない…知人もいない所に身一つで居たなんて。自分なら気が狂ってしまいそうだ。  視線を落としたまま黙り込んでしまったリュミエンプールに、あゆむは胡坐を動かして体を寄せる。 「…やっぱり、自分の国に帰りたい…よな?」  沈んだ横顔に、恐る恐る問いかける。  自分が願ったせいで彼が来てしまったのなら、責任をもってちゃんと帰してあげないといけない。まずは、あの老婆を探そう。昨日と同じ時間に、同じ場所へ行けば、会えるかもしれない。  リュミエンプールを見つめながらも、あゆむはどうするべきかを一生懸命考える。すると、リュミエンプールは小さく息を吐き、口を開いた。 「……いや、別に帰らなくてもいい」  静かな部屋に響く、溜め息混じりの声。予想外の返答に、あゆむは「えっ」と固まった。 「え、っと…」  スッ…と片膝を立て、どこか悲しげな表情で自分の足元を見つめているリュミエンプール。  ――な、なんかあったんかな…。  とても自国を誇りに思っていそうな、王様なのに。「帰らなくても良い」なんて、余程の事があったのかもしれない。 「……」 「……」  2人の間に、気まずい沈黙が流れる。あゆむは不自然に「ンンッ!」と喉を鳴らすと、重たい空気から逃げるように立ち上がった。  王様の話を聞いてあげたいとは思うものの、普段先輩達に可愛がってもらうばっかりなので、弱っている人にどう声をかけてあげれば良いのか分からない。  ――こっちに来たけど、どうしよ…。  あゆむは腰に手を当てながら、キッチンとリビングをウロウロする。お尻をボリボリと掻いてみたり、カサついた肘を掻いてみたり。寝室で一点を見つめている訳ありげな横顔をチラチラと気にしながら、意味もなく冷蔵庫の扉を開けてみる。すると、緑茶の500mlペットボトルが2本あった。 「……」  その2本に、何となく手を伸ばすあゆむ。そして、一瞬右斜め上を見ると、ペットボトルを取り出して冷蔵庫を閉めた。  「憂いを帯びた顔で片膝を立てる男性」という題名が付きそうな、絵画のように様になっているリュミエンプールの元へ、あゆむはトコトコ歩いていく。 「これ、お茶って言うんやけど…飲む?」  布団の横で片膝をつき、ペットボトルを差し出してみる。まるで従者のように跪くあゆむを一瞥すると、リュミエンプールは得体の知れない緑色のボトルを、躊躇いつつも手に取った。 「これは…飲み物、なのか?」  リュミエンプールはボトルを太陽の光に透かして、目を細める。薄緑色の液体の下の方に、細かい何かがふよふよと沢山浮いている。  ――生きているのか?…いや、漂っているだけ…?  怪訝な顔をするリュミエンプールにハハッと笑うと、あゆむは自分の分のペットボトルの蓋を開けて、口をつけた。躊躇なくゴクッゴクッと喉を鳴らすあゆむを、リュミエンプールはギョッとして見つめる。半分程飲み、「はぁ~~」と幸せそうな声を出したあゆむは、固まっている王様にニコッと笑いかけた。 「上手いでぇ、これ!この国の伝統的な飲み物やねん!」 「…伝統的な、飲み物…」  呟くように繰り返したリュミエンプールは、視線をペットボトルへ向ける。依然として、緑色のふよふよが気になるが…目の前の人間が飲んでいるのだから、きっと、口にしても害はないだろう。 「……」  リュミエンプールは唇を一文字に結ぶと、意を決して蓋を回した――が。 「…どういう事だ?」  掌がスルッと回るだけで、あゆむのように上手くキャップが開けられない。困ったように瞬きをするリュミエンプールに、あゆむは「貸してみ」と言う。差し出されたペットボトルを受け取ると、あゆむはふん!と力強く鼻息を出しながらキャップを開けた。 「これ、開けるのコツいんねん~」 「ありがとう…」  どこか微笑ましそうに自分を見つめる視線に居心地の悪さを覚えつつも、リュミエンプールは礼を言う。そして、緊張の面持ちでペットボトルに口をつけると、ぎこちなく手を傾けた。 「?」  ――…飲み口がやけに狭くて飲みづらいな…。  