8人が本棚に入れています
本棚に追加
家長は小学四年生
綾鷹邸の庭園にこの朝も、春告鳥のさえずりが響き渡る。
綾鷹総合病院を興した当主が、夏場も涼やかなこの土地に立派な邸宅を構えたのは、百年も前のことらしい。
現在の所有者は病院の院長と理事長だが、彼らは都心に定住し、杉の香り漂うこの平屋敷の統率は、まだ幼いお嬢様に一任されている。
「「里梨お嬢様、おはようございます」」
齢九つの家長は毎朝七時、屋敷を仕切る女中頭と共に廊下をわたり玄関へ向かう。
「おはよう、みんな」
「おはようございます。里梨様」
運転手の俺が開けて待つバックドアの前に立つと、きちっとブレザーを着こなした彼女は透明感あふれる声を放つ。
「おはよう、雪路。今日も安全運転ね」
「はい。心得ておりますよ」
教育の行き届いた上品な振る舞いで、里梨様は車に乗り込んだ。
学校への道のりに、ルームミラーで後部座席の里梨様の様子を一瞥すると、その横顔は少々緊張を帯びている。長い睫毛の下の、黒々しい瞳に少しの潤いをたたえ、窓の外をじっと眺める彼女。
明け方六時五分前、目覚めてすぐの一声はこれだった。
──『おはよう。ちゃんと手を握っておってくれたのじゃな』
瞬間、差し込んだ朝の光が彼女の白い頬を照らし、俺の目に明々と飛び込んできた。それはたいそう安心したような、ふわりとはにかむ笑顔だった。
しかしどこか照れくさいのか、そんなことがあった朝はいつもよりすました顔で二度目の「おはよう」を、使用人らの前で俺に投げかけるのだ。
いつも車に乗りこみ俺と二人になると、彼女の口調や気性は前世のものになる。天真爛漫でおしゃべり好きなあの姫の…。
ただ、今この時は口をつぐみ、ぼんやり流れる緑の景色に心を委ねている。
この物思いにふける表情は、まだ九つと思えないほど冷然としたものだ。
外界を見ているようで見ていない。見ているものはきっと、もっと遠くの──
あの夢をみた朝の里梨様はいつもそう。
なぜなら。
感覚を研ぎ澄まし、前世の忌まわしき記憶と共に持って生まれた力を開放すれば、とある探し物が見つかる。
かつての夢は悪夢であるが、彼女に好機をもたらす予知夢でもある。
最初のコメントを投稿しよう!