唇に冷たさは触れるけど、口の中まで入ってこない。あゆむが飲んでいた姿を思い出し、頭ごと後ろに傾けてみる。その瞬間、舌の上を滑った爽やかな苦味が、ふわっと口いっぱいに広がった。 「!!」  生まれて初めて口にした味に、凛々しい瞳が驚きで丸くなる。ゴクッゴクッと数度喉を鳴らしたリュミエンプールは、ゆっくりと口からペットボトルを離すと、「ほぉ…」と感嘆の息を吐いた。 「美味しい…」  思わず声にしてしまった。そんなリュミエンプールのリアクションに、あゆむはパァァッと顔を輝かせる。 「せやろ~!?」 「ああ…!ティティーンに似てるが、ティティーンよりも渋くて、これはこれで美味しい!」 「…ティティーンって、もしかしてお茶の仲間なんか?」 「む…『お茶』という物はよく分からないが…こんな風に色が付いている、香り豊かな飲み物だな」    リュミエンプールは再びペットボトルに口をつけ、フッと微笑む。言葉を知らない子供なら兎も角、大人相手に「ティティーン」の説明をするという状況が、何だかおかしくて。  クセになる苦味を口に含み、喉仏を上下させる。飲んだ事はない筈なのに、何故か飲むと安心する。お茶という物は不思議だな…と思いながら、リュミエンプールはホッ…と柔らかな息を吐いた。 「あの~…言いたくなかったら、言わんでもええんやけどさ」 「なんだ?」 「…なんで、元の世界に帰りたくないん?」  胡座をかいたあゆむは、あまり重たい雰囲気にならないよう、軽やかな声で尋ねてみる。リュミエンプールは一瞬瞬きを止めると、ほんの少し俯いた。 「あ!無理に言わんでも」 「いや、別に大した理由じゃない」  慌てたあゆむの言葉を遮るように、リュミエンプールは頭を振る。  ――あ~、聞かん方が良かったかな…。  再び押し黙ってしまったリュミエンプールの横顔を見ながら、あゆむは内心「やってしまったなぁ」と反省する。気まずそうにボリボリと頭を掻いていると、硬い表情が僅かに動いた。 「帰りたくない訳ではないんだ…だが、少し疲れてしまって」 「!」  「疲れてしまって」――そう力なく言うリュミエンプールに、あゆむはハッとする。薄く笑う切ない顔が、みのるの憔悴した姿と重なって。  胸の奥が、ギュウッと絞られるように痛む。  「俺が徳山を追いつめた」「解散した」「相談もしてもらえなかった」「まだ一緒にやりたかった」――昨日蓋をした罪悪感や悲しみが、あゆむを負の感情へ引っ張ろうと手招きする。自然とハの字になる眉毛。このまま落ち込んでしまいそうになるあゆむを止めたのは、リュミエンプールの言葉だった。 「丁度、暫く1人になってみたいと思っていた時だったのだ。だから…そんな私の願いを、『ゴッド』が聞いてくれたのかもしれないな」 「…『ごっど』って?」  あゆむはペットボトルの水滴を指で弾きながら、視線だけをリュミエンプールに向ける。 「ああ、『ゴッド』は国民全員が崇めている…言わば、信仰宗教の象徴のようなものだな」 「え!…それ、ほんまに神様のことやん!」 「『ほんまにかみさま』?」  あんぐりと口を開けるあゆむに、リュミエンプールが不思議そうに問いかける。 「こっちの世界でもな、言うねん!信仰宗教の象徴の事を『神様』とか、『ゴッド』って…!」 「ほお!『ランプ』以外にも同じ言葉があったのか」    「共通点が見つかると、面白いな」と言って微笑むリュミエンプール。あゆむも笑顔で答えながら、今まで出てきたグリビーン語を頭の中に思い浮かべてみる。  ――犬は「ワソーワソー」…お茶みたいな飲み物は「ティティーン」…「ランプ」は「ランプ」…謎の「ファワッファー」に、神様と同じ「ゴッド」…。    言葉が同じだったり、違かったり。これには何か規則性があるのだろうか。 片手で頬を撫でながら、あゆむは真剣に考えてみる。だけど、頭の中を「ワソーワソー」や「ティティーン」、「ファワッファー」という言葉が飛び交うたびに、俺は今何を考えているんだろう?…と、馬鹿らしくなってくる。 「ふふっ」  自然と笑い声が溢れ落ちる。  さっきまでは、解読が面倒くさいと思っていた意味不明な言葉たち。これが、段々面白くなってきた。 「そや!」  ポン!と手を叩いたあゆむは、ペットボトルを横に置き、周りに視線を向ける。そして、床に転がっていたオレンジ色の丸いクッションを手に取ると、「なぁ」と言ってリュミエンプールに見せた。 「これ、そっちの国では何て言うん?」 「?これは『クッション』だな」 「おお~!これも俺らの世界と一緒や」 「ほお!」 「いえーい」  あゆむがハイタッチを求めると、リュミエンプールも戸惑いながら、同じように手を上げてみる。そのぎこちない掌に手を重ねると、あゆむは嬉しそうに笑った。言葉が同じものを見つけると、クイズに正解したみたいで、ちょっと楽しい。ワクワクしてきたあゆむは、次の問題はどれにしよう…と辺りを見る。 「あっ!ななっ、じゃあこれは?」  そう言ってあゆむが指を差したのは、リュミエンプールの後ろにある枕。すると、リュミエンプールは後ろを振り返り、「ああ」と呟いた。 「これは『ポウ!』だ」 「ポウ!?!?」  枕がの呼び名が「ポウ」。  まるで必殺技のような呼び方に、あゆむはお腹を抱えて笑い出した。 「ぎゃははは!なんやねん、『ポウ』って!枕が『ポウ』って!」 「違う!『ポウ』じゃない、『ポウ!』だ!最初にアクセントがつくのだ!」 「イーッヒッヒッ!そんなんどっちでもえーやん!」 「ばっ…!全然良くない!」 「『ポウ!』って…!『ポウ!』って…!」 「このっ…笑うな、無礼者!」    膝を叩きながら笑い転げるあゆむに、また我が国の言葉を馬鹿にして!と、リュミエンプールは憤慨する。  ――あ~、おっかしい~~。  お互いの国の言葉を確かめているだけなのに、こんなに面白い会話になる。誰でも分かるような、難しくないシンプルな笑い。それは、本来あゆむが目指していた笑いでもある。 「おい、笑いすぎだ」 「ごめんごめん」  ジトッ…と目を細めるリュミエンプールに、あゆむは両手を合わせて謝る。「はぁ~」と言いながら、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭うと、金の房が何本も垂れ下がるリュミエンプールの左肩に、あゆむがポンと手を乗せた。 「なぁ、帰らないなら暇やろ?」 「む…まぁ、特に何をしようと思ってる訳ではないが…」 「じゃあさ、一緒に漫才やらへん?」  フフッと力の抜けた顔で笑う。朗らかなあゆむの笑みを見て、リュミエンプールは片眉を上げる。 「『まんざい』?」  何だそれは?と目で問う王様に、あゆむは「そうやなー」と言って斜め上を見上げる。 「2人でな、お客さんの前で喋んねん」 「?ただ喋るだけなのか?」  人前で喋るなんて、今まで数え切れない程こなしてきたが…それを日本では「まんざい」と言うのだろうか。 「いや、2人で面白い話すんねん。みんながドカーン!と笑うような」 「面白い話?…国益がどのくらい上がったか、とかか?」 「ちゃうわ!そんな固っ苦しいやつやなくてやな~、そうやな…さっきの、枕のことを『ポウ!』って言うとか。あれ、めっちゃ面白かったで!」 「…それは勝手にそっちが笑っているだけだろう。私は何も面白くない」  ムッと眉間に皺を寄せてそっぽを向くリュミエンプール。すっかり機嫌を損ねてしまった逞しい肩を、あゆむは「ごめんて~」と言いながら優しく揺する。 「俺、何となく2人のネタ浮かんできてん」 「…『ねた』、とは?」 「えぇっと、さっき言った面白い話のこと!俺ら2人ならな、ドカーン!とみんなを笑わせられそうな気がすんねん」  あゆむは両手を大きく広げて、ニカッと笑う。 「でも、面白い話をしようなんて考えて喋ったこと…」 「大丈夫!俺が何とかする!」 「しかし…」 「それに!王様は住むとこあるん?」 「…!!」 「この世界は働かないと生活でけへんで。お金を稼がんと、住む家も借りられへんし、ご飯も食べられへん。王様はこの国をなーんにも知らんやろ?1人でやってけるん?」 「!そ、それは…」 「俺と漫才やってくれるなら、一緒に住んでもらってええし、ご飯…はあんまりええもん食べさせてあげられないかもやけど、困らないようにするで!」 「うっ、」 「だから、なっ!どや!?」  あゆむは困惑するリュミエンプールに、キラキラの瞳を近づける。  我ながらちょっと強引だと思うけど。リュミエンプールが日本の文字も文化も分からない事は事実だし、国への戻り方が分からない今、これがお互いウィンウィンになれる案だと思う。  ――ここで簡単に頷いてしまったら、想像以上に面倒な事になる気がしてならないが…。  勢いで押し切ろうとするあゆむに、正直、嫌な予感がする。だけど、無邪気な瞳を自分に向けるあゆむを見ていると、子供の頃に飼っていた小型のワソーワソー…基、小型犬を思い出してしまい、非常に断りづらい。 「……よく分からないが、人前で喋るだけで良いのか?」 「!っ、おお!俺が作った話を覚えて、話すだけでええ!」 「…上手く喋れなくても良いのか?」 「おお!大丈夫や!」 「じゃあ…やってみよう」  全く気分は乗らないが。あゆむにお世話にならないと生活できない事は明白だし、その対価としてやるしかない。  渋々と首を縦に振ったリュミエンプールに、あゆむは満面の笑みでガッツポーズをする。子供のように喜ぶあゆむを見て、リュミエンプールはフッと呆れたように笑う。 「貴様…いや、其方の名前は何と言うのだ?」  スッ…と背筋を正して、リュミエンプールは問いかける。 「そうやん!俺の自己紹介、まだやったな!」  あゆむはポン!と手を叩くと、スウェットで右手をゴシゴシと拭き、リュミエンプールに差し出した。 「俺は、堂平あゆむ!堂平でもあゆむでも、呼び方はどっちでもええで!」 「あゆむ…私のことは、そうだな…リュミと呼んでくれ」 「おお!これからよろしくな!リュミ!」  「ん!」と右手を揺らすあゆむ。しかし、差し出された手をどうすれば良いのか分からず、リュミエンプールはあゆむの手と顔を交互に見ている。 「これは握手って言って、挨拶の時にするんや」  柔らかく目を細めたあゆむは、リュミエンプールの右手を掴み、自分の手を握らせる。 「ああ、そう言えば、これが握手だったな…」 「ん?」 「いや、何でもない。…よろしく頼む」  リュミエンプールはふと表情を和らげて、あゆむの手を握り返す。  ――そうだ。子供の時は…王子の時までは、たまに握手もしていたな。  友人や客人と、気軽に握手をしていた。しかし、15歳の時に父が急死してしまい、自分が王を務めることになってからは、皆跪いて挨拶をするようになってしまった。自分と自分以外の人々との間に、明確に線を引かなければなかったあの瞬間は、今思い出しても胸が痛む。  久々に触れる、他人の温もり。  それが思いの外温かくて、リュミエンプールは目尻に皺を刻んだ。 「…おぉ?なんか震えてる音がするな」  にこやかに握手をしていたあゆむは、どこかから聞こえるくぐもったバイブ音に気付き、ニュッと犬のように首を伸ばす。訝しげな顔で、ブブブブブ…と鳴り続けるバイブ音に耳を澄ます。数秒眉間に皺を寄せ、「あっ!」と大きな声を上げると、あゆむは慌てて立ち上がり、走り出した。  不思議そうにこちらを見る視線を背に感じながら、玄関に行き、床に放り投げられたままのリュックに手を伸ばす。湿ったリュックを開け、表紙がふにゃふにゃになったメモ帳や雨臭いタオルを掻き分ける。そして、奥底でブブブ…と震え続けているスマートフォンを見つけると、あゆむは「ほあぁ~~~…」と安堵の息を吐きながら取り出した。 「良かっっったぁ~…スマホ生きてたぁ…」  防水仕様のスマートフォンだけど、流石に昨日の大雨でダメになってしまったと思っていた。あゆむは表示された着信名を確認して、急いで画面をスワイプする。 「はい、堂平で…」 「あ――――っ!!やっと出たぁ、堂平さん!」  パァン!と鼓膜を突き破りそうな大声が、あゆむの耳に襲い掛かる。 「お、大山…声でかっ」 「あっ!ああ、すみません!」  咄嗟に耳を離して顔を顰めるあゆむに、香穂は電話の向こうでぺこぺこと頭を下げる。昨夜あゆむと別れた後、あゆむの様子が心配だった香穂は、家に帰ってからも着替えをせずにあゆむに連絡し続けていた。いつ着信が来ても良いようにリビングのテーブルに凭れて寝ていたので、香穂の頭はアホ毛が飛び出してボサボサだ。香穂はほぼ消えてしまったアイシャドウを擦りながら、漸く繋がった電話にホッと胸を撫で下ろす。 「あ~、良かった…。私、何度も電話をかけたんですけど、全然お出にならなかったので…堂平さんがショックで死んじゃったんじゃないかって、心配してたんですよぉ」 「おい、俺を勝手に殺すなや」  と、反射的にツッコミつつも、香穂の気の抜けた声から、本気で心配していた事が伺える。 「…心配かけて、ごめんな」  おっさん達のいざこざに関わるなんて、若手社員には荷が重かっただろうに。昨日、香穂に八つ当たりしてしまった自分が恥ずかしいし、申し訳ない。  ポリポリと頭を掻きながら反省するあゆむに、香穂が「あの…」と恐る恐る声をかける。 「ん?」 「…堂平さん、芸人辞めないですよね…?」  香穂は大きな目を瞬きながら、ジッとスピーカーに耳を傾ける。昨夜の落ち込みっぷりを見ていたら、あゆむがこの業界から去ってしまうのでは…そんな不安が浮かんでしまって。  強張った表情で返答を待つ香穂。  顔が見えなくても、緊張しているのが伝わってくる香穂の空気に、あゆむはフッと口角を上げる。そして、「辞めへんで」と言うと、徐に立ち上がった。 「本当ですか!?」 「おお、本当や」 「良かった~!じゃあこれからどうやって活動するか、一緒に…」 「俺、コンビ組む事にしたわ」 「…えっ!?」  笑顔で喋っていた香穂の顔が、瞬く間に驚愕の表情に変わる。 「ココココンビですか?へっ?徳山さん、じゃないですよね?」  「えっ?えっ?」と電話の向こうでパニックになっている香穂に、あゆむはフフッと笑う。そして、ペットボトルに浮かんでいるふよふよ――茶葉を興味津々に眺めているリュミエンプールの元へ行くと、あゆむは楽しそうに目を弧にした。 「おお。面白そうな相方見つけてん」  今、目の前で凛としたオーラを纏っているリュミエンプール。  彼は本当に異世界から来た王様なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。もしかしたら、やっぱり不審者なのかもしれない。だけど、リュミエンプールが何者かは、一旦今は置いておきたい。  リュミエンプールと一緒にお笑いをしたら、楽しそうな気がする――そんなドキドキとワクワクで、今は胸がいっぱいだから。 「新生・バッシュルズの始まりや!」  あゆむは高らかに宣言する。  と同時に発せられた、ビリビリと空気を震わせる香穂の「え――っ!」という叫び声に、リュミエンプールはビクッ!と肩を跳ね上げた。 「なっ、何だ!?今、人の声が聞こえたが…はっ…!もしかして…そ、その黒い物から声が聞こえたのか…!?」  グリビーン国にはスマートフォンが無いらしい。リュミエンプールはあゆむの耳元にある薄くて黒い機械――スマートフォンを指差して、化け物を見るような目で顔を引き攣らせている。  ――いやいや、反応おもろすぎるやろ!  一国を統べていた王様とは思えぬ慌てっぷりに、あゆむは思わず吹き出してしまう。 「あははは!」 「ああああゆむ!笑ってないで教えるのだ!」 「え、堂平さん、そこに誰か居ます!?」 「ちょっ、いっぺんに喋らんとって!ふははっ!」  芸歴23年目から始まる、新生・バッシュルズの幕開け。  それは、あゆむの大きな笑い声と共に始まった。 ================ ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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